満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

3/3   『3/3』

2007-11-05 | 新規投稿
 
フリクションの前身、3/3のCD がリリースされた。
1975年に僅か10枚ほどが私家版で作られ、メンバーが配ったというLPにライブ音源を付けた2枚組である。メンバーはレック(g,vo)、チコヒゲ(ds)、ヒゴヒロシ(b)のトリオ、disc2のライブ音源は安藤篤彦(g 後、ヒゴヒロシとミラーズを結成する)が加わった四人編成。

1975年という年を私は明確に思い出すことができる。なぜならこの年こそが私の音楽元年だから。音楽狂という名の病に罹ったのが中学一年、1975年だ。日本ロックの殺風景ぶりは致し方ない。日本の風土的な湿り具合を脱し、洋楽に接近するロックを求めていた。そこだけが善し悪しの判断基準だった気がする。クリエイション、紫とか聴いて「日本もなかなかやるなあ」と無理矢理、感激し、バウワウで「おっ、洋楽っぽいぞ。やった!」こんな感じだっただろう。それ意外は何もなかった。キャロル、ファニカン?べたっとしてピンとこないな。ロック御三家?(チャー、世良、原田)?どこがロックやねん!と。叙情は日本風土の象徴。ロックとて例外ではなかった。私は洋楽の垢抜けた感じや躍動感がなぜ、日本にないのかと嘆いていたのだ。もっとも後年になってその湿り具合を逆に固有のもとして認識を改めるようになるのだが、英米ロック、ポップに感電したばかりの13才の時点では洋楽の突き抜けた感覚こそがロック、カッコイイと感じていた。従って私が<本物らしさ>を感じていたのはむしろ鈴木茂、山下達郎などだった。私にとって1975年の回想に日本ロックは不毛としての記憶しかないようである。

しかし日本のロックシーンはメジャーな場所以外で確実に別の風景を持っていたようだ。
3/3は東京のマイナーなライブバンド。CDのライナーにある高沢正樹氏の回想は75年11月の埼玉大学学園祭での衝撃的で忘れられない光景を映し出す。「10近いバンドが出るオールナイトコンサートで数百人いた客のほとんどは無名の3/3を知らなかったはずなのだが、コンサート中盤に登場した彼らのステージのラスト、繰り出される激しいビートに、一人また一人とたまらず立ち上がり始め、半数以上が狂ったように踊り始めてしまったのである。」
これが75年のもう一つのロックのリアルな光景だったのだ。

3/3というバンド。私は今回のCDで始めて聴いた。
こんなに凄かったのかというのが正直な感想。近藤等則IMAでの演奏を知る者にとってギタリスト、レックの実力は周知の事であるが、3/3でのギターのリフの確信性は時代を超えていると感じる。このリズムカッティングの鋭さは何なのだ。スピードとヘヴィネス。ビートが縦に刻まれる。真っ二つに。ドラムのように。既にパンクっぽい。英米のガレージバンドよりも縦ノリ度は上。これが75年か。その頃、英米でこんなバンドいたかなと思い浮かべる。グラハムパーカー&ルーモア? ドクターフィールグッド? ニューヨークドールズ?全然、3/3の方が上だ。そうか、このバンドは本当ならプロデューサーか英米のレコード会社が発見して、即、デビューさせるのが普通なのに、たまたま誰も見つけられなかっただけの事なのだ。デビューしてないのは単なる偶然だった。そうでも思わないとこの音楽を埋もれさせておいた状況は理解できまい。全く。CDのライナーにあるレックの回想を読んでも本人達の売り込みにそれほど積極的な跡は見られない。
「オレは3/3が優れてるとか思ってないわけ。卑下はしてないんだけど。(略)楽しんでたのは事実だけど、俺にとっちゃ、単にギターを弾いてた時期みたいな」(レック)

私の想像では私家版LPもヒゴヒロシの先導で制作されたのではないか。彼は後、日本初のインディーレーベルであるゴジラレコードを発足させる人物だ。マイペースなレックと違い、積極的な意志があったようにも感じる。ただ、いずれにしてもこの3/3はレックの発言から、その初期衝動をギター演奏やチコヒゲとのリズム鍛錬で開放し、楽しむためのバンドであったようなニュアンスを受ける。後追いで鑑賞する私達が受ける衝撃、その音楽のテンションと裏腹にレックの醒めた見方は当人の当時の演奏意識を物語っている。

雑誌DIG(No.50)の記事によるとこの3/3再発プロジェクトに関しても、その半ば、作業から離れ、ヒゴヒロシや旧友に全てを委ねているという。
「若い頃の曲だからさ。自分じゃとても聴いてられなくてね。今回、俺が3/3の件でやった仕事は、写真探しとこのインタビューぐらい」(レック)
はっきり言って思い入れは多くはないのだろう。謙虚というか淡泊というか。

「聴けばすぐわかるんだけど3/3のLPに入ってる曲もだいたい何かの真似が入ってる。(略)3/3はバンドの真似事」(レック)
そこまで言うか。
いや、<真似事>という言葉をレックが使う事に注意したい。その後、フリクションによって国内きっての希に見るそのオリジナリティを獲得したレックが、3/3時代においてロックという外来文化の摂取と創造をミーハー精神に基づく貪欲さで吸収したとしても、一旦プレイに入るや、リズムの奥底にある深淵な快楽の泉にたどり着く術を発見した数少ない人間だった事は確かだろう。何の曲をやるかなど、その時点では問われまい。チコヒゲという盟友、理解者ヒゴヒロシという鉄壁な三人で滑り込んで行ったビートの王国。そこは同時代の世界レベルでも限られた演奏者のみに入場を許された場所であったと力説しても、どこに大げさな事があろう。ジミヘンのリフやピンクフロイドもどきの音響空間、キンクスやルーリードのカバー。そんな事が音楽の強度を損なうものでない事は自明だ。それを<真似事>とは誰も言うまい。それこそ<猿真似>が横行するその他殆どの国内ロック状況にあって3/3のリズムの深淵さこそ、個性の極みではないか。

模倣を繰り返す強さが半端でなかったのだ。
曲やリフの模倣を問題にしない程の徹底した根っからの演奏者だった。そしてビートの反復、持続を可能にする意志が突出していた。甘さが介入しなかった。その徹底ぶりが若い自分からレック達には備わっており、しかもそれが彼らの<普通>だったのではないか。その下地が後の希有の音楽性を獲得するフリクションに至るのだ。

先に<洋楽に接近するロックを求めていた>と書いた。中一の私が同時代に感じた日本ロックの湿っぽさは実は今となっては否定する要素ではない。当時からは予想もできなかった疑似洋楽の氾濫状態の現況にあって、日本らしさを外形的、精神的、内在的、あらゆる角度を問わず宿すものだけが、世界基準を満たすとも思っている。フリクションこそがそうである確信を私は『軋轢』デジタルリマスターについての当ブログ(2007.6.3)で書いた。

3/3は70年代半ばで<洋楽に接近する>どころか既に共振していたのだ。楽曲の形態以前にその演奏に於けるグルーブの創造によって高いレベルを獲得していた事がこの音源で実証された。リズムの強さは世界的だ。本当に。
このビートの切れ味は一体何か。ロックンロール色の強いドライブ感ではあるが、リズムが流れない。ビシっとミュートされる。タイトな絶妙の間。それこそsweet timingだ。これは既にパンクだ。この弾き方の演奏者は当時の日本にはいなかったんじゃないか。ライブサイド(disc2)での「きかいのうた」の混沌としたグルーブ、リフの応酬はサイケデリックを通過した大人のグルーブ感を既に確立しており、成熟すら感じさせるものがある。

チコヒゲのドラムのまた凄い事。ハーフオープンハイハットが繰り出す持続音。この頃から直線なビートではなく、8ビートのパターンを複数、組み合わせる事をやっていたのだなと思わず聴き入ってしまう演奏をしている。フィル、オカズも大胆そのもの。普通じゃないね。やっぱり。しかも重い。速い。上手いの三拍子。ギターもベースも気持ちいいだろうな。こんなドラムがいれば。バスドラがパタパタ鳴るのは悲しいかな、ドラムが多分、いいものではなかったからか。そう言えばフリクションのファーストシングル『KAGAYAKI』もそうだった。そうだ、思い出した。「ロック画報」の記事。LP『軋轢』の録音の際、エンジニアの人がチコヒゲのドラムを見て「今時、こんなの使ってる人がいたんですね」と呆れ、パールか何かに代えさせたという話があった。逆に言えば、チコヒゲの力量はとてつもなかったのだろう。ボロいセットであれだけ鳴らせる事ができるのだから。レック=チコヒゲの二人はリズムの鬼だろう。二人で競うように鍛え合ったのではないか。

今思えばとんでもない強者の三人だった。ヒゴヒロシは10年ほど後、フリクションにギターで参加し、硬質なリズムギター&ノイズプレイを見せてくれたが、本業はやはりベース。(ミラーズでは歌うドラマーだったが。多才な人だ。今はDJもやるし)3/3でのプレイは猛烈なドライブラインを刻み込んでいる。音色から言って指弾きかな。いや、ピックと使い分けているかもしれない。チャンスオペレーションでのソリッドなラインより、渋さ知らズやのなか悟空と人間国宝での重低音モコモコベース音だ。ラインもギターのリフにリンクしたり、4ビートっぽく、またぐラインにしたり最早、大人びている風。ブレイクも味がある。手練れですね。若くして。

後のフリクションのレパートリー「pistol」の歌詞の<おまえ>が3/3時代は<きみ>だった事に象徴される意識の分かれ目。より強く聴き手に向かうようになったのがフリクションだったようだ。「意識が変わると音が全然、変わる」とレックは答えている。逆に言えばレックが3/3の回顧に積極的な評価を自分では認めないかのようなクールな視点(「なんだ。ただのハードロックじゃん」って言われるんじゃないの?というレックの言葉がCDのライナーの見出しである)はフリクションこそが自己表現というハードルをクリアし、それをダイレクトに他人に向け、様々な反応を意識する快楽や苦悩を享受する密度があったという事なのかもしれない。従って、例え同じ曲の演奏でも3/3は、聴衆へのベクトルを欠いた内向的な音楽であり、アソビだったと(随分、ハイテンションなアソビだが)。彼には他人には推し量れない価値の基準があるようだ。

「こんな凄いバンドが認められなくてどうするんだよ・・・」
75年、PAの卓を操作しながらつぶやいていたというCDのライナーにある高沢正樹氏の回想は、彼らのライブを体験した数少ない人間が持った共通の感慨だったのではないか。

2007年の今、レックは中村達也との二人フリクションを始動させてはいる。音源を残すべきだろう。ライブ盤でもいい。レックの演奏記録はその時々の価値がある。私個人的には86年12月から佐藤稔加入以前の87年5月までの布陣(レック、チコヒゲ、ヒゴヒロシ、セリガノ)での公式音源が存在しない事に全く残念な気持ちを持っている。(86年12月30日の新宿ロフトでのライブは絶対、発表すべきもの。驚愕のライブだった。私は劣悪なカセット録音を今も時々、聴いている)
このようにレックのマイペースは、リアルタイムの最高の瞬間を逃す事がしばしばだ。編成もよく変わるから尚更、今の良い状態を記録しておくべきなのだ。

これもレックの潔さか。
3/3のレア音源復活の騒ぎにも他人行儀。今の活動にも自分流儀。
これは今は見るべき事をしていない嘗てのカリスマ、モモヨ(リザード)が見せる過去の自己評価、栄光を愛で、嘗ての曲目解説などに執着する態度と対極にあるレックの現実主義的性格だろう。

私達が衝撃を受けた3/3のCD
轟音と共に「そんなに騒ぐなよ」というレックの声も、同時にきこえてくるみたいだ。

2007.11.5




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