満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

         『ROCKERS』

2009-11-30 | 新規投稿

この写真は昔から知っている。
新宿ロフト前に揃った東京ロッカーズの面々。おそらくたまたま路上に集ったところをとらえた無作為なスナップと思う。一つの明確な意識を持った集合体ではなく、あくまで自然発生的な寄り集まりだった事は当時から知っていたし、それがこの写真にも表れていると思う。しかも端っこに小さく写るレックのしゃがんだ姿はフリクションがこの集団の中核的存在でありながら、その意思が最も集団としての活動からかけ離れていた事をなんとなく象徴していた。

そう、だいぶ以前、この映画を観た時、フリクションだけが音楽的に突出しているのを感じた事を覚えている。今回、DVDになった今作を改めて観て‘やっぱりミラーズはカッコいいなあ’という感想が加わった。
‘それだけかい!’と言われそうだが、音楽的な感想はこれ以上でも以下でもない。ただ、この映像を自主上映会場で観た学生時代と四十七にもなった今の私が、その映像全体から感じる磁場の違いというか、感情移入の落差については正直に記しておこう。
と言うのもこのフィルムは当時、東京ロッカーズと呼ばれたバンド群の演奏記録である以上に監督、津島秀明による明確な意思を持ったメッセージ作品となっている事が今となって判り、その‘メッセージ’に感化されていた自分を思い出すと同時に現在の私が当時のような、ある精神的な思い入れで作品全体を感じる事はもうできないという事の確認こそがより大きな相違点として浮かび上がったのだから。

画面からは演奏場面以上にバンドのメンバー達が語る場面に表われる恣意的な、何かを言わせたいという制作の意図が伝わる。津島秀明による‘メッセージ’はずばり、社会やシステムへの反抗と自律、自立のテーマであろう。学生運動の終焉に示される政治の季節が終わり、管理社会の完成に向かう日本の状況に対する個の反乱や生き方を問う、70年代後半という特殊な時期のドキュメンタリーである事には注意したい。集団による反乱が70年代前半で終焉し、その敗北は個を分断し、くすぶるような反抗の形を暗中模索していたのが、70年代の後半という時期ではなかったか。それは絶望感や虚無感と一体としてあった。やがて来る80年代という飽食の時代以前の分裂的な様相の一時期があった。ここにはそんな80年代のポストモダニズム以前の’混沌’が確かに表されている。いや、津島秀明自身がリアルタイムに持った問題意識が正に、消費社会の成熟に向かう社会性への最後の反抗だったに違いない。そして彼は共闘の意識で東京ロッカーズを素材に選択した。

「俺の住んでる下町では工場で働く心のないロボットのような人達が悲惨な生活を送っている」
映画の中で語るモモヨの発言を私は当時、‘信じていた’。社会人になる事への恐怖心を抱いていた私にとってモモヨの言葉は私の思い込みや妄想と波長を同一にし、果たして、私の堕落心や闘争心を喚起させていたかもしれない。大して出来のいい学生ではなく、さりとて将来の職業や目標を持った生き方など全くしていなかった自堕落な私は仕方なくサラリーマンになって、しがない奴隷のような労働者になるという自分の将来的イメージに縛られ、それに抗う術や気力もない敗北者のような気分に侵されていたのは事実である。まあ、一言で言って世間知らずの青い奴だったという事だが、時代全体の閉塞感は確かにあっただろう。

空気は澱んでいた。
サブカルチャーのメジャー化という現象と共に何やら浮ついた若者文化なるものが幅を効かせてきた状況だからこそ、余計にマイナー嗜好者は孤独感や絶望感のにじむような自らのゾーンへ逃避していたようにも感じる。そしてロックは私にとっても青い時代の代弁者であった。自分のルサンチマンや絶望感の処理できぬ困惑とその表裏としての快楽に溺れていたのだろう。映画『ROCKERS』の中で語られる言葉は私の精神にぴったりとフィットした。もしかしたらそれは‘目標’であったか。
ウィリアムバロウズが「極端に保守的な地域である極東」と書いて日本を揶揄し、ミックジョーンズが「日本人というと不幸なイメージがある」と言ったのが、この70年代後半だった。日本の不自由、閉塞性というイメージは私の固定観念となり、そこにあらゆる責任転嫁と何もできない自分の無気力さが助長された。

ただ、
人は変わる。
一端のサラリーマンとして苦闘しながら何とか現実と折り合いをつける術を知った私は、労働の喜びすら感じる事ができる見事な社会の歯車と化し、趣味としての音楽愛好を充実させる事にかすかな幸福感を感じる事で、日常を許容しはじめたのだと思う。いわば、そこで初めて社会を知った。バロウズやミックジョーンズのアナーキズムは勿論、普遍的ではない。そしてモモヨの発言もまた、労働を日常としない者による妄想の一種であっただろうか。その‘悲惨さ’に於いて工場労働者をホワイトカラーに対峙させる事の間違いや「ロックンロールは子供達のもの」という‘抑圧されるものとしての子供’という何か二項対立な感覚もその後の消費社会の主役となる‘子供’の存在を見抜けていない。S-KENにいたっては、インタビューで、もう何を言ってるのだか、そのエネルギーというか勢いだけが際立ってもはや、内容は支離滅裂ですらある。いや、そんなつまらない粗さがしはやめよう。それより70年代後半というパンク発生時の独特の閉塞感は集団熱狂のムードに皆で溺れる事ができた70年代前半と違い、より分断された‘個’の内向性を促す空気が支配的であった事こそが想起される事が、各人の言葉から感じられるのだ。映画『ROCKERS』で語るロッカー達は個のアイデンティティーをめぐる内面の苦闘を製作者側から意図的にえぐり出されたような結果となったのではないか。

私自身の変貌によってこの『ROCKERS』の見方が変わった。
それは自分のある意味、敗北、転向でもあるわけだが、私が当初から感じていたフリクションの突出度については、もう時代だとか、個の苦悩や閉塞感とか、日本の状況とか、そんな問題とは無関係に存在した事を改めて感じる。そうだった。フリクションは時代の空気や、個人が持つ虚無感や反抗心からすらも、全く距離を隔てた地平にいたではないか。
根っからのミュージシャンだった。映画の中で「東京はエネルギーをたくさん吸っているけど、外に向かって出していない。おれは発射させようと思っている」というレックの有名な発言があるが、これとて、今、観直して思うのは、’訊かれたから、しいて言うなら’という感じで答えているのが画面から感じられる。そこに語る事の意義、積極性はあまり見えてこない。それはレック自身のシャイな面持ちや両隣で沈黙して苦笑するチコヒゲと’どうでもいいんじゃないの’とでも言いたげなツネマツマサトシの様子からも窺えるだろう。インタビューの終りにレックが津島監督に「慣れてないから」と言って恥ずかしげに立ち去る場面が私には今回、最も印象的な一場面として映った。

フリクション、或いは「何でこんな売れない音楽やってるの?」という問いに「流されちゃうから」と簡潔に答えたヒゴヒロシ達だけが、その後のシーンで継続した活動の軌跡を標し、今なお、大きなインパクトを持って現役であり続けているのは、彼等に時代性や個人のアイデンティティーをめぐる迷宮に関する思惑とは別に音楽の中心に強く意識が向かっていた事を示すのではないかと思われる。従ってその音楽は色あせない普遍性を誇るものだった。

端っこに小さく写るレックのしゃがんだ姿。
東京ロッカーズの疑似、集団熱狂のようなムーブメントの外側に彼に意識はあった。音楽で突出し、絶大な快楽主義の革新をその後、一人で興してゆく、その前夜のスナップである。それは映画の中で爆発的に演奏した「crazy dream」を目指す一人の野心家の謙虚な姿であったか。

2009.11.30






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          Richard Lainhart 『SHORT FILMS』

2009-11-21 | 新規投稿

嘗て、四季が均等にあった事は日本人の感性に多大な影響を与え、独特の情緒や無常観等を含む、感性のバリエーションをもたらせていただろう。しかもその四季とは明確に入れ替わる場面展開としてではなく、かすかに動く微妙な混ざり具合を持って、微動するが如き移行を表していた筈だ。ゆっくりフェイドインとフェイドアウトを繰り返す四季。それは自然、季節の動性というものが微妙な心の移ろいや感情の起伏と一体化されるという独自の解釈学を生み、日本の芸能や文化的土壌を育んだのだと理解する。
しかし、近年、いつしか季節は唐突に入れ替わるようになり、しかも年々、短くなる春と秋が四季の均等バランスを崩し、変化の味わいが失なわれていった事は単に温暖化や気候変動という生態系に及ぼす影響以上に、人の感性に与える絶対的な影響の大きさがもたらすという意味で日本人の精神性の拠り所に関するテーマを含む問題でもあろう。

『SHORT FILMS』はアンビエント・ドローンミュージック作家であるリチャード ラインハートによるDVDアルバムである。私は「one year」という季節の移り変わりをミクロに刻まれるような時間の推移で表現したナンバーから上記のような想いに捉われた。繊細な感受性とは人間の関係性やドラマツルギー以上に自然環境に最も起因する。自然に対する同位な目線と平行に感情移入する感覚が日本独特の対自然一体化の感性だろう。恵みでもあり畏怖の対象である自然という現象を受け入れる感受の方法論が、無数に顕われる季語の創出や詩的な平衡感覚に綾られた文学へと結実した。そしてその特徴は‘静的’である事に尽きよう。

リチャード ラインハートの表現世界はそんなイーノ的な東洋的無のエッセンスや禅の影響を受けたジョンケージの沈黙音楽に通じる起伏なき静的な音響世界であるが、同時に単なる自然回帰やスローライフといった‘原理’的なるものへの吸引性の無さと、逆に芸術至上主義的な高踏的スタンスの匂いすらも皆無であるという印象を受けた。以前なら何らかの言説的背景を必要とするコンセプト抜きには成立し得なかったかもしれないようなこの音楽がむしろ、そこかしこで鳴っているような万民性、路上性を持つのは何故か。これは表現者の内面の発露や前提的なコンセプトに従う志向のものではなく、あらゆる‘描写’を徹底させた表現だからではないか。正に‘そこに在る’というリアル性がこの映像音楽の本質であり、もし、日本人的感性に一脈通じるものがあるならば、この表現世界が含むエモーションの質が人間の内側から発せられる抑えきれない感情ではなく、自然に相対した時に涵養される制御された感情、個人の枠を超えた外部描写的な感情であるという事の共通性に他ならないとイメージする。

リチャードラインハートは本作をメタル缶仕様ジャケットの私家版として発表した。手作り感覚に溢れた自主制作による贅沢な一品といったところか。その風貌は決して高位ではない一般性に満ちている。誰もが作り得る作品、スケッチできる音楽を彼は創作し、リリースした。

2009.11.20

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10年ぶりのライブが決定

2009-11-17 | 新規投稿

私のやってるバンド、時弦旅団(TIME STRINGS TRAVELLERS)の10年ぶりのライブが決定しました。12月16日(水)大阪本町のnu things8時開演。4バンド出演しますが、トップに出る予定です。ぜひ、観に来てください。お声かけていただければ、嬉しいです。オリジナルメンバーに加え、サックスもやっとみつかり、いよいよ活動のスタートが切れる事に自分で興奮しています。
http://nu-things.com/schedule/2009-12/index.html


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the Sa-Ra creative partners 『nuclear evolution 』

2009-11-13 | 新規投稿

The SA-RA Creative Partners 『Nuclear Evolution The Age Of Love』

核廃絶演説のオバマ大統領がノーベル平和賞を受賞したからと言って、国益に沿った現実的戦略と、己個人が裡に持つ理念としての理想主義とのバランスはしっかり取れている。問題は民主党政権をも含めた日本の‘平和主義者’達のオバマ礼賛の醜さだ。核廃絶イコール世界平和とでも言いたげなその日本独自の反戦思想は例えば他国の安全保障に関しても無配慮な感覚を示すもはや夢幻思想とも言うべきバーチュアル性を持つ。アメリカの核の傘下という安全地帯に安住しながら、核の先制不使用をアメリカに求めるという岡田外相の不見識は正にそれを象徴する。核を失えばたちどころに通常兵器による戦闘が再開されるであろうイスラエルとアラブ諸国やインドとパキスタン等が核抑止によってかろうじて睨み合いという現状維持で治まっているという現実は、‘平和’なるものの本質が戦争という緊迫を常に内包したものである事を示している。自国の安全を深刻に考える各国は少なくとも‘友愛外交’などと寝言を言う暇はない。有事を前提とした平和こそが現実であり、‘理性を持った’国家が管理する限りにおいて、戦争抑止という前進的平和を実現しているのが核であるというのは世界の共通認識である。早急な問題は‘理性なき’テロリストに対する核拡散なのであり、それはオバマ演説の後半部分でしっかり示された。更に同演説で同盟国への‘核の傘提供’の保持を確認したのも、自らの理想主義性とのバランス確保だっただろうか。しかし、オバマが核を‘冷戦構造の遺物’と言った事が特に日本では誤解を招きやすい事態になったのではないか。今や核は東西の軍拡競争の象徴ではなく、むしろ一国単位の安全保障や外交上での発言権の優位性を確保する為の手段というのがテロリストはともかく各国リーダーの認識だろう。南アやリビアが得ようとしながら頓挫し、イランや北朝鮮が必死に得ようとするのも核が他国への攻撃ではなく、自国の保全と国際社会での地位向上に最も効果があるからに他ならない。「核保有国でなければ主権国家とは言えない」と言い切ったのはプーチンだ。そんなリアルポリティカルな力学のみで形成される国際社会の中で日本の‘バーチュアル’平和主義の恥ずかしさは計り知れない。核弾頭をこちらに向けて配備する隣国に対し‘東アジア共同体’などというユートピア思想を披露する鳩山首相の‘夢幻性’はもはや危険ですらある。いや、遂にという感じだ。権力中枢まで行き渡った日本の‘反戦平和思想’。ここに極まった、か。

元来の民族的特質であろう‘平和志向’は敗戦というトラウマと共に現実主義とのバランス感覚を失い、戦後民主主義の浸透と共に夢想的ヒューマニズム信望という病に至る。日本人の様々な思考や活動の中枢であった思いやりや謙虚というメンタリティーは自尊心という柱が倒れることで‘悪利用’され、自らの精神を蝕む道徳的退廃を生んだ。国の安全保障という前提を踏まえない‘自由’という価値の独り歩きが‘人殺しはよくない’‘戦争反対’という安直なヒューマニズムを生み、‘平和志向’ならぬ‘平和偏重志向’が個人の領域から、マスコミや世論、そして遂に国家的メンタリティーにまで及んだというのが、政権交代によって出現した現在の日本の姿なのだと私は理解している。そこに有事を視野に置いた国の守りと緊張感はない。あるのは漠然とした希望的観測に従う‘平和共存’であろう。
リアリストに徹するべき国家運営に携わる者が‘夢幻’の領域に関るとそれはもう、一種の狂気である。理想主義とは一般人、なかんずくミュージシャン等のアーティストに任された特権である事を認識してほしい。リアリストとドリーマーが両翼を構成し、相互補完するような世界が、いや日本社会が望ましいと私は思う。その意味でアーティストの夢想気質はそれが強いほど、その表現は強力になる。ジョンレノンのあの赤面するほどの理想主義はその強さと音楽的完成度によって、人を動かし、政府をも恐れさせた。

『Nuclear Evolution The Age Of Love』はアブストラクトヒップホップのサーラーの2枚組大作である。タイトルからサンラーの『nuclear war』(82)を想起したが、いずれもその反核メッセージより、そのエロ深淵な音楽世界のドープさの方がより大きな共通点だろうか。この粘っこいファンクネスに私は快楽志向の極点に向かう鋭利な感覚以外の何物も感じ入れない。限りない快楽志向と夢幻性はアーティストに許された特権である。現実世界に対する審美眼も限りなく理想主義であらねばならない。‘The Age Of Love’(愛の時代)と宣言するサーラーの音楽世界の半端じゃない徹底性に私は賛同する。病みつきになるようなビートとサウンドメイクはエロスの感覚世界そのものであるが、逆に、快楽追及そのものの形而上学的、且つ社会的意義というレベルすらイメージさせるに充分な完成度だと感じている。ギャングマッチョな数多のヒップホップがストリート性を強調しながら、メジャー上昇志向がミエミエで中途半端な社会メッセージで煙を巻いているのに対し、サーラーの高濃度な快楽志向は既にサウンドだけでメッセージ性が充満する。エリカバドウ等のゲスト参加によるブラックミュージックの壮大なサークル的饗宴は聴いていて飽きない。

私はこの稿をアルバムタイトルに引っかけて書きすすめたが、やはり、音楽の内容については充分には書けなかった。この素晴らしいアルバムを何度も何度も聴いている私の快感はとても言語化できるものではない。書くことがないという私の本音は以前、ソウルミュージックについての稿がない理由として述べた事があった。今回はアルバムタイトルから無理矢理、時事放談めいた文章をひねり出したが、これがパターン化しない事を自分で期待している。

2009.11.13



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