満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

MARK STEWART 『EDIT』

2008-06-25 | 新規投稿

若者の初期衝動とは必ずしもストレートなロックに向かうとは限らない。ファンクとレゲエが好きなミドルティーンがパンクムーブメントに出会ったらどうなるか。3コードや8ビートの修得し易さ(比較的)を通り越して無謀にも自らの嗜好へジャンプする精神も尊いだろう。初心者なのでアフタービートなどは勿論、16も弾けない。もしかしたら8ビートもちゃんとは叩けない。しかし一直線のロックはやりたくないし、内面は屈折し世間に意見がある。激情もある。さて、音を出したら凄い事になった。ギクシャクドッタンバッタン、ギャーってな具合に。ビーフハートの再来?初期衝動を素直に出しただけなのさ。なのに、前衛だの社会派だの言われてしまった。餓えたアフリカの子供のキッスのアルバムジャケットの衝撃は新たなメッセンジャー登場との波紋を拡げる。いや、確かに社会問題に目は向いてるけど。まあ、それより内面の混沌をワーー!っと叫んでいるのが本当であって・・・

80年前後、PALMS(なつかしすぎるぜ)に通っていた私にとってポップグループは‘ファンク’だった。そのディスコ(クラブとは言わない)ではPIL 、DAF、ダンスソサエティ、ファンボーイスリー、マラリア、トーキングヘッズ等と一緒にポップグループも頻繁にプレイされていたのだから。その歌詞やグループの姿勢から左翼思想を心棒する‘赤い’奴らという印象も持ったが、その本質は初期衝動がストレートなロックにならず、屈折したヘタウマファンクになった快楽主義にある事をうすうす感じていた。(この点では「fool’s mate」より「rock magazine」が正しかったのかな )

ポップグループ解散後、屈折ファンクをよりグルービーに変化させたリップリグ&パニックやピックバッグ(来日公演、最高だったな。サイモンアンダーウッドのベースにしびれた)と違い、マークスチュワートはアンチグルーブを貫いた。マフィア名義の『learning to cope with cowardice-the director’scut』(83)の‘聴き辛さ’は格別で、その音楽の聴覚刺激的な劇薬性はもう、鑑賞の余裕を超えていた。誰が聴けるかこんなもん、という感じだった。マフィアは後のタックヘッドで、超合金ファンクをプレイする強者だったが、マークスチュワートのバックに回ると、そのマークとエイドリアンシャーウッドによって演奏がズタズタにカットアップされてしまう。グルーブが解体され、編集による音の刺激物と化す。しかし今、思えば、この解体されるグルーブにマークスチュワート琉のファンク様式の異化作業があるが、その中で常に真ん中に在った彼のボイスのリズムこそは、決定的なファンク要素であった事を再認識する。彼の大きく上下するボイスには確かに‘踊れる’要素が充満しているだろう。ポップグループ以来、一貫しているのは、声の抑揚に感じられる内的リズムの起伏の大きさ、その振幅が正に‘ファンク’そのものだという事だ。『metatron』(90)で意外なデジタル感覚を注入し、‘聴きやすく’なってきたが、声のファンク性という核は不変のスタイルだったのだ。

新作『EDIT』でもその印象はボイスの真っ正面な‘ファンク’性に尽きる。そのメロや反復されるリフのようなボイスの中に内面から放射される鼓動そのものがすっ飛んでくるだろう。極めてグルービーな歌としか言いようがない。決して耳にだけ‘くる’刺激音じゃあない。全身全霊、インパクトのかたまり。危険です。
マークスチュワートの相変わらずの社会問題への意識と内面の混沌に根差す過激な音響世界。ニューウェーブ世代の誇れる数少ない‘現役’。
最強。

2008.6.25


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LEVON HELM 『DIRT FARMER』

2008-06-18 | 新規投稿

レヴォンヘルムとロビーロバートソンの確執は性格の相違に端を発した表面上の行き違いではなく、もっと存在論的な問題、表現のコンセプトやアイデンティティーをめぐる本質的な違和感に根ざすものだったのだと思う。端的に言えばそれは暗黒への了解、闇への触手に関するロビーの積極性とレヴォンの消極性が本人達の無意識のまま拡がる事による不幸な相互不信だったに違いない。ザ・バンドの音楽性に最初から極めて本質的なアンビバレンツがあり、しかし、それ故にあの豊饒な希有の音楽を実現するマジックが生まれた。

ユダヤとばかり思っていたロビーが実はユダヤとインディオの混血児だった事を多くの人は、彼の86年以降のソロワークで初めて知る事になり、私はザ・バンドの音楽に潜む無意識の暗黒を想起する事になった。レヴォンという生粋の南部人と4人のカナダ人、その中で一人何となく浮くユダヤ系ロビー。アメリカンルーツミュージクへの愛という一つの結束帯だけで束ねられたバンド。金銭や版権管理という雑務をも含めたバンド運営に熱心なロビーの典型的なユダヤ資質はバンドを常に前に押し進め、それはややもすれば自堕落な他のメンバー達の尻を叩きながら牽引した孤独感と周りの無理解による苦悩をもたらせていたが、この時点では、‘ミスターアメリカン’レヴォンとのタイプの相違という次元で理解ができる。
しかしロビーがインディオとのハーフだったとなれば話は別だ。

ロビーを含めたメンバー全員のレヴォンへの敬慕とは土着アメリカン(ルーツミュージックの豊饒さを熟知した)であるレヴォンが醸し出す‘アメリカそのもの’といった文化的体臭に対する敬意であっただろうし、レヴォン自身の優越感も典型的な南部体質である自らの歌や演奏がルーツに根差すもので、決して借り物でははいという自負によるものであった筈だ。

レヴォンの歌った「the night they drove old Dixie down」は南部への偏見を打ち砕くという意味で当のアメリカ人をも改心させるが如く希有な表現力に満ちた曲だった。多くの‘進歩的’で‘リベラル’なアメリカ人がこの曲の持つ‘アメリカの原風景’にデジャヴ的感慨を覚え、その豊饒な歌世界に魅せられた。映画『ラストワルツ』を観た多くの人、恐らく世界中の人が、この曲の深い感動に‘アメリカ音楽’そのものを無意識に感知したのではないか。事実、私はそうだった。とてつもない名曲だった。
コンポーザーとしてのロビーが夢想するアメリカの原型を体現してみせるレヴォンヘルム。彼は皆が憧れる‘アメリカ’そのものだったのだ。

しかし。
レヴォンヘルムが体現する‘アメリカ’がフロンティスピリットを具体化したインディオ駆逐の犠牲に成り立つ理想郷なら、そこには更に遡るルーツとしての原住民文化、ネイティブアメリカンのエッセンスは消去されているだろう。アメリカンミュージックは連行したアフロアメリカンを起源に持ち白人の感性と混合され成立したが、一方で、インディオは音楽的影響についても微少に留められた。
ロビーロバートソンがザ・バンド解散後の数少ないソロワークで顕在化させたのは、そのインディオ文化の音楽的抽出であり、ザ・バンド時代には制御された表現の形だった。そこに私はレヴォンへの対抗意識が感じられる。つまり、‘真のアメリカのルーツは自分の血にこそある。君ではない。その原アメリカを体現でき得るのも私である’と。

インディオの事を‘ネイティブアメリカン’と言う。
ヨーロッパから渡来した白人や彼等が連れてきた黒人奴隷より先に居住した原アメリカ人なのである。言うまでもなく。インディオとユダヤのハーフであったロビーがその風貌を、ザ・バンド解散以降、年を重ねる毎に変化させ、赤茶けたインディオらしいものになっていった時、彼はルーツ目覚めたのだろうか。ザ・バンド時代、レヴォンと共有したアメリカンルーツミュージックへの愛は、数々の豊饒な音楽を生み出した。そこで共有した音楽には何ら相違点はなかった。それは確かだろう。しかし意識下においてロビーのインディオの血は‘異なるもの’へのアプローチを求めていたのではないか。ロビーは自分でもそれを判別できなかった。ツアーが嫌で早く解散したかったロビーとドサ周りも厭わないレヴォンの性格的相違は表現力の源泉への意識の相違という深い闇にこそ原因があったのだ。

どうりでザ・バンドの音楽に直線的な開放性、数多あるR&B、カントリー、ブルース、ウェストコースト等の音楽の多くに見られる‘容易さ’がなかったわけだ。中学時代の私にとってザ・バンドとはイーグルスのように簡単に味わえる代物ではなかった。
ザ・バンドの陰陽的とも言える奥深い音楽性はオルターネイティブな本質に因るものが大きかったのだ。アメリカンルーツミュージックの集大成的体現であるザ・バンドは実にアメリカンゴシックをも裡に含む神秘音楽だった。光と闇、陽光と暗黒が共存するトータルミュージックのマジック的本質がザ・バンドの味わい尽くせぬ複雑さ、一筋縄ではいかない多面性の源だったのだろう。
それを顕在化させたのが、ロビーによる無意識操作のような‘異物’の注入であったと今、感じる。そう言えば山本精一氏がロビーのギタープレイを‘レイドバックやR&Bという要素だけでは括れない。かなりヘンで変態的なギター’と語っていた。(記憶違いでなければ)たしかにそうだ。そしてそれを証明したのがロビーのソロワークに於けるインディオ志向だった。ロビーはその志向をザ・バンド時代とは違い、今回は意識的に行ったのだ。

しかし。
ソロワークに於ける、その意識的な‘ネイティブアメリカン’志向の試みが音楽的に成功しているのかと言えば、私はそうは思わなかった。そのエスノアプローチは幾分、学術的で、音楽のグルーブに欠ける。何よりもロビーのギターがほぼ封印される音楽性にはザ・バンドのような生命力や躍動感がない。サウンドメイクの斬新さやコンセプトの重さだけが、感覚刺激的な驚異感を醸し出す事はあっても、そこにはアメリカンミュージックの生命線である娯楽性がずっと後退したロビーの孤独性しか感じられなかった。
ロビーは例えインディオ志向の音楽を創造するにしても、その触媒的位置からレヴォンという‘南部アメリカの発信器’が必要だったのではないか。

『contact from the underworld redboy』(98)を最後にアルバム制作から遠ざかる長き沈黙に私はロビーロバートソンの才能の枯渇を感じ、方向性を見失った表現者をイメージする。即ちネイティブアメリカンという自らのルーツさえ、それは彼の表現拠点たり得なかった。一方の血であるユダヤ的性格がその‘彷徨い’を助長するのか。地に足をつける土着性から永久に乖離し続けるロビーにとってザ・バンドの四人は彼の音楽を進展させる為には別れるべきではないメンバーだったのではないか。彼以外の誰も解散を望んでいなかったのだから。

ガースハドソンは‘基本を反復する’マウンテンミュージックの事をずっと以前に言及していた。インディオの儀式としての音響や呪術的サウンドに通じる要素がザ・バンドに元来、あり、そんなゴシック感覚は表面的なバンドサウンドの中に隠し味的に存在していた。ロビーの作る楽曲に無意識にそれらが潜み、楽理に精通したガースだけはそれを嗅ぎとっていたのではないか。従ってガースが施すアレンジはそれを充分、踏まえたものだったのかもしれない。恐らくガースがザ・バンドの曲の潜在性を表面に引き出していたのだろう。

ロビーがネイティブアメリカンを題材にした小難しい制作をしていた80年代以降、レヴォンはRCOオールスターズや数々のソロ活動を続行していた。そしてロビー抜きのザ・バンドは隠し味なきそのストレートな音楽性がエンターティメントを発揮していただろう。彼の周りには常に仲間が集まり、その人柄が他人を惹きつけていた。彼には仲間と音楽を楽しむというスタンス以外の姿勢はない。売れなくなり、嘗ての栄光とは程遠い境遇になっても「昔に戻っただけ。ビール瓶がとんで来ない限り続けるだけさ」と、そのドサ周りの旅に懸念はない。その音楽性は当然、ザ・バンドの深みに及ばないが、彼の無比と言える歌声の魅力はその‘浅さ’を相殺していただろう。

しかし。
喉頭ガンというレヴォンにとって命と言える歌声を封印される事態は彼を幾分、内省的な資質に変えたであろうか。精神の深部との対話があった筈だ。嘗て、長い半生を放蕩と快楽、陽性に生きたレヴォンの静かな生活を想う。リチャードマヌエルの自死。リックダンコの逝去という悲しみを乗り越え、レヴォンは歌ってきた。しかし、ザ・バンドの‘声’は三つ目の死を迎えたのか。

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『DIRT FARMER』はレヴォンの復帰アルバム。喉頭ガンを乗り越え、たどり着いたのはアメリカルーツミュージックの境地と言える重厚な世界であった。先程、私が‘浅さ’と断じたこれまでのレヴォンの諸々のソロワークとは対極にある深みのある作品となった。これは驚くべき事だ。1曲目のイントロを聴いた瞬間にその泥臭いルーツミュージックの鋭さに衝撃が走る。もはや違和感さえ感じるその伝統美。喉頭ガンによる声の制御が逆に歌の深みに影響をもたらし、レヴォンにトラッドの伝道師たる正統の資格を与えたかのようだ。ザ・バンドの高みに何とレヴォンが再び到達した。オルタナカントリーなど、この音楽の前には全滅。嘗てのウィリーネルソンでもここまで濃い音楽を作ったか。
音楽への愛が結実した。その重さの勝利。レヴォンの日常感覚からあふれ出る自然体の音。家族愛や自然、大地、ドメスティックなアメリカの保守志向と生活文化がレヴォンの中に根を張り、一つの信念のように揺るぎない世界を構築している。
ここにアメリカンミュージックのスタンダードが登場した。
伝統を後世に伝え、継承の種を蒔く音楽。

ルーツをめぐる主導権とはコンセプトではなく、音楽への愛の深さによって計られるものである事がここに判明した。ロビーロバートソンはこの作品をどう聴くだろう。

2008.6.18

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SALIF KEITA 『REMIXES FROM MOFFOU』

2008-06-12 | 新規投稿

また、ボノが日本にやって来てアフリカの事でごちゃごちゃ言っている。
各国首脳が恐れる男。
今回も総理、その他、要人に面談している。誰も断れない。以前、「忙しいから」と会おうとしなかったカナダの首相は、後で「アフリカ援助が進展しないのは彼のせいだ」と名指しで非難され、あわてて陳謝した。ボノに批判されたら、政治生命にも影響しかねない。彼の一派はもはや圧力団体か。政治のポピュリズム化の世界的流れは、ここまで影響力を持ってしまった芸能人を生んだ。NGO全盛時代の一断面と解すれば良いのだろうか。

ボノは日本政府を批判したようだ。
曰く「2国間のODAではなく、国連などを通じた多国間援助を倍増すべきだ。」
ジュビリー2000という債務帳消し運動もその批判の矛先を日本に向けている。世界トップの90億ドルを援助しているにも関わらず、まるで非人道扱いだ。
「返す努力だけはしていただきたい」
「先進国の中で日本だけはアフリカに武器輸出をしていない」
これら日本政府の主張はいずれも、‘非寛容的態度’として、退けられている。
債務帳消しに応じたイギリス政府などの思惑は‘日本からの援助金で武器購入代金は払ってくれよ’という事だろう。フランスもそうだ。大体、イギリスなど、援助額は日本の900分の1でしかない。
欧米各国は国益に沿って判断しているだけで、アフリカでのプレゼンス確保の為には、もはやNGOやボノら有名人の‘善意’をも取り込んで、計算している。そもそもアフリカの貧困の根源に部族間闘争があるのに、兵器商売をする矛盾を説明できていない。せいぜいが「勢力均衡の為」だろう。列国にとってアフリカの債務帳消しとは利益範囲内でしかなく、本当は痛くもかゆくもない。むしろ債務帳消しという破産宣告はアフリカの貧困という現状維持=ヨーロッパによる影響力確保という利益構造の一環なのだ。

アフリカでの様々な現地報告を少しでも読めば、その一筋縄ではいかない病巣がイメージできるだろう。かれこれ25年以上も関わっているタマネギ頭のおばさんも、もはや諦めの心境なのだ。何故、変わらないのか。
止まぬ内戦。ヨーロッパによる収奪の構造が形を変えて残存している事。援助が依存心を持たせてしまう温床になっている事。これら根深い現状は債務帳消しによる一時的措置をはるかに超えた、理不尽の構造に変化がない事を示している。自助努力をスルーして援助物資を待つメンタリティを育てたのは誰か。アフリカには安直なヒューマニズムではなく、自立心を育成、自覚させる‘闘い’こそが必要なのだろう。

自助努力と向上心の促進以外の解決策はないと思う。アジアの多くの後進国でそれが実現したように。
‘返済不可能な重債務は先進国の援助の構造に問題があるのだからこれを帳消しにするのが人道上においても妥当である’とする主張はもっともだが、じゃあ、その構造を招いた欧米のアフリカ政策こそを問題にするのが先ではないか。具体的には武器輸出の全廃に向けて何らかの国際的合意を図る会議があるべきだ。中国が大々的にアフリカの武器市場に参入した今、これをジャッジできるのは日本しかないだろうが、もっともそんなリーダーシップを取る力量も気概もまるでないのが日本という戦略なき国の姿だが。
しかし、少なくとも‘ジュビリー’(免罪)などというユダヤーキリスト教の概念を適用されても困る。そんなものに共感する日本人はあの坂本龍一をはじめとする‘地球市民’達だけだろう。

「 今こうしている間にも、世界の重最貧国では子供も大人も飢えや病気で死んでいる。飲み水さえないところもある。でも、ぼくたち日本人は簡単にそれらの国の債務をチャラにできる。」坂本龍一

税金逃れの為にニューヨークに移住する人間にこれを言う資格があるか。何が‘簡単に’だ。国の金を何だと思っているのか。国民の労働によって蓄積された税金の使い道を‘亡命者’坂本がいともたやすく意見する厚かましさは反体制主義者特有の放言でしかない。同じくボノに至っては、アーティスト育成に力を入れるアイルランド政府の印税無税が高額所得者に際しては課税する方針へ変更されるや否や版権管理会社をオランダに移して納税を避けるという、共同体への背信行為を働いている。かくの如き行為を日本では恩を仇で返すと言う。しかも、政府に談判し、アフリカ援助の倍増を実現させている。他人よりも稼いでいるんだから率先して母国に納税すればそれも誇れるが、ボノのやる事は常に政治家に圧力をかけて金を動かす事だけだ。アイルランドの国庫がそれほど潤っているとは思えない。ブッシュから50億を引き出した事も英雄気取りで吹聴している。坂本やボノ。こやつらには自分の財布のひもは決して開けないという共通点があるようだ。

もう一つの共通点がある。行動原理主義者である点だ。
「アフリカへの援助。これは知性ではなく、モラルの問題だ。」ボノ
「先進国ではたくさんの人がジュビリー2000を支持している。でも、かんじんの日本ではあまり知られていない。もっとたくさんの人、特に若い人に知ってほしい。だって、これからの世界を生かすも殺すも、若い人の生き方にかかっているから。」坂本龍一

アフリカ援助への無関心とはモラルの欠如であり、ジュビリー2000を支持する事はこれからの世界を生かす試金石であるらしい。「考えるだけじゃなく、行動で示して下さい」というエセモラリスト(プロ市民とか言うらしいが)特有のこのような物言いには明確に反論したい。

私にはモラルを形成するのは良識であり、それは知性とリンクすると思っているし、ジュビリー2000というたった一つの運動への支持/不支持を問う事を一つの例として個人の‘生き方’を示す如き党派主義的感覚の古さを疑う。ましてやそれが‘これからの世界を生かす’などという三段跳びの如く単純化された踏み絵的発想に嫌悪を感じる。

慈善活動、政治活動が個人の信念に基づくものである以上、それは社会性を帯びる以前に個人の哲学的行為であると言える。その生き方が他者による内政不干渉を約束されるなら、同時に他者への非―強制性とも一体でなければならない。
‘善意’の活動は常に道徳的優位を装いながらやってくる。しかも多くの場合、それは‘世界’という普遍性を盾にしている。恐れる事はない。良識を盾に対処すればいい。‘地球市民’も良いがその前に我々はまず、国民である事を自覚するべきだ。共同体への義務遂行が全ての政治的行為や思考の前提になる。もっとも個人の主義、哲学によってそれを拒否するのも一つの‘生き方’であり、否定はしない。先述した通り。しかしそのような‘生き方’の者が、自国の政治をサジェスチョンし、社会性をまといながら、思潮を動かしていく事には警戒が必要だ。

共同体への義務遂行とは何か。下世話レベルの話だが、それは確定申告と納税。それと選挙への投票なのだ。これで我々は既に、いわゆる‘アンガージュ’(参加)を果たしていると考える。個人が内面に生きると同時に社会性を獲得すべく意志を表明する最低限の機関がこの‘参加’である。これを果たす者に対し「お前は世の為に何もやっていない」という批判は‘良識なるものの形成’に無自覚な者であり、ただの‘勘違い野郎’と見る。

アフリカ援助ではなく、国内の問題に取り組む者は程度が劣るのか。赤い羽根募金とジュビリー2000に優越があるのか。更にそれら‘活動’を何もしていない者は道徳心に欠けるのか。そんな事はない。あるのは各々の‘自己主張’だけであり、モラルの重さではない。むしろそこに優越をつけるドグマ主義者こそが、偽善なのである。めいめいが固有の考えに従って、政治的行為や思考をすれば良い事なのに、ドグマ主義者は自らの信念を他者に強要する。こやつらにとって政治活動は宗教なのだ。
以前、流行ったホワイトバンド運動など意味ある運動なら継続しているはずだが、その後どうなったのか。‘善意’で洗脳する商売以外の何物でもなかったんじゃないのか。

サリフケイタの『REMIXES FROM MOFFOU』は2004年リリースの再発。傑作『MOFFOU』(2002)の様々なクリエイターによるリミックス集である。『MOFFOU』(2002)はワールドミュージック寄り(フランスカテゴリーの)だった80年代以降のサリフケイタが汎アフリカ世界に回帰した作品だった。この作品が選ばれたのは、サリフケイタ作品でしばしば見られた欧米ポップ的なビートをバックにしたものではなく、アコースティックサウンドだったからだろうか。その方が欧米のDJ,リミキサーにとって、はるかにイマジネーションが湧くのは道理だろう。エスノサウンドを欧米のアーティストがリミックスする時、決まってそのエキゾチズムがソフトサイケの方向に向くのだが(ガリアーノ、琉球アンダーグラウンドなどその例多数)、ここでのサリフケイタはよりリアルな覚醒的音象が印象に残り、快楽に身を委ねるトリップ感はむしろ希薄である。これはオリジナルのコンセプトの重さに拮抗するリミキサー達の真摯な対応であり、‘対決’に等しい緊張関係があるからだと感じる。それほど全体に大胆なサウンド構築が施され、サリフケイタのボイスの重量感を浮き彫りにしている。特にラストのdoctor Lによる「here」は圧巻だ。

アフリカの‘現実’に欧米が対決するコラボレーション。
ここにある解体と構築。或いはそれに抗い、自己再生するダイナミズム。
現実世界の遠い投影であろうか。アフリカと欧米の共闘のメッセージがきこえる。

2008.6.12
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LOCO DICE 『7 DUNHAM PLACE』

2008-06-10 | 新規投稿

以前、sunshine jonesを聴いていた時、部屋に入ってきた4才の娘が踊り出して止まらなくなった。ミニマルビートとは幼児をも狂わす中毒性があるという事か。まさか。

90年代のレイブ以降、ビート中毒患者は世界に拡散し、それはいわゆる‘音楽ファン’とは別の階層を生んでいる。そのビート中毒症状の‘音楽’への影響、侵食も顕著であり、リスニング環境や音楽語法、流通などあらゆる領域に変容をもたらしているだろう。
レイブが言葉を持たない事にその要因があると思われるが、それは嘗てのロックとの対照によって明らかだ。言葉を持つロックはどこまでいっても、形而上/反形而上の領域に固定され、ロックのメンタリティはどこまでもアゲインスト(反抗)であっただろう。そこには明確な反抗意識や思想、コンセプトがあった。しかし、レイブはそうではない。その音の無思想性はビートによる直接快楽性という言うなればウィルスであり、その力でいとも簡単に人を‘脱力’させる。それはアゲインストではなく、いわばナチュラルアウトであろうか。特別な思想やコンセプトもなく、ビートの快楽性によって見事にアウトする危険性。それは社会性を喪失した若者を量産しかねない事態を生む。クリミナルジャスティスというレイブ禁止法はイギリス政府がドラッグやアル中の未然防止を目的にしたものではなく、ビート中毒者増産という国家的危機に対しての行使だった。それは経済を考慮に入れた生産性の衰退への対処であった筈だ。その意味で初期レイブとはロックよりもはるかに大きな反社会性を持つ(しかも無思想的に)新種の病気であっただろう。だから国家は警戒し、これを管理する方向に向かった。

クラブムーブメントが屋外に拡大した背景に、ビート快楽の伝播があった。90年頃のクラブは小さなハコが多かったと記憶するが、入りきれない者は、外に漏れるキックの音で路上で踊っていた。キックビート以外の音は外部には聞こえることはないが、もはや体を揺らす為にはビート音だけで足りたのだ。あの時、ビートのメロディをトータルで感じながらあくまでも‘音楽’で踊るという古い様式が消え去る実感がした。‘音楽’が‘音’になったのだろう。

スミス&マイティがだいぶ前、「リズムマシンの‘チッ’というハイハットの音が大好きだ」とかそんな発言をしていた。(多分、記憶違いでなければ)‘チッ’という無機質な音に深く感じ入る感性。そんな音の装飾性を非可逆的にカットしていくシンプリファイズの果てに、クリック/ミニマルという様式があるのか。ロコダイスはドイツで活動するチュニジア出身のDJ。その装飾を剥ぎ取る感覚、研ぎ澄まされた感性に鋭利なビート感が増す。同列に並び称されるリッチーホウテンやリカルドヴィボラスが‘ディスコ’にきこえる位、そのクール感は際立っているだろう。それは優美さをも醸し出す。
もはや嘗てのサンシャインジョーンズのようなラブ&ピース思想も不要。セカンドサマーオブラブも過ぎ去った。今、ビートという中毒性物質だけが、普遍性を獲得しながら芸術性という歴史主義さえも侵食し、あらたなスタンダードを作ろうとしている。ロコダイスのビート快楽に偽りはない。

2008.6.10
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