満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

john Coltrane quartet 'impressions of europe'

2015-11-19 | 新規投稿
大阪にディスクユニオンができた。80年代後半を東京で暮らした私にとってこのレコード店はあの暗い青春の日々(?)というか何とも言えぬ焦燥の年月を過ごした記憶の中にある思い出の場所でもある。新宿へ行くとまず立ち寄る場所。それがディスクユニオンであった。地下のジャズコーナーに入って、まずコルトレーンをチェックして左奥のフリーやヨーロッパのアヴァンギャルドジャズのコーナーへ行ってあれこれ物色し、順番に1階から中古の4階まで隈なく物色する。プログレ館はその頃、まだなかったのが、それでも充実してたね。いろんなジャンルを同時に、しかも大量に見れるレコード店。それがディスクユニオンだった。いつも5.6枚枚は必ず買ってから外に出てレコードをめくりすぎてねちょねちょになった手が気持ち悪いので向かいのパチンコ屋の洗面所で手を洗い、二軒ぐらい隣の名前は忘れたラーメン屋でラーメンを食べる。それが土日の過ごし方だった。まあ、今でも変わらないが。

2001年にリリースされた「live trane 'the europian tours」はCD7枚組でコルトレーンのヨーロッパ公演を年代別に網羅したような内容で、このアルバムの登場によって、それまでアナログのブートをあれこれ重複しながら買い集める日々に終止符が打たれる意義をもつものであった。確かに当初、私もこのCDを聴いていたが、ある時期から、回帰するかのように音の悪いはずのブートLPの数々を聴きだし、ブートをレコード店で見つけては買う習慣が復活した。そのきっかけは定かではないが、「クルセママ」のCD’デラックスエディション’を聴いたときの感動のなさ故だったかもしれない。LPでの空気が聞こえてこないという直感による物足りなさが私をアナログへ回帰させたかのようだった。

大阪ディスクユニオンで買った「impression of europe」
ingoと言えば「love supreme」のブートライブを出していたレーベルだ。この「impression of europe」も先の「live trane 'the europian tours」に入っているテイクが2曲ある。しかも'impression'はカットなしのロングバージョンで収録されていた。しかし、にもかかわらずこのブートLPの方が、良く聴こえるのはどうゆう訳か。私はここで低音の鳴りがどうだとか、専門的な事は言わない。そもそも門外漢だ。しかもたぶん、そんな理由ではないのだ。

わかった。これは錯覚だ。なぜならマイルスではこんな感覚は得られないからだ。コルトレーンだけに私が感じるテレパシー。それは先に書いた<あの暗い青春の日々(?)というか何とも言えぬ焦燥の年月>にタイムスリップする私の中心にいつもコルトレーンがあったからに違いない。ジョンコルトレーンの音楽は普遍的だが、そこに’あの頃’という付加がついて余計に感動する要素が生まれていた。それはアナログであることで生まれるマジックだった。

B面に収録された「the inch worm」。これはCD「live trane 'the europian tours」には入っていないテイクだが、このAMラジオのような音質の演奏の輝きには参った。ソプラノサックスの音が圧縮されたようなちょっと濁りを加えた肉声感がでるのだ。やはり。
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「Rain maker」  Nasuno Mitsuru ナスノミツル

2015-11-01 | 新規投稿
「Rain maker」  Nasuno Mitsuru ナスノミツル


Rain maker

雨の音を背景にベースの弦をタッピングする反復音が続く。どこか祈りのようなムードもあるし、祝祭めいた空間がある。やがて晴れ間が現れ、更にその澄み切った空気の中から雷鳴のような音響と共に豪雨、そして静寂へと流れていく。
ナスノミツルはこの作品で何が言いたいのか。何を伝えたいのか。否が応でもそんな事を想像せざるを得ない特異な音楽とも言えよう。一連の物語が終わった時、私達はまるで感性を更新されるかのような時間を過ごしていた事に気付くのかもしれない。

‘ベーシストならぬ音楽家ナスノミツル’が立ち現われたのはいつか。ソロアルバム「prequel oct.1988-mar.1999+1」(2008)は私達にテクニカルなインプロ、ジャズロック系ベーシストという表の顔の裏にあったナスノミツルの内奥を垣間見る事ができる契機となった作品であった。即興と楽曲の演奏という二つの領域におけるマイスターである彼に加わったもう一つの本質は果たしてダークな精神世界であった。それはやがてリーダーバンド、teneleven(テネレヴン)に結実する。しかも私に語ってくれた事によれば、その内向性に満ちた精神的な要素をナスノは学生時代のバンドSCHWARZ(シュヴァルツ)に原点を持ち、現在でもその影響下にあるという。それは即興に出会う前の彼の核心を形成した時期における音楽との一体化の営為であったと推測する。SCHWARZにあったニューウェーブ~プログレッシブな感性、実験的音響とリズムのグルーヴを共存させ、尚且つ、そこに耽美的な旋律を奏でる。そんな要素をもったSCHWARZこそが彼のコアを形成するものであった事を彼はこれまで公言した事はなかった。

アルタードステイツや是巨人、その他、数多の尖鋭的なグループでナスノミツルが見せるあの爆発的なベーステクニックやインプロヴァイズのスリリングさに私達は長年、目と耳を奪われてきた。彼の演奏力とは多くのミュージシャンが認めるその対応力や緻密さ、準備の万全さ、あるいは誠実な実行力をも含めた彼の表現力の為せる技でもあっただろう。そういった中、彼は自分自身の音楽を見つけ出す旅をずっと続けてきた。リーダーバンドtenelevenの衝撃的ともいえるダークな内向の世界。そこで彼はテクニックをほぼ、封印し、バンドサウンドのコンセプトの徹底を図ったといってもいいだろう。

彼は興味深い事も語ってくれた。曰く「譜面やデモテープがあればその通りに演奏するだけじゃなく、その先を知りたいという気持ちがあります。曲の先に何が待っているのかを知りたいという欲求ですね。作曲者のイメージ通り、譜面に忠実に弾く事はマストであり、普通の考え方だとそこに行く為にどうしようかという事になりますが、私にとってはそこはまだ0地点なのかもしれません。そこから先の方が重要です。先を知りたいということはその曲を自作の曲になるくらい弾きこむスタンスの中からしか出てこないと思っています。」
これは私の「なぜ、多くのアーティストがナスノさんとの共演を望むのか」という質問に対する彼の答えの一部だったのだが、そこから覗えるのは、彼はどこまでもイメージやビジョンを探求するアーティストであり、単に譜面を弾いて終わる演奏者ではないという徹底した姿勢の持ち主であるという事だ。従って、それは自分の音楽を表現する時も、他者の楽曲やバンドで演奏する時も全てを分け隔てなく同等の視点で臨む。ここに彼の真髄がある。それは換言すれば他者をリスペクトする証左でもあるし、自己表現と他者の音楽フォーマットでの演奏の境目を取っ払って尽力するナスノの拭いきれないアーティスト気質の証拠であり、存在証明でもあろう。そういったナスノミツルの姿勢に私は音楽の心棒者の姿をみる。彼は音楽を信じている。いわば、その力を。

「私の音楽は音だけ聞いてもすごく捉えどころがないというか、朝聴いて元気になる種類のものでもないし(笑)、悲しい時に聴く音楽でもないし、普通だと取り扱いにくいんだと思うんだけど、まあ、‘違う自分の扉をあける’というか、自身の違う部分を認識する、そういった聴き方が的確かもしれません。」
言葉の謙虚さの裏にある志の深さを想起されたい。
ナスノミツルはギミック的に驚異の感覚を作りだすのではなく、自分の内奥への旅を他者へ報告するかのように真正直に音楽を作り出す。そしてそれが聴く人を照らし出す時、他者との本当の繋がりへと至る事をイメージするのだ。

ナスノミツルが作り上げた大作「Rain maker」
彼の新たなビジョンが全編に満載された不思議な冒険のような物語が奏でられる。留意されるべきは、この構築的な音楽を彼はワンテイクの即興で作ったという事だ。装飾やオーバーダブを拒否し、まるで一筆書きのような潔さで一気に演奏を行った。従って私が最初、受け取った音源には所々にノイズや音色の落差が散見され、その即興の激しい道程、まるで茨の道を歩いてきたかのような傷や凹凸がそのまま記録されていたのである。私はミックスにおいて全体の統一感と拡がりを施したのであるが、逆にナスノミツルの即興へのこだわりという本質を再認識できたとも思っている。通常、コンセプトアルバムやこのような起承転結をイメージさせる音楽は細部への配慮を意識し、アレンジや再構築によって完成させていくケースが多い。対し即興はあくまで音の即物的な表現とも言え、構成主義的なものからははなれていく。ナスノミツルはいわば、複雑な物語をインスピレーションを頼りに即興という瞬間の妙技で遂行しようとしているのだ。彼が誇らしげに記した<ダビング、編集、コンピューター一切無しのソロベースのインプロ作品です>の言葉にナスノのオリジネイターとしての自負心を感じ、彼の語った次の言葉に合点が行く思いがした。

「最終的にtenelevenは即興のグループにしたいと思っています。即興のための共通言語を培う為に、ああゆう曲を作って、それがメンバーの共通言語になった時に、それを取っ払って演奏した時にこのグループじゃないとできない即興の在り方がでてくると思います。ですから今は曲をやってますけど、それは共通言語をメンバーが持つためのトレーニングなんです。」

アレンジ豊かな場面転換を多用するtenelevenの音楽を即興で演奏するとどうなるのか。そもそもそれは可能なのか。ナスノの言う共通言語とは演奏者が先の展開を読む事に関するある種の究極的な鍛錬を思わせるし、イメージを共有する事で起こりうる化学反応を期待する事のようにも感じられる。
即興について独自の解釈を持つナスノは同時に次のようにも語った。
「音の会話というのは即興の初期段階であり、むしろその次にステップしたい。即興の本当のマジックとはそれぞれがその人の音を出して、ある時、同じ瞬間に音が合う、同時に同じ言葉が発せられるような種類のものだと思う。」
音の会話、応酬といったレベルを超えた所にあるいわば‘共振’の領域の事であろうか。私は彼のこれらの考えからtenelevenで目論んでいる即興が音を即物的に捉えるインタープレイではなく、何らかのストーリーメイク、そしてビジュアルイメージの共作を図るものである事を推測する。しかもそれはナスノミツルのソロ演奏においても同様の指向性なのだと。

ナスノミツルが即興で作り上げた壮大な叙事詩とも言うべき「Rain maker」。
その音楽は彼の手を離れ、奔放に動き出す。それを聴く者は自由なイマジネーションの旅に向かい、その途中どこかでナスノミツルと出会うのかもしれない。

2015.9.20
宮本 隆  (時弦プロダクション)

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