満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

宮本 隆 Miyamoto Takashi×石上加寿也 Ishigami Kazuya

2018-11-29 | 新規投稿
宮本 隆 Miyamoto Takashi×石上加寿也 Ishigami Kazuya


12月5日(水)
sound of electric-edges @environment 0g [ zero-gauge ]
半野田 拓 Hannoda Taku(electric guitar, samplar)
宮本 隆 Miyamoto Takashi(bass、samplar)×石上加寿也 Ishigami Kazuya(synthesizer、electronics)
中嶋康佑 Nakajima Kousuke(livecoding,electronics
18:30 open 19:30start
Chaege2000(excluding drink order)

environment 0g [ zero-gauge ]
大阪市西区南堀江3-6-1 西大阪ビルB1F nuthingsjajouka@gmail.com

https://www.facebook.com/events/315442659060526/
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宮本隆 ライブスケジュール 12月

2018-11-28 | 新規投稿
12/1㊏ Adrena Adrena Japan Tour2018
https://vimeo.com/298127785

LIVE:
Adrena Adrena E-DA Kazuhisa ex:BOREDOMS with Daisy Dickinson (from UK)
Ryu-Ryu-s(宮本隆b.electronics+松元隆ds.syndrum)
Juri
kazuto yokokura
DJ:
KA4U
101

open 17:30 / start 18:00 / close 23:00 2000yen(inc 1drink)
@environment 0g [ zero-gauge ]
大阪市西区南堀江3-6-1 西大阪ビルB1F
nuthingsjajouka@gmail.com


12/5(水)sound of electric-edges

半野田 拓 Hannoda Taku(electric guitar, samplar)
宮本 隆 Miyamoto Takashi(bass、samplar)×石上加寿也 Ishigami Kazuya(synthesizer、electronics)
中島康佑 Nakajima Kousuke(livecoding,electronics)

19:00 open 19:30start
Chaege2000(excluding drink order)
environment 0g [ zero-gauge ]
大阪市西区南堀江3-6-1 西大阪ビルB1F
nuthingsjajouka@gmail.com



12/11(火) 「狂人企画vol.153」@京都熊野神社ZacBaran

[act]
・Rough Cave(Switzerland)
・山内 桂 YAMAUCHI Katsura[sax]+向井千惠 MUKAI Chie[二胡er-hu,voice,dance]
・花輪嘉泰(Sax)+宮本隆(bass)+近藤久峰(drums)
・野々山玲子+庄子勝治+嶌村カズヲ+倉田憲一

http://www.secondhouse.co.jp/zacbaran_top.html
open 18:30 start 19:00
charge 1000yen+1drink





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柳川芳命 Yanagawa Homei(as)+宮本 隆 Miyamoto Takashi(b) + Meg Mazaki (ds)

2018-11-26 | 新規投稿
柳川芳命 Yanagawa Homei(as)+宮本 隆 Miyamoto Takashi(b) + Meg Mazaki (ds)
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One Down One Up Live at the Half Note」(2005) John Coltrane

2018-11-23 | 新規投稿

「CREATION」というタイトルのついた奇妙なブートレッグがあった。Blue Parrot Recordなるスモールレーベルからリリースされたもので、店頭でこのアルバムを見つけた時、アルバムタイトルでもある「CREATION」という馴染みのない曲名のトラックが収録されている事がまず、目を引いたのは間違いなく、そのB面すべてを使用した23分に及ぶ激しい演奏に私は魅せられ、このアルバムをずっと愛聴していた。テーマとは言いがたいくらい短いセンテンスを持つ導入部に導かれて展開する高速の即興演奏だが、途中、アルバム「Kulu Se Mama」に収められていたエルビン・ジョーンズとのduoナンバー「Vigil」のフレーズが出てきたり、曲の後半には、そのエルビンによるテンポアップされたドラムソロが展開されるドライブ感に満ちた好演奏の記録である。 私は最初、聴いた時、未完成の曲を試験的にライブで演奏し、後に「Vigil」として完成に至る事になったのかとも思っていた。
クレジットには recorded in New York City April 2.1965としか記されてないので、ライブ音源であること以外の確認はできない。演奏場所も明記されないのは海賊音源故の作為であろう。
Eフラットから半音ずつ4音上がる単純な1小節のリフだけがこの「CREATION」なるトラックをかろうじて曲として成り立たせてはいる。このナンバーがニューヨークのHalf Note(ハーフノ-ト)というクラブでの演奏記録である事を知るのは「ジャズ批評No,57 コルトレーン全セッション」の中での記録ページをあたってみたことによるが、そこでも書かれてあるように「CREATION」という曲名はこのブートレッグのリリース元であるBlue Parrot Recordが勝手につけたのであろう事が推測される。つまり、コルトレーンはもしかしたら別のタイトルを用意していたが、まだ曲が仕上がってなかったので公言しなかった可能性もあるだろう。

黄金のカルテットと称されるコルトレーン、マッコイ・タイナー(p)、ジミー・ギャリソン(b)、エルビン・ジョーンズ(ds)による不動のカルテットの晩期にあたるこの時期、グループは嘗てない軋轢をグループ内に抱え込む‘非―安定’のさ中にあった。それを私なら‘不安定’とは決して言うまい。コルトレーンの音楽が内向的模索と外向的な爆発力を同時に持つものであるなら、尚の事、‘安定的な激しさ’や‘様式としての爆発性’など、底の浅さを露呈してしまうにちがいないし、誰もそれを望んでいない。すくなくとも私たちはコルトレーンカルテットの全史を通じ、多くのグループに例外なく訪れるであろうマンネリを発見する事はできない。つまりコルトレーンカルテットとは例外的にそのテンションを長く保持した奇跡のバンドだったのだ。グループのメンバーによる音楽的方向性の完全な一致や良好な人間関係が常にいい音楽を生み出すとは限らない事を私たちは多くの事例を通じ知っている。むしろ意見の食い違いや目指す音楽の微妙なずれや方向性が不徹底な場合に、その危うさを露呈されることで逆に異様なテンションや張りつめたようなコラボレーションを創造してしまう事がままある。
果たして62年から継続された不動のカルテットの始動以来のコンビネーションが65年に至り、その崩壊過程のさ中に残した数々の演奏記録はしかし、その剥き出しの潜在性が裸形の鋭角さを持って浮かび上がった時期といえなくはない。

ニューヨークのクラブ、ハーフノートに定期的に出演を果たすのは65年の3月から5月にかけてであるが、「至上の愛a love supreme」(64)から「ascension」(65年6月)の間に起こるコルトレーンの急激な変化、発展はカルテット内の競合と妥協、対決といった様相を示し、そんな営為の産物としてミラクルな音源が記録されている。アルバム「One Down One Up Live at the Half Note」がリリースされたのは2005年。ハーフノートでのライブを収めたCD2枚組だが、disc1が3月26日、disc2が5月7日の記録となっており、「CREATION」が演奏された日の演奏ではない。ただ、共通するのはその、激しく疾走するカルテットの姿であろう。
ラジオ放送である音源をマスターとしてミックスされ、製作者としてコルトレーンの息子であるラヴィ・コルトレーンが監修している。恐らくはアリス・コルトレーンが発見したテープを息子に託したのであろうか。司会者によるアナウンスに導かれ、ジミー・ギャリスンによるベースソロが始まり、27分40秒に及ぶ「One Down, One Up」のハイテンション、ハイスピードの演奏に突入する。
一部ではこの時期のコルトレーンのアドリブ追及が個的な上昇を極め、他のメンバーが追い付けない状態になってきていると評される事があり、確かにこのナンバーでの途中でピアノのマッコイ・タイナーが演奏をスパッとやめてしまう事など、もはやソロを応酬や交代といった形式的なことから離れ、演奏者の内面からの要請に従い、終わるタイミングといった時間軸を無効にする意識を醸し出すコルトレーンのコンセプトに従うことも対抗する事もできないマッコイの姿が思い浮かばなくもない。やや途方に暮れた状態といった感じか。このナンバーの異質性はギャリソンまでもが途中で抜け、後半はテーマに戻るまでの間、ずっとコルトレーンとエルビン・ジョーンズによる長大なバトルと化している点だろう。

そして注目すべきはコルトレーンのソロの‘圧縮された発熱体’とでもいうべきその音の内側に向かうベクトルなのである。即ちコルトレーンはソロに於いて音の爆発的な逸脱や激越な要素ではなく、音域的にも調性を維持しながらプラスマイナス・ゼロの境界を上に下に素早く行き交うような演奏をしている。それが音域を圧縮、コンプレスしている独特な感触を表現しているのである。その影響はやはり、後のアーチーシェップにも引き継がれたと思うが、音階をアウトする驚異感ではなく、むしろ内側に狭めながら表現する困難に向う意識が濃厚に感じられるのである。
それは実はグループミュージックの創造というコルトレーンの巷で言われ始めた‘個の追及’とは異なる本当の意識を浮かび上がらせるに足る要素なのである。コルトレーンはこの時期、決して他のメンバーを置いてきぼりにしていくような個我の彼方へ向かう旅を始めたのではない。寧ろグループサウンズの極点を目指していた。それが‘圧縮されたソロ’やエルビンとのduoに現れていると思われる。
「One Down, One Up」の途中、コルトレーンはテナーによる短いフレーズと声のような一瞬の叫びのサウンドを交互に繰り返す場面がある。一種のコール・アンド・レスポンスのような演奏だが、私はこの局面の中にコルトレーンが実現させたいと思っているサウンドの片鱗を見る。そしてこの叫びの箇所がのち、ファラオ・サンダースが受け持ち、拡大され、コルトレーンの目指す一つの要素となっていく事になるのだと確信する。

コルトレーンが一部で言われているように、自らのアドリブに執着し、個的な追及に終始するのであれば、単純に考えて、後、グループのメンバーを増やすということはなかっただろうし、しかもテナーサックスという自分と同じパートを加えることもなかったはずだ。来日公演のインタビューでも「なぜ、ファラオ・サンダースという同じテナー奏者をグループに加えたのか」という記者の質問に対し「彼がいい演奏者だからだ」とシンプルに答えている。つまり、彼はいつもグループ表現にこだわりを持ち、その貢献度こそがメンバーの存在意義であった。それは黄金のカルテットの晩期も同様であったのだろう。
「One Down, One Up」でコルトレーンが表現した‘フレーズと叫びの応酬’。これは彼が実現したいグループ表現の一端とみる。推測するにコルトレーンは何かしらの‘対位法’的な構成を持つグループサウンドを考慮していたのではないか。それもクラシックに於ける高音域と低音域の左右の配置といった器楽的な手法によるものではなく、人間の肉声と器楽的、コード理論的な音階をアットランダムに捉えながら、四方から聞こえるようなサウンドの構築物を私は想像する。そういった音と抽象物を混在させ、同等に散りばめたような空間を実現したいと意識していたように感じる。いわば音による神羅万象を部屋の四隅を対角として鳴り響かせるといった対位法である。あるいは‘感情と物質の両翼’の表現と言ってもいいかもしれない。私はそれを強く感じる。コルトレーンのソロの味わい深さの秘訣もこの要素抜きには語れないだろう。

それと同時によく言われるコルトレーンの感情表現が喜びであれ、悲しみ、怒りであり、その最大級の振幅をもって表現されているというのは、私には単純すぎる見解と感じざるを得ない。むしろ、感情の圧縮された平静さを軸とした意識下でコントロールされた振幅の中の感情表現であると感じられる。ここはマイルスやモンクから得た表現要素を長く引き継いでいることに注視する必要があろう。モード奏法とはコード理論である以上にコルトレーンにとっては感情表現と言う内実を客観芸術の衣装で構築する術だった。内側に情熱を秘めるクール主義をその臨界点まで推し進めたのがコルトレーンの演奏技法であり、グループでのコンセプトでもあったのだ。コルトレーンが激情に駆られ、とめどもないサックス音を放射する場面は実はあまりない。寧ろ平静さとのせめぎ合いや安寧さとのバランス感覚、平衡感覚こそ、その味わい深さを現出させる肝だと感じている。

コルトレーンはそのグループコンセプトをメンバーに恐らくは無言で伝えたであろう。つまり、そのコミュニケーションはやはり、音のみによってなされたのが主だったのではないか。それをエルビンとギャリスンは半ば理解した。いや、正確に言えばエルビンは理解し、ギャリスンは元々の演奏の性質が無意識にコルトレーンのコンセプトに合致していた。より詳細に言えばギャリソンのダークな音色はコルトレーンミュージックの入り口であり、一翼を形成した。従って彼は理解したのではなく、既に一翼の要素を受け持っていたのだ。ギャリソンのダークなタッチの重低音のベースソロはややもすれば暗黒を醸し出し、バンドサウンドの序章として‘内面’を意識させる役割さえ担っていたと感じる。ギャリソンの長いベースソロでグループ演奏が開始される時、嫌がおうでも聴衆はコルトレーングループのステージングをも含めたクールで内向的、非―迎合的な部屋に迷い込んだ事を意識するだろう。ギャリソンのベースはそんなコルトレーンの陰影という一翼を具現する要素として機能していた。ギャリソンがダークサイドを提示し、後は他のメンバーがより広範な感情、抽象性などを提示してゆく。マッコイ・タイナーの性質は陽性でもあり、力感、ドライブ感覚だったであろうか。そういった対比の感覚がコルトレーンの中にグループコンセプトとして存在し、それを無意識に執行する演奏者がギャリソンとタイナーであり、意識的に実行するのがエルビンだったはずだ。だからこそ、コルトレーンへの反目が際立ったのも逆にエルビンその人だったのだろう。

アルバム「One Down One Up Live at the Half Note」は黄金のカルテットの晩期に於けるハード・コルトレーン・カルテットという様相を呈し、その疾走感と力感を今に伝えるものである。その質感はマイルス・デイビスの「plugged nickel live」(1965)の‘凶暴性’に類似し、また、演奏の年代も同時期という事もあり、ある意味、好敵手マイルス・カルテットへのモードの解釈、発展をめぐる回答という見方もあながち、間違ってはいないと感じる。両者はどちらもストレートアヘッドなジャズのスピードを極めながら、フリーの領域に突入する安易さを回避し、調性の枠内からその境界線を突破しながら再び調性の内側へ往来するラディカリズムの表現という共通点を持つ。音階による安直なコードアウトの思想を両者が持ちえないならば、当然ながら、その意識は必然的に‘音響的なもの’にも向かうだろうし、人の声の疑似サウンド、自然、宇宙といった環境音の創出という非-音楽のサウンドへの意識も強まっていっただろう。後、マイルスはエフェクティブ・サウンドというエレクトロ・アプローチによってその成果を成し、コルトレーンは後のメンバーチェンジによって、非-テクニック志向とエスノ化によってその成果を遂げていく。ホーンに関してはエレクトロ化ではなく、ファラオ・サンダースを加入させることで、より肉声化を極め、もはや音階を無化したようなホーンの筒を人の声が緩衝地帯なしに直結するような、自然音をグループに注入した。尚且つ、アリス・コルトレーンとラシッド・アリはその非-ジャズ・テクニックという要素によって、コルトレーンのグル-プサウンドに貢献した。それはエスノミュージックへの移行でもあったし、より非-ジャズなフォーマットを創出するに足る質実であったか。

エルビンに同調するようにしてカルテットを退団するマッコイ・タイナーだが、
「One Down One Up Live at the Half Note」の疾走感覚を語るうえでより、強調すべきはマッコイ・タイナーの唯一無比のグルーブ・テクニックである。コルトレーンのグループコンセプトの非-理解者であるといった私の私論とは逆説的にマッコイのグルーブ感、ドライブする要素がなければコルトレーンサウンドの魅力が半減する事は言うまでもなく、これは後のアリスと比べた場合、特にその損失の大きさを私たちは実感できるだろう。マッコイ・タイナーのそのリズムバッキングに於ける左手のアタックの強さ、タイミングのソリッド感は先述した「CREATION」の演奏を聴いても、もはや感嘆の想いしか浮かばないほどの素晴らしさであり、代替え不可能な要素としてエルビンの疾走を促す起爆剤、そして自身のもはやハイスピードなロック化した演奏から、その独自性を提示するのである。

「One Down One Up Live at the Half Note」に収められた「One Down One Up」は27分に及ぶ演奏の記録だが、マッコイ・タイナーは14分あたりで唐突に演奏を辞め、ラストの1分の、に再び入り、コルトレーンによるテーマを導く。ここでの演奏の中断はとにかく唐突だ。曲はまず、ジミーギャリソンによる速いパッセージによるソロによって始まる。そしてすぐカルテットになり、一体感溢れるテーマ演奏に移る。テーマの後にコルトレーンのソロになるが、残りの3人は堅実なグルーブをキープし、コルトレーンのエモーショナルソロを支える。最高に調和のとれたカルテットの最も充実した演奏だ。そしてコルトレーンのソロが長引くにつれ、マッコイの演奏が変化する。音数が減り、抽象性を帯び始める。左手でリズムをキープしながら、フレーズをリズミックに転がすような通常の演奏が影を潜め、単音で間隔を置いて垂直にリズムを小節の頭だけ弾くような演奏に変貌してゆくのだ。このあたり、何かしらの明確な意図、コンセプションに従うかのような変化があり、コルトレーンのソロの抽象化への追随なのか、あるいは自身による実験的意図なのかわからない。そして11分を過ぎたころ、演奏をぴたっと止めてしまうのだ。どう見てもこれはソロを誰かに譲る止め方でもないし、自分の演奏も最後を見届ける終わり方ではない。バッキングらしいという見方もできるかもしれないが、音階的に上昇しながらコルトレーンのソロをダイナミックに劇的に演出する術を心得たマッコイのいつものリズム伴奏とは異なるクールなバッキングとなっており、多様性への挑戦とも受け取れ、興味深い。
しかし、続く「afro blue」によって私たちは‘これぞマッコイ・タイナー’という演奏に再び立ち会うことになり、ここでの対比は、マッコイの試練的苦悩が両極端に現れ出たような感があり、やはり、マッコイの持ち味とは煌めくフレーズとドライブ感にあふれた演奏だと思い知るのである。
「afro blue」のピアノの素晴らしさはどうだ。このローリングしながらフレーズを繰り出すマッコイの技術。テーマの後のピアノソロの雄弁さ。それは7分頃からコルトレーンが入るまで続く。ラジオ放送がおそらく終わりに近ついたのであろう、司会者によるアナウンスが入り、残念ながらフェイソアウトされてしまう。コルトレーンの黄金のカルテットの晩期、グループ・コンセプトの不徹底、あるいはコルトレーンの前のめり、メンバーへの意思疎通の欠如、そんな事態にメンバーが葛藤を抱えながら、発熱体のようなエナジーを放出した。そんなグループの緊張感は稀有であったろう。安定したグルーブ、成熟感とは程遠い、バンドの崩壊を見据えた異常なエネルギー。一歩間違えれば、そこに大きな‘失敗’の文字が待ち受けているかの危うさに成り立ったグループのハイテンションを思い知る。

冒頭に記した奇妙なブートレッグ「CREATION」を私は長く愛聴した果てに「One Down One Up Live at the Half Note」を体験した。その間、約20年の間があったが、「One Down One Up Live at the Half Note」のアルバムジャケットの内側の写真も衝撃であった事を記さねばならないだろう。つまり、このHalf Noteなるクラブのその恐るべき狭さをここで知ることになるのである。ステージとは名ばかりの物置のような雑然とした空間はその奥行きも狭くドラムセットもステージの前方にセットせざるを得ないほどの客席との密接さであり、しかもそのスタージは狭いにもかかわらず、写真からうかがえるのは必要以上に高さがあり、前列のオーディエンスの耳の位置はもはや、バスドラムより下である。PAサウンドではなく、当然、生音であろう、このリスニング環境では、音の混濁度は計り知れなかったであろう。そしてエルビンが座るドラムセットの真横に直立するような恰好でコルトレーンが立ち、その間隔は写真で見る限り、50センチもない。しかもこの狭い空間の真ん中あたりに太い柱があり、天井も低いことがわかるのは、ジミーギャリソンのベースがもう少しで天井まで届いてしまうのが写真から伺えるのだ。そしてマッコイ・タイナーはステージの全景から消えている。どこにいるのだと思いきや、どうやらジミーギャリソンの立ち位置の後方にピアノを置いた空間があり、まるで押し込められているように座っている。
私は衝撃を受けた。「CREATION」のあの無限の拡がりを感じさせる宇宙的なサウンドがこのような狭苦しい空間から生まれていたのかと。

二枚組アルバム「One Down One Up Live at the Half Note」のdisc2に収められた「song of praise」の素晴らしさも特筆すべきものであろう。「quartet plays」(65)にスタジオテイクが収録されていた祈りの歌とも言える荘厳さを秘めたナンバーだが、テーマを反復する‘ソング’であったオリジナルに比べ、ここではその厳粛性にアドリブソロを長大に展開し、コルトレーンに特有な発熱体の如き謂わばソウルフル・アヴァンギャルドなる様相を呈している。全く素晴らしい。そしてここに於いてもやはり、先述した‘フレーズと叫びの応酬’をはっきりと聴くことができるのだ。ここにあるのはソウル、バラッド、ビバップ、アヴァンギャルドの融合であり、いや、それ以前に形態が細分化される前の意識の具現化に他ならないのかも知れない。コルトレーンは当然ながら、ジャーナリスティックな意味合いでの‘ジャンル’を念頭に置くものではない。スタイルとは結果論であり、そればかりか感情表現すら意識下に於けるものでしかなかった。即ち、彼は演奏性そのものだけに先行する意識を持っていたのであり、だからこそ、現れ出た音楽に付随する様式やあらゆる批評、言語による意味付け、それらを全てを受け入れる事ができた。いわば余裕から生じる許容があったと思われる。どう思われようが、言われようが、客体化できる意識があったのである。むろん、政治意識やメッセージ性すら希薄なコルトレーンという人物は‘訊かれたら応える’という範疇を越えなかった。その事が音楽の形態すら意識化する事なしに自己の演奏の追及に没頭できた資質だとも感じている。その意味で「song of praise」から私が感じる‘原型的’なものは無頓着にも実現できてしまったものの典型的なものなのだ。バラッドのようで前衛であり、フリーのようで秩序的でもある。こういった多義性を表現でき得るのは心性が多面であるわけではなく、正しくシンプルだからこそ可能なのだと。

「song of praise」に於けるカルテットの演奏面での印象を付け加えるならマッコイ・タイナーが行うソロの力感はこの不滅のカルテットの存在意義を後期コルトレーンとの比較でより、輝かしいものに印象つけるには充分である一つの魅力となっているだろう。そして興味深いのは長いソロの後、コルトレーンが再び登場し、2度目のアドリブパートになると、マッコイのバッキングが前半のリズムフィットなスイングするプッシュではなく、これも例の無調のアタックの反復に変化していくのである。これによって全体のトーンがソウルフルな熱い演奏から。どこかクールで客観的な前衛色が強まっていくのである。このあたり、エリックドルフィーのグループのような質感に共通するホットとクールの交代反復の要素を彷彿させるが、いずれにしても凄まじい演奏だ。

「One Down One Up Live at the Half Note」に於けるカルテットのぎりぎりを想わせるテンションの高み。後追いで聴く者はこれを臨界点とも言うだろう。コルトレーンの個我の追及ともとれる求道。マッコイ、エルビン、ギャリソンの苦闘ともとれる演奏。無口な統括者コルトレーンのリーダーシップは図らずも人間関係の弛緩を回避し、絶えず緊張をはらむ演奏意識を生んだ。
私達は4人の本意がどこにあったか、演奏を楽しんでいたのか、それすらわからない。しかし作品は残された。芸術の力とはそれは表現者の手を離れて、ある客観的な場所に辿り着いてそこに在り続けることだとイメージする私はここにも、そんな稀有の高みを有した鑑賞媒体が存在する意義こそを感じている。
2018.11.16



Track listing[edit]

Original CD release Live at the Half Note: One Down, One Up (Impulse!).
Disc 11."Introduction and Announcements" Alan Grant, WABC FM radio broadcast host – 1:36
2."One Down, One Up" (John Coltrane) – 27:39, recorded March 26, 1965
3."Announcement" Alan Grant – 0:51
4."Afro Blue" (Mongo Santamaria) – 12:44, recorded March 26, 1965
Disc 2
5."Introduction and Announcements" Alan Grant – 0:43
6."Song of Praise" (Coltrane) – 19:38, recorded May 7, 1965
7."Announcements" Alan Grant – 0:43
8."My Favorite Things" (Oscar Hammerstein II, Richard Rodgers) – 22:37, recorded May 7, 1965

Personnel[edit]
John Coltrane – tenor saxophone/soprano saxophone
Jimmy Garrison – double bass
Elvin Jones – drums
McCoy Tyner – piano
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武田理沙 with Only One Day Unit (宮武孝司g 宮本隆b 鶴田憲司ds)2018年10月26日

2018-11-18 | 新規投稿
武田理沙 with Only One Day Unit (宮武孝司g 宮本隆b 鶴田憲司ds)


この日のライブは大山甲日さん(「大ザッパ論」著者)もトークで参加される盛りだくさんのイベントで大盛況でした。
即席で組んだOne Day Unitと武田理沙さんとのセッションの一部をyoutubeにアップしました。
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