満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

     The Tomorrow Band   『 3 TO GET READY 』

2007-08-30 | 新規投稿
   

確かにイギリスのコートニーパインやクリスボウデンを昔、初めて聴いたとき、「侮ってはいけない」と強く感じたものだ。<クラブジャズ>等というジャーナリズムカテゴリーに先入観を持つと良い音楽を聞き逃し、結果的に損をする。どのような制作コンセプト、企画、アレンジ、バックサウンドの中でも、ことホーンに関しては、その音だけは冷静に聴き、奏者の本来の立ち位置、資質を見極める必要がある。本物の音を出している者は必ず血のにじむような努力を経てきている。過去の奏者、楽曲に親しみ、勉強しなくては何も習得できないのがホーンであり、その意味で極めてミュージシャシップに則った性質をベースに持つ感性が顕在化するのがホーン奏者だろう。
コートニーパインがヒップホップジャズのサウンドアレンジの中で頭角を現しても、サックスの音色、フレーズからコルトレーンフリークなのは一目瞭然だった。それは隠しようがないアーティストの血肉であったと思う。しかも私はコルトレーンを基点とする本格派ジャズを継承するサックス奏者がアメリカで現れない状況を横目で見ながらコートニーパインこそが、最もコルトレーンに近いホーン奏者であった事を真剣に感じている。だからコルトレーンファンはコートニーを聴いて欲しいとも思う。

The Tomorrow Bandはクリスボウデン(Chris Bowden)によるジャズトリオである。
私はこのアルト奏者がずっと好きであった。ミスターエモーショナルとでも呼びたくなるその熱さ(デビッドサンボーン以上だね)とどこか理知的なコンセプトメイカー的なものを同時に感じられる音楽性。サックスは相当上手いのがはっきりしてるし、強い意志や明確な表現の力を常に感じていた。2002年のアルバム『SLIGHTLY ASKEW』は圧倒的な音楽絵巻が展開されるプログレッシブジャズだったが、細かいアレンジが未整理で、大きな事に挑戦した事で多少、詰めが甘くなってしまったかのような印象もあったが、しかしこんな大仕掛けなものに挑むその精神に共鳴できる感動があった。潔さを感じたものだ。クラブ系の範疇でしか評価されなかった事は大きな間違いであったと感じている。

『 3 TO GET READY 』はボウデンとNeil Bullock(ds)、Ben Markland(b)のトリオによる全く潔いジャズである。演奏はフリーではなく、テーマとアドリブによるオーソドックスなもの。しかしリズムセクションの堅実さが光り、ボウデンの力量がこんなシンプルな音楽構造の中で余計に映えるのは好結果だろう。個人的には最高の音楽だと感じる。

この音楽を聴くとき、私は80年代以降のアメリカジャズの一つの袋小路の正体がわかる気がする。例えばNYダウンタウンシーンの即興演奏家やスティーブコールマン、ゲイリートーマス、グレッグオズビー等M-BASS派と呼ばれた先鋭的なホーン奏者の作品がなぜ、イマイチなものが多いのか。演奏家としては相当なレベルにあるアメリカのアーティストが新しさへのこだわりやコンセプト過多に陥る過程で、音響バランスへの配慮を忘れ、ライブとスタジオ作品のギャップに対する放置、不感症が進行していたと感じる。

クリスボウデンは非アメリカのホーン奏者に見られる汎ヨーロッパ色やブルースルーツのカットアウトを拠り所にせず、むしろそれらに依拠しながら、より根源的な力感を感じさせる堂々たるジャズ、大文字のジャズを演奏している。その潔さは彼の不変の資質のようだ。このトリオの継続を願う。

2007.8.29


 

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  NOSTALGIA 77     『Everything Under The Sun』

2007-08-24 | 新規投稿
   

1曲目「wild flower」のイントロのアフロキューバン的なリズムの激しささえも、どこか静謐なものへと収束されていくような音の感触。この室内楽的、フロアー的な音の手触りはクラブジャズ特有のもの。突出したソロもポリリズムも、ある一つのパッケージ化された音響世界の中でサウンドデザインされる。それを先端的なハイセンスと感じるか、ジャズ的逸脱やスリル感の欠如した英国伝統のチェンバージャズロックの一範疇と捉えるか、好みの分かれるところかもしれない。個人的にはリズムの機械的とも言えるジャスト感に飽き足りぬものを感じるのは事実。

ただ、楽曲が良い。曲どうしに繋がり、連続性を感じさせるのは、ソングライティングにコンセプトがあり、作者の快楽のツボが明確に在る事を感じさせ、好みがブレない強靱さを想起させるに充分である。卓上の小さなCDラジカセでこのアルバムをしょっちゅう繰り返し聴いている私は思わぬツボにはまった感がある。いや、元来、モーダルに反復されるリズムの上をホーンセクションがユニゾンするという形は私の好みであり、リズムが無用なキメを連発するフュージョン的なわざとらしさが全くないところなど気に入って当然のスタイルとも言える。ラウンジ系の女声ボーカルのソフトソウルな味付けも心地よい。

NOSTALGIA 77の静謐な響きは、ジャズ的な演奏性の軋轢、自己表現の応酬とは無縁であり、むしろハウス、エレクトロに於けるダウンテンポ、チルアウトの感触が濃厚だ。聴いていて心と体がすーっと休まるような心地よさがある。このような快楽を以前なら後期ビルエバンストリオやECM作品の数々から受けたものだが、メロディの非連続性、テーマらしきものの消去の感覚からは、よりアンビエントな感性が伺える。
演奏は多分、上手くないと思う。演奏されたものが緻密に編集されている事はリズムの肌触りから多分に感じられる。ズレるようでズレない。これは本物のジャズのグルーブではなく機械的でもあり、むしろテクノ的な感覚なのだ。

NOSTALGIA 77というユニット名に1977年頃の音楽シーンに郷愁の念を持つコンセプトを想起し、私などと共通の同時代体験に基づくものがあるのかと思いきや、このベンラムディンというアーティスト、77年生まれである事がユニット名の由来だという。なるほど、ここでの音楽は一見、古き良きジャズの復権を新しいテイストで味付けしているようだが、それよりも寧ろ演奏性至上主義の旧ジャズとは無縁なほどのコンポーザー意識と編集意識に貫かれた作品であろう。パンク、ニューウェーブ元年に生を受け、恐らく音楽にのめりこむのはヒップホップ黎明期の90年頃だろうか。そんな音楽体験経緯者が持つ淀み無き、そして迷い無き先端的感性を想像する。しかも多分に成熟した才能を。

2007.8.23

  













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  4 hero   『Play with the Changes』

2007-08-21 | 新規投稿
   
アメリカのソウルミュージックが急にゴテゴテした装飾過剰なものになっていったのは80年代以降だっただろうか。MTVの影響はビジュアル面でも過剰演出を生み、派手ファッションの定番と周りを女達が踊ったり、はべったりという絵がパターン化した商売に突き進んでいた気がする。楽曲はより甘口に偏り、リズムはディスコにパターン化してゆく。それらはブラコン(ブラックコンテンポラリー)と呼ばれ、70年代のソウルとは異質であった。マービンゲイの「セクシャルヒーリング」が全ての始まりだっただろうか。その表面的な模倣が売れ線の型を作り、それに追随した制作が幅を効かせてしまったのだろう。
ブラコンには脂がたっぷり乗ったゴテゴテ感覚が充満しており、そのバブリーなセンスはダニーハザウェイやスティービーワンダー、マービンゲイら70年代のスリムで端正なソウルミュージックとは別個の音楽のようであった。興味深いのはヒップホップもその初期に比べ、大衆的認知を果たすやいなや、急にマッチョでエロなものに変質している。最近のヒップホップのプロモビデオのエロイメージのオンパレードはソウルミュージックがブラコン化してセクシャル作戦で売り出した経緯と全く似ている。ブラックミュージックがメジャー化すると急にゴテゴテし出すのは法則か。

マッシブアタックの衝撃度は、私にとって新しいソウルミュージックの発見だった事に尽きる。スミス&マイティやマッシブアタックはダブを基盤にしたソウルミュージックであり、音響の斬新なスタイルよりも歌こそに本質があったと思う。パンクを通過し、音響への意識、高度なデザイン感覚、覚醒意識、クールなスタイルがその音楽性を綾取ったが、私はアメリカの70年代ニューソウルと同質のセンスをそれらに感知した。ドラムンベースを基盤にした4heroもまた同様であり、本家アメリカにはニュージャックスイングがあったが、音響センスで勝るUKものに私は傾倒したのだと思う。

抑制と装飾のバランス感覚。
4heroはスタイリッシュである事と熱い魂で炸裂するメッセージが同居する。イギリスのパンク、ニューウェーブ以降の感覚を通過したブラックミュージックの昇華地点にある音楽だろうか。良い曲を書き、そこに必要最低限の装飾アレンジを施す。ストリングスのアレンジもその削ぎ取った感覚にミニマリズムやニューウェーブのセンスが濃厚で、シンプルなリズムやメロディに自らが<深く感じ入る>反復を至上と捉えるのはブラックミュージック本来の快楽原則に立ち戻るものを想起させ、それは結果的にアメリカの70年代のソウルの復権、その継承である事に気づかされるのだ。

このクールシンプルなソウル。傑作『two pages』(98)と等しく物語性も強調され、音響の緻密さと言葉の重さが心地よさの中で融合する。6年ぶりの新作『Play With The Changes』をリリースした4hero。おそらく今後も断続的な活動が続くのだろうが、個人的には男声ボーカルを大いにフューチャーした音楽を以後に期待したい。

2007.8.19

 
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 JOE ZAWINUL   『BROWN STREET』

2007-08-15 | 新規投稿
  

ザウィヌル名義のアルバムでこれほどつまらないものも珍しい。よく聴けば理由は明らか。
これはザウィヌルの作品と言えるのか。違う。名義は<KOELN WDR BIG BANDフューチャーリング JOE ZAWINUL ウィズVICTOR BAILEY アンドALEX ACUNA>とするべきだった。長すぎるわいと言われそうだが、そうゆう内容なのだから仕方がない。ジャズ誌などの評ではWDR BIG BANDによるアレンジが好評で「最高!」とされているみたいだが、私には月並みなアレンジとしか思われない。そもそもアレンジと言えるほどのものがない。原曲を忠実になぞっているだけでウェザーリポートでのシンセパートを重層的なホーンセクションに置き換えただけ。しかもショーターレベルのソロやインプロは当然、望むべくもない。結局、ここにはなにもない。ジャコパストリアスのワードオブマウスのような原曲をねじ曲げながら、テンポを変幻自在に変えるようなアグレッシブな姿勢もない。まるで保守的だ。単に演奏が上手いだけだろう。これのどこが最高!なのか。

このビッグバンド、感性がフュージョンなのだ。GRPなどに類似し、決してギルエヴァンスが持った方向性には向かっていない。どうせやるならザウィヌルが魂込めてアレンジすれば良かった。そしてあの核弾頭パコセリー(ds)を呼べば良かったのだ。彼ならこの怠惰な空間をぶち壊して全体をあらぬ方向へ引っ張ってくれただろう。予定調和で面白みのないこの音楽にスリルをもたらしてくれたかもしれない。勝手なこと言ってるが。
ウェザーやザウィヌルシンジケートに比べ、決定的に足らないものがある。スピードだ。遅すぎる。テンポを感じさせる危うさ、生命感がない。安定し過ぎだ。安心して聴いていられるこの音楽は単なるショーミュージックだろう。ザウィヌルの弾く音色、音の選び方、フレーズ。それらは相変わらずカッコいいが、それすら余興の域を超えるものではない。レイドバックが最も似つかわしくない天才が演奏の<お仕事>をした。こんな姿勢は初めてではないか。もっとも、もう70才か。なるほどザウィヌルがやっと音楽人生に於ける一休みの姿勢を見せたのだ。攻撃的姿勢を中断しリラックスした。
故郷ウィーンにオープンした自分のクラブでケルンのビッグバンドと共にエンジョイした一夜の演奏。そんなに騒ぐものでもない。しかしCDとしてリリースするなら、ちゃんと正確な名義にするべきだった。

2007.8.14
    
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 ニールヤング&クレイジーホース   『ライブアットザフィルモアイースト』

2007-08-14 | 新規投稿
     

NEIL YOUNG & CRAZY HORSE 『LIVE AT THE FILLMORE EAST』

未発表のライブ音源をリリースする企画である<アーカイブシリーズ>の第一弾である本作は1970年のニールヤング&クレイジーホースである。
現在のクレイジーホースのバンドカラーは75年の『ZUMA』、『LIVE RUST』以降に完成され、その継続状態にあると感じているが、今回の発掘音源はそれ以前の初期サウンドのライブ記録であり、その音楽性の原点を確認できる。
オールマンブラザーズバンドやグレイトフルデッドとの共通点が多いと感じる。長大なギターソロのなだらかな起伏で進行する高揚なきダラダラ感、そのドラッギーな反復に70年代初期の匂いが充満する。ブルースをベースにミニマルなトリップミュージックを作り出したのがオールマンやデッドであり、クレイジーホースはそれをカントリーをベースにやった。ありそうでないスタイルだったのだろう。ニールはこの時点でまだファズにディレイをかます必殺のギターエフェクターは手に入れてない。あれは道具と言うより一つの思想なのだが、70年の時点ではアコギの延長としてのエレキ演奏を当然の事とし、その潔さと控えめな音量による演奏力だけを頼りにする真のグルーブを作り出していた。でかい音でごまかしても本物のグルーブは生まれない。そんなバンドが多いのも事実だ。『LIVE AT THE FILLMORE EAST』でのクレイジーホースは一見、素朴で初々しいが、やはりグルグル回るローリングミュージックを演奏している。その点では現在と同質の演奏。このじわじわ感覚の果ての長い絶頂はやはり時代性か。それともクスリのせいか。オールドロックとは誠に人を酔わすサウンドを有している。

酩酊状態の中の覚醒。狂気。ギターの音はやはり鋭い。青い炎が立っている。幻覚者の表現行為。裏側の世界を垣間見た者がリアル世界に対する報告をしている。自然世界やヒューマニズムの視野を含みながらも個人の内部へと向かう旅。内面の狂気を基点とした世界に対する意見表明。クレイジーホースが表した世界とは例えばヴェルヴェットアンダーグラウンドなど、先端都市音楽のみの特許と思われたダークで詩的なロック世界をカントリーサイドで実現したものだろう。70年代にウェストコーストロックは随分、レイドバックした軽音楽を量産したが、C,S,N&Yやバッファロースプリングフィールド、クレイジーホースなどのスタイルや本質の正確な継承があったらもっと違うシーンがメジャーで生まれていたのではないか。言うまでもなく彼らを継承したのはパンクやリアルロックのほうであった。

余談だが付属のDVDはCDの至福時間を台無しにする無用のもの。ビデオではなく、音をバックにモノクロームの写真を(それも同じものばかりを)写すという詐欺まがいの代物だ。こんなものを付けて姑息にも値段をつり上げている。プロデュースにニールはからんでないようだが、こんなバカな仕事は却下するべきものだ。古いオープンリールレコーダーの演出もわざとらしい。古いものを古き良きものとしか捉えない懐古趣味程度の価値しか認めていないかのようだ。この貧困な発想。ここでの音楽はむしろ今の音として聴かなきゃいけないのだ。そして実際、今こそ、この演奏が有効なのに。ロッククラシックなどという言葉も撤廃すべきだ。現代に直結するテーマを持つものは全てリアルナウロックと称すべきで、クレイジーホースの演奏は例えば、ジャムを目的化した勘違いが前提にあるような現在の<ジャムバンド>シーンなどの間違いを正確に指摘する際に最も有効な音源だろう。『LIVE AT THE FILLMORE EAST』のCDジャケットに奇しくも同じ日の出演がマイルスデイビスグループだった事を示す看板があるが、37年前、両者のこの類型は違和感なきものだった。両者に共通するトリップの大海原の中にある覚醒意識。これは長尺なインプロやソロに溺れるだけのジャムバンドのテーマなき脆弱さとは異質なものである。クレイジーホースはマイルスと等しく今尚、先端的な音楽である。

2007.8.13



 



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