満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

敗者の邂逅  ジャコパストリアス&ラシッドアリ 『Black Bird』

2006-08-22 | レヴュー


ジャコパストリアスの悲惨さは、その死後、幾重にも増しているように感じる。

レコード店を覗く度に増えている未発表の音源。
その多くがセッションもどきのおおよそ作品化されるべきでないレベルのもので、ジャコの劇的な半生、悲劇の死という物語から生じる取り急ぎの発掘作業のようなものだ。
死者を利用し、今の内に金儲けしようとする輩の餌食になっているのは明らかであろう。

自身の音楽的評価を下げてしまうであろう駄作を連発される事に抗議できないジャコの悲惨さ。正に死人に鞭打つ行為だ。
私のような馬鹿者は毎回、そんなCDを買ってしまい後で後悔しているが、
それも後の祭りである。
その激しく劇的な半生が映画化されると聞いてからもう久しい。しかし、その後何の情報もないという事は恐らくその企画は無くなったのだろう。

ジャコパストリアスがいつものように酔っぱらってバーに乱入し、店の用心棒に殴られ死んだのが1987年。
伝記「ジャコパストリアスの肖像」(ビルミルコウスキー著)でその破滅的人生が私達に知れたジャコは一流アーティストにもかかわらず、
惜しまれて夭折したヒーローであった。

ウェザーリポートでの栄光。自身のビッグバンド。そこには充実期に於ける高水準な音楽活動があった。
しかし<病状>の悪化と共に、ジャコは他者無き自己の世界へ突入して行った。その狂気がほどよく現実世界と折り合いをつけた融合点に於いては確かに見るべき演奏もあったようだ。
しかしその多くはいわば<あちら>へ行ってしまった魂の無秩序な彷徨をマスターベーションのように垂れ流すジャコがいたであろう。
それはとても作品、或いはライブステージと言えるものでは無かった筈だ。晩年のジャコの音楽行為はその大半がそのような無秩序の放流状態にあった。
生活は荒れ、半狂人化したジャコは誰からも遠ざけられた孤独の中に在ったようだ。

                  **********

ラシッドアリと言えばジョンコルトレーン後期のレギュラードラマーとして傑作『village vanguard again』(66)等での唯一無比とも言える演奏が印象に残っているプレイヤーだ。
脈絡のないポリリズム。ドラムセットをまるでパーカッションのように叩くこのドラマーをコルトレーンは高く評価した。
いや正確に言えばその潜在性に期待した。しかしアリを評価したビッグネームは後にも先にもサン・ラとコルトレーンだけだった。解るような気もする。

余りにも個性的な演奏だ。シャカシャカシャカと際限なく鳴る鈴。
スネアはその本来の役を与えられずドラムセット自体がアリにかかるとまるで子供に遊ばれるように玩具化される。

時折フロアータムがドカドカドカと激しく連打される。ベースとの接点は全くない。自身の創作リズムへの没頭あるのみだろう。
好不調の波も激しかった筈だ。
後期コルトレーンが多くのレコーディングを行ったにも関わらず、オクラ入りの音源が多いのも、
もしかするとアリのバンドへのフィット感の有無によって判断された部分が多かったのかもしれない。『village vanguard again』(66)や、
『coltrane in japan』(66)はプロデューサーに<可>の判定を下された数少ない音源だったのではないか。

前任者エルビンジョーンズのパワーとテクニック、その完璧さと比べればアリはアマチュア並と言えば言い過ぎだろうか。
実際エルビンはアリの事を「ドラマーとしては大した事のない奴で、しかもエゴイスティックで変な奴だった」と回想している。

コルトレーンの死後、アリの仕事は減り、長い不遇の時代が続く。
後期コルトレーンのドラマーであった事実だけがアリにとって心の中の栄光ではなかったか。コルトレーンと共に来日公演も務めている。
その短期間が人生の頂点であっただろう。

そんなアリとジャコが出会った。
全く何という組み合わせだろう。二人の敗者が人生の底辺で出会った。
アリは回想する。

「1983年に55グランドクラブでジャコと出会った。イタリアでバルコニーから落ちて手首を折った例のツアーから戻ったばかりの頃だった。
私はクレイジーな奴がステージで腕にギプスと包帯を巻いてベースを弾いているのに気付いていた。'こいつは誰だ'と思っていたんだ。(略)ジャコと私は二年間位ずっと親しくしていた。

私達はリズム的に特別に相性が良かった。(略)彼のことを人間として、ミュージシャンとして、友人としてずっと忘れないだろう。
彼は私が落ち込み、完全に音楽をやめてしまおうと思っていた時に私の前に現れた。彼は私を失意から救いだし、再びプレイできるようにしてくれた。
この事だけでも私は決して彼の事を忘れないだろう」「ジャコパストリアスの肖像」(ビルミルコウスキー著)

「私達はリズム的に特別に相性が良かった」という発言が何とも可笑しく、また感動的だろう。

アリのダラダラしたポリリズムとジャコの音粒の効いたリズミカルなベースが一体、どう合うと言うのか。客観的には全く異質な組み合わせだろう。

そんな二人のセッションが偶然にもフランスのラジオ局によって録音されており、最近になってタイムレスという会社がその音源を許可なくCDリリースをした。
アルバム『black bird』はジャコとアリのインナーな音の対話が収められたドキュメントである。

その奇行故、誰からも相手にされなくなっていた天才ベーシストとメインストリームから全く取り残された特異なドラマーの競演。
しかしこの両者の奇妙な一体感はどうだろう。アリの言う「相性が合った」という言葉が頷ける内容ではある。しかしそれは音楽的一体感と言うよりは、二人の人間的一体感、魂の融合とでも言うべきだろう。

実際、ジャコは自分の世界に入り込みすぎ(晩年はしばしばそうであった)最早ソロ演奏のような展開になる場面もしばしば見られる。

アリの存在を忘れたかのようなジャコのマイワールド。しかしアリはサポートのようで全くサポートになっていないその脈絡無きドラム音でしっかりとその存在感を現わしている。ヘタウマの強みと言えば失礼か。
両者の熱さと時折グルーブに突入するスリリングさ、或いはお互いが別方向へ向かって暴走するさま。
そんな二人の全く奇妙なデュオが展開される。
曲目はジャコお得意の演目の数々。

ポールマッカートニーの「BLACKBIRD」、チャーリーパーカーの「Donna lee」、ジミヘンの「purple haze」そして自身の傑作「continuum」等。特に「purple haze」での15分以上に
及ぶアナーキーな演奏は正に<他者なき二人だけの世界>の創造に向かっている。

これは最早、二人の敗者が奏でるルサンチマンの放射だろう。その怨み節、攻撃性が音楽的完成度を伴わず、
ただただ無秩序な放流となって表現される。しかしその強度に私達は圧倒されるだろう。


    <以下 略>
続きは「満月に聴く音楽」にて。
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譚盾 TAN DUN

2006-08-22 | レヴュー



沈黙から生じる音の色彩。
譚盾(タン・ドウン)の音楽は沈黙から始まる。その沈黙の器の中にエネルギーが充満し、その密度が耐えきれず爆発する時、あらゆる音が万華鏡のように空間へ飛び出す。一つ一つの音が余りにも存在的であり、その強弱や長短はおよそ考えられ得る全ての音がそこに在る。
そして音に拮抗すべき密度を誇る沈黙も又、譚盾の音楽の重要な要素に他ならない。更に沈黙のようで沈黙でない、つまりボリュームを上げないと聴き取ることができぬ程のわずかな音量で放流される微音もある。かと思えば突然大音量になるノイズ空間。譚盾自身の特異なボイスパフォーマンス。
音があらゆる運動をする。譚盾にとって音はそれ自体、生命を持った生き物のようだ。

このような記譜不可能な音楽にあっては音が様々な動きをする。音が揺れ、跳ね、消え、現れる。譚盾はある意味、帰依の状態での作曲行為や演奏、パフォーマンスを行っているのではないか。そう思わせる程、彼の音楽には'動性'を感じる事ができる。その'動性'こそがあらゆる表現の垣根を突破する指向性を含んでいるのだ。

譚盾が異なるジャンルとの表現者とのコラボレートに執着する姿勢は彼の宇宙観、自然法則観が究極的なバランスの元に合一性を持つものである証だろう。
従って譚盾にとって表現行為は'細分化'されてはならない。細分化されればされる程、それはパワーが失われ、儀式からほど遠いものになってしまう。京劇という彼のバックボーンは譚盾の音楽性に深い影響を与えているのだろう。彼は音楽というジャンル選択しながら'総合芸術'を志向している。

 <以下 略>
続きは「満月に聴く音楽」にて。
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