満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

The Tomorrow Band 『2 TO GET SET』

2009-06-29 | 新規投稿

嘗て‘アルト・サウンドの負性’と書いた間章はアルトサックスの持つ独特のCRYの要素に着目した。曰く「アルトは吹かれる時、その高音域には悲痛さを、低音域には白痴性を負っているのだ」と。私はこの分裂症的な見解に、しかし感覚的には同意するしかない。間章はチャーリーパーカーやオーネットコールマンを念頭に置き、そして阿部薫、エリックドルフィなどのCRYサウンドによるイメージを形而上学へと強引に結びつける論を展開したのだが、アルトサックスの持つ‘動揺性’、その感情破綻的な居心地という感触は、例えデビッドサンボーンや渡辺貞夫のポップサウンドからも感受できるアルト・サウンドだけが持つ独自な音の特質だと私も感じている。

アルトサックスには‘非―安定的サウンド’が宿っている。それはアウトコードやメロディの崩し方を言うものではない。アルトサックスの音そのものから得られる感触の事であり、例え、どんな楽曲、どんな演奏者によるサウンドにも大なり小なり共通するものだ。
ある種の不安感、恐れ、渇望感、過剰な喜び、逸脱、放蕩・・・。そんなニュートラルではない感覚が確かにアルトサックスの音質にはある。私にとってはオーネットコールマンの‘泣き叫び方’こそが決定的にアルト・サウンドの‘原型’を鋳造するものになった。フリージャズ期のコールマンではなく、プライムタイム以降のコールマンのポップなメロディが、しかし‘わななき’のような感情的な振幅を備えて響く時、そこにクールなテーマやポップなメロディに対する感情の揺さぶりを見出し、全く斬新な世界を垣間見た気がしたのだ。これが基点となり、アルトの‘非―安定的サウンド’による楽曲の支配性を意識し、それは曲のトーンを決定つける大きな影響力そのものであると感じるに至った。全くアルトサックスとはテナーやソプラノとは違う独裁性すら持ち得るものなのだ。しかるにサンボーンの正統派ソウルサウンドやナベサダの軽快なジャズボッサにも、どこか、CRYの要素に伴う逸脱感覚や不安という感情世界を想起させる部分が少なくない。

イギリスのアルト奏者、クリスボウデンに私はずっと注目してきた。
彼の中にデビッドサンボーンにも勝るエモーションやオーネットコールマンに比肩するような理知的な整合感を感じ、更にいかにもイギリスらしいクールスタイリッシュな感性がその音楽に独自な輝きをもたらしている。リーダーグループThe Tomorrow Bandはシンプルなジャズトリオであり、その端正で王道的ジャズにオーソドックスなジャズの原型と、そんなスタイルが今、実は‘ありそうでない新しさ’をも同時に備えていると感じている。

そしてこのクリスボウデンにもやはり、‘アルト・サウンドの負性’、その‘非―安定的サウンド’を濃厚に感じる。多分に職人気質で、本人が意識せずともその実力は恐らく、イギリスジャズのフロントマンというポジションにある第一人者だが、その端正な音の外形にはCRYが充満し、図らずも、その内面性や高いソウル指数が充分に、窺えるのだ。
前作『3 TO GET READY』(07)も当ブログで批評し(07.08)、「このトリオの継続を願う」と書いている。新作『2 TO GET SET』はタワーレコードに注文して待つこと二か月。私は当初、入手困難である事をタワー店員に告げられて、半ば諦めていたが、ここにめでたく入荷した。もっと広く流通すべきだと強く思うが。如何せん、マイナーなのだ。

今作ではいつにも増してリズムのキレが発揮され、トリオというミニマムな形態に多彩なサウンドの色彩と場面転換を見る。多様なカバーに混じって収録されたグループのベーシスト、Ben Marklandによるオリジナル「Ben’s blues」が最高だ。このナンバーにThe Tomorrow Bandの演奏の神髄を見る。ブルースコードの上で、逸脱と復帰を繰り返すボウデンのプレイ。その音色による感情移入はもはや、通常のブルースを超えた新感覚をイメージさせる。静かに立ち上がり、熱を帯びる。無用なコードアウトではなく、インコードでエモーショナルな起伏の両極を歌うボウデン。その姿は‘アルト・サウンドの負性’をも肯定的な高みに持ち上げる、万能な歌手のようだ。

2009.6.29

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三上 寛   『-1』

2009-06-17 | 新規投稿

三上寛の曲の‘無表情さ’をずっと思っていた。激越、且つ、艶めかしい発声や無比な歌詞とは裏腹に、常に安定的で、均質な歌の表情。精神安定的なその音響にある種の抱擁感を感じ、起伏なき快楽に満たされるのが、三上寛体験の神髄であると感じていた。それは三上寛にある演歌(艶歌)世界による‘湿り具合’が我々、日本人の感性の奥底に根ざす共通感覚を刺激するからなのか。いや、少し、違う。私が三上寛に感じるのは、もはや、環境音楽にも似た、その‘常態性’なのだ。
三上寛にあって、歌に個別の個性などはない。アルバムに収められた歌は全て、繋がっており、連続された歌集となる。いや、そればかりか、一つの歌が、以前のアルバムに収録された全ての過去の歌の数々ともつながっている。それは盟友、灰野敬二が指摘した「全部、Aマイナーで始まる」というコード進行のバリエーションの無さとも関係しているが、それよりも三上寛の‘ワンパターン性’とは、その生と歌の連動性故に生じる‘日常態’にこそ本質があると思われる。従ってその魅力的な歌詞についても、思想やコンセプトという深みより、その実相は発声される日常言語が三上寛という稀有な芸能者によって‘言霊’と化す響きのインパクトの方がより、感動的なのであり、しかもそれが自然な溶け込み具合として顕在化する。先に‘無表情さ’と書いたのは歌の個別の屹立というインパクトに勝る‘連歌’のような空間浸透性にも似たインパクトを肯定的に捉えた印象の事なのだ。

友川かずきのような歌の物語性やメッセージを三上寛に見出す事は困難である。歌メロにも、サビにも、その詞の中にも、いわゆる個別なコンセプトを籠める‘深み’はない。そんな私の思いがある意味、証明されたのが、この新作『-1』のアルバムタイトル及び、それぞれの曲名である。‘-1(マイナス1)’という数値の題。そして収録された6曲には、それぞれ、「♯501」、「♯502」、「♯503」、「♯504」、「♯505」、「♯506」という無題表示ともとれるタイトルがついていたのである。三上寛のこの反物語性とも言える‘無題’に私は密かに歓喜した。

アルバムの内容はエレキギターによる弾き語りというソロパフォーマンスであった。これ自体は珍しくはない三上スタイルの一つの形であるが、ノンコンセプトな羅列言語による‘言霊’が聴く者に対し、前後に移動しながら、顕れ出るように流れていくその流動性が気持ちいい。一曲、一曲が独自の顔を放棄し、瞬間の一筆書きのように奏でられる。しかも、今回、際立つのが、エレクトリックギターの絶妙な響き具合なのである。2年前にリリースされた韓国でのライブ音源である『寛流』(07)ではそのサイケを‘狙った’リバーブ過剰が逆にワンワンと反響しまくる逆効果となり、聞き苦しい失策を生んだが、その後のスタジオ録音ではそれが修正され、程よいリバーブによる空間とギターの鋭角さが円環運動するようなサイケトランス状態をも醸し出した。

『-1』によって、元より、その音楽的本質であった三上寛のアンビエント性が具体化した。
PSFレコード移籍後の多作はキャリアにおける‘歌の量産化’という新境地を生み、三上寛の活動は、フィードバックノイズを大量に放出するサイケミュージシャンさながらの ‘安易さ’と同様な意識で、その歌を‘垂れ流す’行為性へと及んでいる。

量産される歌の群れ。
その音楽世界はもはや、ブルース的循環系であり、終わらない環境音楽と化す。そして歌詞が前後に交換されながら、混合に歌われるのは、反物語性を強く示唆し、言語の破片の発声放出という三上ワールドの境地を示すものだろう。

『-1』に収められた6つの歌の切れ目は感じられない。コードもテンポも発声もずっと同じである。歌の内容も吟味できない。ただ、それぞれの歌に登場する言葉の断片が時折、スコーンと襲ってくるように、耳に飛び込んでくる。その時、私は‘はっ’とするのだ。

'ジョンコルトレーンを呼び出すだろう'
                「♯501」
'今だから割れるコップ'
                「♯502」
'障害を持っている'
                「♯503」
'小便小僧が放尿す’
               「♯504」
’丘の上で滑った 滑って、そして転んだ’
               「♯505」
’股を広げたブッシュの顔だ’
               「♯504」
’塩屋崎の電話ボックスだろう’
               「♯506」

歌詞カードを見ながら聴くような歌ではない。別に意味はない。ただ、その発声にギャグやペーソスをも含んだ高踏なシャーマニズムを視る。しかも、色濃いルーツアイデンティティが誇らしい。

昨今、イギリスやヨーロッパのメディアから頻繁にとり上げられて、海外でのライブが非常に多くなっている三上寛の独自性は、そのユニークな作風とパフォーマンス性による世界性の獲得であろう。次回は果たして、ロンドン公演の記録だろうか。是非、聴きたいものである。

2009.6.17
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UNIVERS ZERO 『RELAPS』

2009-06-04 | 新規投稿

『蟹工船』を読んで共産党に入る若者が増えているという。
今の若い奴って何て単純なのか。周りの年輩者がちゃんと教えてやれよと言いたくなるが、昨今の厳しい社会状況に於ける自らの境遇に因果関係を突き詰める事もなく、その‘悲惨’を外部へ責任転嫁し易いその発想を私はもはや、新種の病なのだと理解している。社会正義を偽装したイデオロギーや新興宗教がそんな病んだ魂の受け皿と化す事態については、精神的支柱やアンデンティティーの不在という現代的要因に起因すると解して良いのか。或いは、本来、そんな‘非行’に歯止めをかけていた筈の‘良識’やバランス感覚、共同体的監視が失われているのだとも思う。貧困や失業、悲惨な就労状況などに対する社会批判や厭世の思想とは常に自省という客観性と並立する事で、初めてその有効性を獲得できるものだろうに。

従って、例えば‘真実’(本質)を伝えないテレビや新聞の、もはや‘バーチュアル世界’と化したような情報などによってコントロールされるのも単に情報というソースの識別ではなく、ものの見方、考え方そのものであるという問題こそがより、本質であるに違いないのだ。

切られて当たり前の派遣社員の待遇を‘派遣切り’などという欺瞞に満ちた言葉で同情しながら、何故か派遣会社をスルーして企業やメーカーを悪者扱いし、世論を煽っている様に対し、私はある種の‘崩壊感’しか抱く事はできない。それは例えば、不法入国のカルデロ一家を‘さん’つけし、その処分を‘かわいそう’とする錯誤や、小さく切って赤ちゃんに食べさせる事を怠った結果のこんにゃくゼリーによる窒息死を、こんにゃくゼリーのせいにするという恥知らずな非常識とも一直線に繋がる現代日本の‘バーチュアル世界’である。これらの異常現象を私は嘗ての日本にはなかった感覚ではないかと感じている。何事も万事、欧米を追いかけ続けてきた日本は、電子レンジで火傷したら電子レンジメーカーに訴訟を起こすというアメリカ社会に、その精神的退廃まで追いついてしまったのか。

総じて私は‘崩壊感’と書いた。
『蟹工船』を読んで共産党に入るというその‘ため’なき思考や感情世界に短絡的で直結型の精神構造を想い、そこに‘崩壊感’を感じる。『蟹工船』にある優れた小説としての状況描写や物語の力強さと、作家がプロパガンダとして主張した‘反コミンテルン=日共賛美’というオルグを目的とした前時代的メッセージとの峻別、区分けを今の単純思考の若い奴に期待してもだめなのか。

さて、ヘンリーカウの音楽が今ひとつ、好きになれなかったのは、その赤い政治思想のせいだったか。いや、そんな事は関係ない。でもソフトマシーンやその周辺に対する情熱に比べると、同系列の音楽であるにもかかわらず、私がカウを好んで聴かなかったのは確かだ。

当時のカンタベリージャズロックシーンの色彩豊かな音楽性に比べ、ヘンリーカウのそのモノトーンで淡色性なサウンドの肌触りが、好みでなかったというのが本当のところだろう。器楽主義であるにも関わらず‘カラフル’でなかったという事か。ただ、その‘ノン・カラフル’というのは多くのプロレタリアート芸術に通じる要素であった事は偶然でないだろう。しかし、私はヘンリーカウが組織したR.I.O.(ROCK IN OPPOSITION)に属した多くのグループに熱狂した事を忘れるわけにはいかない。しかも、その中にはスウェーデンのサムラ・ママス・マンナのように今なお、充実した活動を行うバンドもある。

R.I.O.とはバージンレコードと仲違いしたヘンリーカウが、反商業主義、反資本主義を標榜して設立した‘意識的’ロックバンドの連帯組織であり、自主企画、自主流通を主催した全ヨーロッパ規模に及んだ運動体であった。設立は1978年。この動きを日本で紹介したのは「rock magazine」、「fool’s mate」など、僅かなジャーナリズムだけであったが、この‘反対者としてのロック’と訳されたR.I.O.とは、初期パンクがこの時期、まだ、インディーズの形をとっていなかった事を考えると、最初のインディームーブメントでもあったと理解されて良いのだろう。ヘンリーカウは当時、イギリス共産党ともコミットし、急進的なその政治運動も見せたが、そんな運動の常としてグループや組織の早い分裂、終結に至る。その後の各メンバーの動向も興味深い。元よりイデオロギー色が薄かったフレッドフリスは渡米して、ノンイデオロギーなインプロバイザー達と交わる事で、垢抜けした非―観念論者と化し、音楽シーンに一定のポジションを得た。最も過激派だったティムホジキンスンはそのイデオロギーをあくまで音楽上にも反映し続け、リーダーバンド、THE WORK(ずばり、労働!)で「I hate america」と叫んだ。(来日公演も観た)ダグマークラウゼはブレヒト歌曲の伝播を使命とし、ジョングリーブスやリンジークーパーは‘純’音楽活動によって、独自世界を築く。そして、最も広い影響を与え続けるのが、特異なドラマー、クリスカトラーで彼はR.I.O.を引き継ぐ形で設立したレコメンデッド・レコードによって音源の伝播を図っている。

R.I.O.系列の中で私が最も好きなのがベルギーのユニヴェル・ゼロだ。
デビューは78年。私は81年のサードアルバム『ceux du dehors(邦題;祝祭の時)』以来、ずっと熱烈なファンである。しかもこのグループ、87年に解散するも、2000年に復活し、4枚の素晴らしいアルバムをリリースする充実した活動を継続中なのである。‘archives1984-1986’と副題がついた新作『RELAPS』は初期の‘暗黒系チェンバーロック’から、リズムアンサンブルを強調した後期の‘暗黒系ジャズロック’へと変貌してゆく過渡期のライブ音源。いずれにしても‘暗黒系’である事に変わりはないが、私が熱中した『uzed』(84)は沈み込む暗黒世界にリズムのキレを導入した外向性が際立つ傑作で、もはやチェンバー(室内楽)ロックと呼べないような劇的サウンドであった。『RELAPS』は正しくこの時期の凄まじい緊張感に満ちた演奏の記録である。めっちゃ、いいよ。

その活動初期、ヘンリーカウの薫陶を受けたユニヴェル・ゼロが、その世界観や音楽のスケールに於いてカウより勝っていたとは言わないが、その音楽の味わい深さはもはや、人間味の差異とでも判定したくなるほどの感情的表現力で、‘永く聴ける’普遍性を有していたと思う。無味乾燥としたカウの実験主義は唯物史観に通じるアンチヒューマニズムや反歴史主義的な肌触りがサウンドを覆っていたが、ユニヴェル・ゼロはヨーロッパの歴史主義にも立脚する伝統の継承や物語性が濃厚にあった。その事は作品至上主義的なグループの性格にも反映されていただろう。

ユニヴェル・ゼロの物語性。
それはカウが標榜するコミュニズム・イデオロオギーに侵食されなかった事と無関係ではないと私は思っている。初期の‘暗黒’路線はなるほど、滅び行くヨーロッパの表裏の表現であっただろうし、そこには階級闘争史観による絶望や、キリスト教社会の閉塞面も併せたヨーロッパの負性を静かに暴き、表面化するビジョンもあったかもしれない。しかし、ユニヴェル・ゼロの真骨頂は外向性、そのパワーであった。『uzed』(84)、『heatwave』(86)によってグループはより楽曲主義へ傾倒し、力感を打ち出した。従って‘崩壊感’をデッサンした状況描写的なヘンリーカウの'社会主義リアリズム的'限界性をインプロヴァイズではなく、楽曲の構築的力感によって乗り越えたのだと感じる。そのヴィジョンはストランヴィスキーやショスタコーヴィチに通じる‘暗黒からの飛翔’、‘到達のマインド’である。従って比較するなら、イタリアのアレアの軌跡だろう。どっぷりと漬かった左翼イデオロギーから脱却する時、思想だけを捨て去りながら、その運動量、行動エネルギーの核だけを継続、抽出しながら音楽的昇華を成しえたアレアのような、負から正への肯定的なエネルギー転換のような発展をユニヴェル・ゼロにも感じ取る事ができるのだ。

‘崩壊感’の表現とは即ち、虚無にも繋がる。
本稿の最初に書いた‘崩壊感’は現状に対する失望と現状批判者に対する失望という二重の意味での‘崩壊感’であり、ある種の‘救いようの無さ’を表す言葉であるが、その淵の底からの回復の営為として、物語の復古と新たな道標を想像力に働きかける事が音楽の本来的パワーだろう。ユニヴェル・ゼロの音楽にはそんなパワーが漲っている事を感じる。アルバム収録の85年のライブ音源、「heatwave」の複雑怪奇なアレンジとテンションの高さに圧倒される。
ユニヴェル・ゼロの暗さを愛好する私はこの迷宮的快楽をものにしているが、そこにポジティブな福音を確かに感じる事で、音楽の力の有用性、意義を見出すのだ。

驚くべくはこのグループ、ネットを見ていたらmyspaceも設置されてあった。時代は変わった。多くの人々に聴かれるべき、真の創造者。
ネットを開くだけで、そこに漆黒の平原にそそり立つ黄金柱を見る事ができる。簡単に。「fool’s mate」で情報集めて、音源を求めて、レコード屋を捜し歩いた日々はもう昔話。
これは‘バーチュアル世界’ではない。確かな構築が始まる予感。

2009.6.4




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