満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

         AUTECHRE   『QUARISTICE』      

2008-04-19 | 新規投稿
 
シュルレアリスム運動は詩、映像、造形、絵画、パフォーマンスなど様々なジャンルでその‘超現実性’を志向したが、その絵画部門で最も同グループのコンセプト、理念を具現化したのは一般知名度で勝るダリやミロ、エルンストではなく、イブタンギーである事を同運動のリーダー、アンドレブルトンは認めている。それはイブタンギーの絵に見られる徹底された非―既視性の為だと思われる。その絵に登場する謎めいた物体は、‘何物をも想起させない事‘でその‘超現実性’を体現した。

ダリやミロ、エルンスト作品に見られる溶けた時計や山高帽子、鳥獣等はいずれも何かしらの既成物の変形や象徴化であり、デフォルメ的発想を超えていない。対し、タンギーが描くものは未知なる物質、得体の知れぬ微生物、見た事もないような鉱物。アメーバの群れといったもの等で、私達の創造の埒外に在る、‘非―既存性’そのものという感じがする。これは気色悪いほど美しく、不気味なほど魅力的な未知世界であり、‘何物をも想起させないもの’として観る者の想像力を不安にさせ、また刺激する。

突然変異的な物体が無数に飛び交う時に起こる摩擦音のシンフォニー。
オウテカの音楽を私はそんな風に捉えている。
それは極めてタンギー的なシュルレアリスム世界を音楽で現出させている。オウテカが選ぶ素材や加工された音響、または最終的にアレンジされた音楽は何れも、非―音楽的コンテキストに貫かれ、その徹底ぶりが際立っている。音のエッジがもたらす刺激性や反復ビートとポリリズムが交差するテンションがインパクトを放つのではなく、音楽が何かしらの既成物を喚起させない純正物質的なものを感じさせる、その質感がすごいのである。‘非―音楽的コンテキスト’と書いたが、それは楽器の音や物音、自然音など、我々が‘理解可能な全ての既成の音’に対する‘非’を指すと同時に人の内面や思惟、感情などを含む‘現実世界’総体に対する‘非’であると言ってもいい。‘既成物’とはデジャヴ感覚も未来志向も含めて人がその想像力の範囲で感受、批評でき得る対象の事である。オウテカが持つ‘非―音楽的コンテキスト’とは、その全てから遮断されたような音感を伝播させるものであり、それを有する事で同時代エレクトロニカはおろか、過去のエレクトロニクスミュージック全般を見ても、オウテカほどの特質は見られない。過去のノイズミュージックもそれらの多くは‘ノイズ’という‘掌握可能な音’でしかなかった。

反論もあるだろう。オウテカは明確にクラブシーンというダンスカルチャーにその表現の母体を持っているのだから。クラブシーンを抜きにオウテカを感受する事も理解する事もできないとは思う。オウテカはかなりシンプルにダンス音楽、肉体的音楽を背景に持つと断言してもよく、その‘踊れない’テクノがダンスから乖離するのではなく、逆に ‘踊る’カテゴリーに関し人々に意識変革を促す意義こそを主眼に置いていると言えなくもないのだろう。しかし私の感じ方は別のところにある。他のエレクトロニカと比べ、もっと際立つ個性がオウテカにある。

私にとってボーズオブカナダとオウテカが別格的存在なのは、両者の音楽にある物語性ゆえである。この‘物語性’こそが両者の基底にあると信じて疑わない。
即物的音響の極みを革新し続けるオウテカは、非―既存性の物性音を奏でながら、いつもアルバム全体に濃厚な物語性がある。オウテカの音の物性は一見、反物語的、脱構築的であろう。そこには初めて聴くような違和の音塊が溢れ、それこそイブタンギーのような‘未知なる物質’、‘得体の知れぬ微生物’、‘見た事もないような鉱物’、‘アメーバの群れ’の如き音達が疾走している。
電子音楽に微量なメロディを送り込んで人間味を出したり、情緒に訴える手法はよくある。それらは物語性を醸し出すのに有効だ。しかしオウテカはこれ以上ない無機質性や先述した‘非―音楽的コンテキスト’によって濃厚な物語の構築を可能にした。オウテカは無機的音響による有機的結合、自由な運動と拡散による構築美こそを目指しているのではないか。まるで不規則運動を繰り返す微生物が最終的に意志を持った秩序に至るような感触があるだろう。アルバムにはプロローグからクライマックス、エピローグへ至る確かな筋道が用意され、フリーな音響活動が計算されたような一つのフォーマットに繋がる。その完成度にこそ私の驚きがある。

オウテカにあって、その作品性は重要だ。アメーバのように不規則な偶発的運動を繰り返す音達が実は作品性という普遍性を有している。それぞれのアルバムのホームリスニングに耐えられるその完成度、内容の多彩さ、曲の進行に於ける変幻自在さこそを注目すべきなのだ。クラブのシステムで大音量で再生しないと、どうしようなくしょぼい多くのエレクトロとは訳が違う。クラブシーンに於ける一回性の美学や瞬間速度的な消費サイクルが、音楽構築ならぬ解体のラディカリズムを誇るのも良い。ただ、アーティストは残された音源の50年後の評価や未来的客観性に挑むべきでもあるだろう。オウテカはその‘作り込む’作業性が、いかなる環境においても‘聴ける’ものをつくろうとする意志に貫かれていると強く感じさせる。

物語を構成する起承転結の創造や、最高潮の無意識的構築に於いてエレクトロニカシーンの中で際立つ存在なのがオウテカである。それはプログレ的、それもジャーマンエレクトロやゴング等の音響派ではなく、ジェネシスやヴァンダーグラフジェネレーター等が持つ文学臭や幻想奇譚にも通じるという意見は私だけだろうか。バロウズ的アンドロイドやサイバーパンクも含め、あらゆる物語、それらの言葉なき音象化に繋がる音楽性を有していると私は直感する。従ってオウテカの‘踊れない’テクノもその音楽の強固な物語的発揮物がリゾーム性を伴ってダンスカルチャーへ侵食しているという見方に整合性があるのではないか。

待望の新作『QUARISTICE』。
アメーバの群生が不規則に運動するような超物質的音響が響く。相変わらず。
以前には無かったようなアンビエント風味が要素として若干、あるにはあるが、それとてチルアウト的感触には至らない。やはり強力な物質性が勝る。しかもその運動範囲の拡大が今回の新作の特徴だろう。従来の限りなく内側へ向かってこんがらがるようなリズムの応酬ではなく、無数のビートが空間をゆっくり勝手に拡散してゆくような無意識的増殖性への変化が見られる。強いて言えば音の凝縮度がやや薄まり、部分的にテンポダウンする事によって、以前よりも間は生まれている。しかしそれもアンビエント的安寧の表現ではなく、攻撃性を瞬発に捉える為のダイナミクスの表現と見た方が正確だと思われる。場面場面での速度変更が特に際立つのがこの新作『QUARISTICE』だろう。

人はダンスフロアーでオウテカを感じ、変速ビートや音の捻れに体を揺らし、対応する事で、再び感じる。‘踊れない’テクノに踊る。とまどいながらも、ステップを踏み、体位を入れ替える。感じるだけで良い。何かを。考える必要はない。しかし、そこでの感覚は概念をスルーしたのではなく、結果的に何かしらのストーリーを喚起させる体験性を意識に沈殿させるはずだ。

オウテカ来日公演。4.26クラブカーマ。チケット買った。仕事終わってから行く。11時スタートのオールナイトイベント。終了朝5時。その後、仕事。しんど。寝られへん。楽しみである。

2008.4.19

 

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          ちあきなおみ   『百花繚乱』      

2008-04-15 | 新規投稿
 
ブログで新譜批評を始めて約1年になるが、その70本程のアルバム評の中に普段、最も聴いている筈のR&B、ソウル、ファンク、ブルースが殆どない事に気づく。なぜ書かないのか。多分、書けないからだ。書く言葉がみつからない。マービンゲイやJB等、肉体的、感情的表現を極めた音楽を聴く時、その感動の言語化を無効にするような感覚に捕らわれる。そんな時、私ごときに一体、何が書けると言うのか。書く行為自体に意味を見出す事がしばしば困難になる。もはや音楽に浸り快楽に酔う、そして感動に泣くという事以外に何もする事などない。しかも私が実感するブラックミュージックの高濃度な感動とはエロスやエモーションが知性と重なり合う事で発揮される優位性に他ならない。感情の放流状態やリズムの快楽指数の中にある構築美、知的空間こそが、聴く者を失語症にさせる本質的な力なのではないか。アレサフランクリンのBOXセットについてずっと書こうと思っているが、ここでも聴く快楽時間が全てに勝り、やはり書けない。ここに流れる音楽時間とはいわば‘瞬間の至高点’なのだ。音楽が終われば、そこに完結があり、後には何も残らず、全ては不要となる。しかも音楽が流れる最中に聴く行為以外の営みが入り込む余地はない。

そんな感慨を抱かせる歌手が日本にもいる。
ちあきなおみを聴く時、私は呆然とするような無の状態に陥る自分を発見する時がある。
卓越した歌唱力をしばしば指摘されるこの歌手はそれ故、プロ中のプロなのだろう。私もそんな歌の上手さに感嘆しているのは間違いない。しかし私の感動とはちあきなおみが多彩な楽曲を引き受けながら苦闘するように挑むその姿そのものに対するものであると言っても良いかもしれない。いわば、人間、ちあきなおみに感動しているのだ。彼女の人生やドラマを想起しながら歌声に打ち震え、歌の物語に同化する感動なのである。

「気持ち悪い歌ですねえ」
かつて「夜へ急ぐ人」を歌い終えたちあきなおみに対し、司会者が言い放った事があった。周囲の批判の中、異能の天才、友川かずきの曲を取り上げる時、ちあきなおみは正に歌う鬼神のようであった。刺すような眼光で髪を振り乱していた。彼女の本領をそこに見る事ができるだろう。ちあきなおみこそが美空ひばりに匹敵するトータル歌手である所以は彼女の歌唱力とその歌を演じきる天才性にこそあるのだから。

「喝采」が流行ったのは私が10才の時。テレビの中で虚空を見つめるような眼差しで歌うちあきなおみを覚えている。誰をも釘付けにするような神秘的なオーラを発していた。その目は霊的なものを求めるかのように彷徨い、歌声は天上に届く祈りのよう。70年代とは実にとんでもないレベルの芸能がお茶の間で観られたものだと思う。
最近、古い紅白歌合戦で船村徹の生ギターをバックに「さだめ川」を歌うちあきなおみの映像を見た。言葉にならない衝撃がある。何なのだ。この歌のすごさというのは。ちあきなおみが歌と一心同体になる瞬間芸がそこにある。歌の意味や登場人物の人生や時代背景を瞬時に裡に咀嚼し、全的表現を遂行する姿。歌う表情や体の動き全てが説得力の塊と化し、研ぎ澄まされていく。

歌神、ちあきなおみは夫の急死(92)を境に事実上の引退状態にある。
今回、最後期の活動期間であるテイチクレコード時代のアルバムが全て復刻リリースされた。『百花繚乱』(91)は現段階のラストアルバム。楽曲を深く理解し、感受するちあきなおみの真骨頂がここでも見られる。その表現力はもはや、編曲者としてクレジットされるべきものではないのか。曲によって表情を変える語り部。歌が生き物のように顕れ、聴く者の眼前に大劇場をつくる。一つ一つの短い曲が壮大なドラマに変容する。

またも歌われる友川かずきナンバー。この「祭りの花を買いに行く」の美しさを昔、「夜へ急ぐ人」を「気持ち悪い歌」と評した司会者はどう聴くのか。2曲にどこに違いがあるのか。同じなのだ。ちあきなおみは歌を選ばない。徹底された歌手とは往々にして自作自演者よりも表現力で勝るものだ。作曲者の内面に歌い手の心が通底するイニシエーションを経過し、現れ出た歌。生命を帯び、真の客観性、力に至る。

小坂明子の「あなた」を歌ったちあきなおみを例に見るまでもなく、私達は歌というものがそれを歌う歌手の力量によって、まるで違うレベルに昇華されるのを見てきている。
小椋佳の作曲による「あなたのための微笑み」に見られる悲劇すれすれの微妙な心の襞、揺れる心境を、絶妙な声の震えによる歌唱トーンを実現するちあきなおみの凄さ。劇的なアレンジを見通し、敢えて部分的にトーンダウンするような歌い方を感じる。悲恋でもないが、成就された愛でもない。そんな不安定の表現を旋律豊かに歌う深み。何ともの悲しく美しい曲なのか。  

ちあきなおみは歌を自己表現と捉えず、歌の中に深く入っていく。いわばそれを媒介する巫女のような存在なのだ。原曲に対する批評観点よりも自らの表現力の振幅を対置する。芸の媒体に対峙する姿勢に一貫性がある。あくまでもそれらは他者なのだ。従ってまず違和感があり、そこへ挺身する精神状態に自身を高めてゆく。ちあきなおみにしかでき得ないパフォーマンスの深みがここに生まれる。CM「タンスにゴン」でのひょうきんクレイジーな芝居もそんな彼女の芸能資質で理解されよう。

アルバム『百花繚乱』に収められた究極のナンバー「ほうずきの町」。
作曲は服部隆之(あの服部良一の孫である)。6年前にリリースされた10枚組CDBOX『うたくらべ』で初めてこの曲を聴いた時、私はこの上ない感動に見舞われた。

「ほうずきの町」

打ち水、簾、竹しょうぎ
風鈴チリリン 宵の風
そぞろ歩いた ほうずき市の
浴衣姿がうれしくて

墨田川あたりでお酒を飲んだわね
ほんのり薄紅色の
私の手を取って歩く
あなたの横顔に 風を感じていた


とてつもない名曲。名唱。
感動。感涙。
しなやかにグルーブされるリズムに乗る美の旋律。穏やかで、たおやかな言葉の流れ。聴いて希望、また聴いて希望。ノスタルジーが現在の自身を投影し、心が満ちてゆく。これは単なるラブソングなのか。
愛に恵まれた人、そうでない人、愛を得た人、失った人。
全ての人の心に吹く暖かい風のような歌。幸も不幸も同一の地平に抱擁する賛美歌。人生を肯定し、諦めさえも軟着陸させ、心静める力が湧き出てくるようだ。
究極の美を表現した歌の神髄がここにある。歌という営みが成し得た一つの奇跡。

歌に生きたちあきなおみの長き沈黙を想う。
実生活では愛に生きる人だったのだろう。夫の死は彼女を打ちのめし、もはや歌う精神状態を彼女から奪ったようだ。そこまで深い愛だった。彼女は様々な愛や物語を歌いながら、現実の夫婦愛を生きた人だった。彼女のパフォーマンスの充実の前提に現実での愛の成就があった。歌は実は彼女の外部に存在したのだ。現実の愛を喪失した時、ちあきなおみはあっさりと歌を捨てたのか。

思わぬ事で結果的にラストアルバムとなっている『百花繚乱』のラストナンバーは「そ・れ・じゃ・ネ」である。
ラストアルバムの最後に偶然、このタイトル曲が座った。宿命を感じざるを得ない。しかし、この曲のさりげなさはどうだ。シティポップ風の軽やかな歌が奏でられる。別れ言葉をさり気なく言って、去ってしまったちあきなおみ。歌う神の化身は静かな伝説となっている。
しかし、私達に残された音源の目映いばかりの光が、広く伝播してゆく事は必然のようにも思われる。それはソウルミュージックのように拡がってゆくかもしれない。

2008.4.15
 
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PRINCE 『PLANET EARTH』

2008-04-05 | 新規投稿

福井県小浜市が米民主党の大統領候補オバマを応援する会などを作り、勝手に物を送ったりして、日本の恥をさらしている。同じ名前という事だけで面白くもない親父ギャグを外国に発する無神経さ。案の定、当のオバマには相手にもされていない。平和ボケを通り越したもはや幼稚なお遊び如きを公的にやってしまう、この日本独特の脳天気さが許せない。町興しなら別のやり方でやればいい。こんなものシャレでもユーモアでもない。阿呆だ。「その政策にも共感している」などと厚顔無恥な言い訳けまでしている。じゃあ訊くがお前達は何故、ヒラリーじゃなくオバマなのだ?そもそも何故、民主党なのだ?小浜市と言えば拉致被害者もいるだろう。拉致問題の早期解決の為には比較的、親日的な共和党、マケインを応援するのが本筋じゃあないのか。そんな単純な話じゃないって?もっと深い読みと分析があるって?ああそうかい。勝手にやってろ。

と、どうでもいい事でムキになってしまったが、私はオバマには興味を持っている。
「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。ブラックのアメリカもホワイトのアメリカもラティーノのアメリカもアジア人のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”なのだ」

きれい事でもあり、戦略的言説でもあるが、彼のエネルギーの源泉に一種の‘アイデンティティークライシス’がある事は感じられる。黒人と白人のハーフ。父はイスラム。自らはプロテスタント。ルーツが単純に規定できない多様性を背負ってしまった苦悩。それが思考の包容感覚、多義性に直結しているのか。人権派でありながら国家主義者。格差や貧困を社会と個人の双方に対する責任と因果関係に求める真のニュートラル精神。自らの立場をワンサイドに置く‘解りやすさ’を放棄し、総体を意識する困難に向かう気構えを感じる。それとも単なる二枚舌なのか。ただ、パウエルでさえ自制した黒人初の大統領という座を目指してしまった自分の拠り所をもはや相対的な思想には見出せなくなっているのは確かだろう。多様性を貫いて自爆するか、それとも大ブレイクするか。

「父親が黒人で母親が白人」と昔、嘘をついたのはプリンスだった。子供じみたジョークにしては内面の屈折度が推し測れるというものだ。こんなまるで朝日新聞のような捏造をばらまく彼もまた、遙かなる多様性を希求する‘アイデンティティークライシス’の持ち主だろうか。もっとも、その変幻自在な才能、広角な音楽性を顧みれば、彼を単なるブラックミュージックの旗手と規定しなかった世間にも許容されるジョークではあるだろう。80年代のプリンスの驚異的な作品群は黒人音楽をリードし、超越し、無効化していた。プリンスはあの時代、確かに<プリンス>というたった一つのジャンルだった。JBもスライもスティービーもマービンもアイザックも彼の中にはいたが、私達はプリンスにブラックミュージック的後継ではなく、突然変異的アーティストの戦慄性を見ていた筈だ。

ブラコン化した瀕死のソウルミュージックの灰の中からプリンスは現れた。初期のソウルモードから徐々に戦略的変身に至りポップスターとなる。それは白人迎合的な結果ではなく、内部の屈折感覚、特異な感性からくる必然的発展であっただろう。彼の内部には、あらゆるセクトの解消に向かうラジカリズムがあったと思う。黒人アーティストとして当然持つソウルアイデンティティーすら既成概念を差異と認め、溶解させた。ヒップホップ台頭期にもそれらとリンクする強力なリズムを有しながらプリンスは結果的にメジャーな音楽性を誇示した。白人ハードロックもどきのエレキギターを偏愛する姿にはもはや、‘超越ポップ’としての天才性が見えたものだ。
人種やナショナリティ、性差までもイメージ的に解消した小柄な黒人。気持ち悪いエロさ、悪趣味。そのマッチョと程遠い‘異人’キャラクターは新たなブラックミュージックの創造を思わせたが、そのフォロワーは生み出さず、孤高の天才となる。作曲、編曲、演奏、制作、ビジュアルイメージ、全てを一人でやってしまう孤独。バンドを組んでもそれはライブ用で、レコーディングでは全ての楽器を自分で多重録音するオタク性。寂しい奴だ。

『Purple Rain』(84)から『Around The World In A Day』(85)、『Parade』(86 )、『Sign "☮" The Time』(87)、『Lovesexy』(88)、そして最強の海賊版『black album』(87)とその神憑り的才能は永遠のものに思えたものだが、しかし意外にも翳りはやってきた。『Batman』(89)あたりからおかしくなり、何とも微妙な『Graffiti Bridge』(90)に至る。良いのだがプリンスにしては驚きのないアルバムだった。そして『Diamonds And Pearls』(91)を聴いたときのショックは忘れまい。こんな面白くないレコードが本当にプリンスなのか。続く『Love Symbol』(92)も同様の凡庸さであった。ヒップホップ隆盛期に聴くにこれらは正直、苦しかった。

90年代を境に失速していったプリンス。
無尽蔵の才能と思われたアーティストがゆっくりと普通のタレントに定着していった。その天才の最たるものはコンポーザーとしての力量だったが、それはやはり有限であったか。ポールマッカートニーやスティービーワンダーでさえ授からなかった‘永続する才能’を神はプリンスに対しても例外を認めず与えなかったようだ。

パーラメント的ブラックモードを実現した『black album』(87)がワーナーによってリリース不可になった時、プリンスの中に創造に対する抑圧や葛藤が生じたのかもしれない。『Diamonds And Pearls』(91)の<悪趣味>は嘗ての<悪趣味>とは訳が違った。それは白人資本に迎合した産物に映った。プリンスがプリンスをコピーした。ヒットはしたが、その音楽クオリティーの低下は隠せなかっただろう。ワーナーとの対立は深刻だったか。彼は資本主義に絡め取られ、妥協した。その抑圧を突き破る楽天性をプリンスは持ち合わせていなかったという事か。ジョージクリントンのような在り方、奔放性とは無縁なプリンスはやはり内向的な感受性のアーティストだろう。あらゆる‘疎外’こそがパワーの泉であり、強い‘アイデンティティークライシス’こそがその表現の豊饒性を実現していたのだから。彼の内面の屈折度が音楽創造以外のところでマイナスに作用したのかもしれない。もはやヒットチャートを回復する事が命題になったプリンスは同時期のヒップホップの隆盛も尻目に見ながら存在性を失っていく。随分、勝手な推測をしているが、それ位、その凋落ぶりの印象は強かった。
ワーナーが『black album』をボツにした時、何かが壊れ始めたのだ。あのハードコアな音楽を資本は許容せず、プリンスはその反発で高濃度ポップアルバム『Lovesexy』を作り上げた。私は『black album』と『Lovesexy』を二枚組にしてリリースするべきだったと思う。彼の音楽性の両輪を具現化した大作になった筈で、それは結果的にプリンスの認識のされ方がより広汎になる可能性があったのではないか。
90年代、プリンスの音楽的試行錯誤はそのまま、迷走の記録となった。

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その復活は意外と言えば失礼か。本来のソングライティングが光る『3121』(06)
同時代に適合したように言われヒットしたが、私はむしろ同時代ブラックミュージックの退行のベクトルとプリンスの復活がリンクしているように感じている。90年代のプリンス失速と同時に隆盛したハードコアラップや創造的ヒップホップ。それらは若きブラックメンのスタンダードとなり、時代の絶対的メディアとなる。しかしメジャーシーンでの変質は90年代後半から始まっていた。嘗て80年代にブラコン化したソウルの軟弱志向と同様、2000年前後、ヒップホップはマッチョ路線のゴテゴテ感覚を伴い、軟化に至る。プリンス再登場の契機があらわれた。
プリンスはやはり黒人音楽の衰勢と共に在るようだ。シーンが沈滞化するとその存在が浮上する。ヒップホップの後退現象を私はそのサンプリング至上主義が招いたものと思っている。古典を掘り、サンプリングする加工作業が限界にきた時、黒人達は速やかに‘演奏’に還るべきだった。それをしなかった。サンプルのネタが尽きた今、作曲と演奏が再び、問われ出した。従ってその才能の権化たるプリンスが復活したのだ。

『PLANET EARTH』は復活第2弾。
クールファンク、ゴージャスメロウバラッド、ミニマムポップ。ギターロック。
プリンスの全方位的ソングライティングが発揮される。10曲のみという短めの構成もいい。
彼の多面世界とはそれが自然発生的に抽出される時、表現の極みとなる。逆にある特定のコンセプトや一つの方向を向く時、表現力の遅緩状態が現れる。プリンスにとってアイデンティティーとは果たして玉石混淆であろうか。ただそれは方法論の多様性であって、プリンスは明らかにいつも物語を紡ぎ出そうとしている。‘一つの物語’、‘真理なるもの’へのアプローチが彼のテーマであり、苦悩の源泉でもあった。多面世界とはアイデアの宝庫たりえど、内面の深部に於ける‘アイデンティティークライシス’は常に実際問題として立ちはだかる。彼はいつも‘一つの道筋’こそを求めていたのだ。私が思うにそのアプローチを純粋に音から立ち上げる時、雑多なものが一つのまとまりを示し、普遍的作品へと昇華していたのではないか。逆にコンセプトが先行する時、無惨な形として現れる。
『PLANET EARTH』はプリンスの素直な作曲が光り、多数のメンバーによるバンドサウンドの開放性を実現した。メシオパーカーまでいる。今回の作品の意図は地球の未来に対する想いを散りばめたコンセプトアルバムらしいが、もはや、そのメッセージの重きが楽曲の構築感の前で霧散する印象がある。つまり音から立ち上がった結果としてのコンセプト、メッセージがその背後性としてバランスよく収まっていると感じられる。

ストーリーテラーたる資質、或いはビジュアルメージの音象化というプリンス独特の感性は‘視ている場所’の相違をしばしば私達、凡人に突きつけただろう。しかし作品としての客観性はいつも楽曲先行主義に従った制作の時、発揮された。『PLANET EARTH』はそんなアルバムの一つだろう。曲がいい。それだけだ。ただ、それこそが全てだ。

「guitar」というそのまんまのタイトル曲で得意のメタルギターを弾きまくるプリンスの開放的音響。初心に還った?いや、千曲あるというストックの一部を出しただけ。そんな答えがさり気なく返ってきそうな感じがする。無自覚なほど自然体な天才の最良部分がここに現れたようだ。

2008.4.5

 
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