満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

BIOSPHERE 『WIRELESS』

2009-07-28 | 新規投稿

音楽を味わい、楽しむには聴く時の精神的安定が不可欠だと思っている。あるポジティブな心性がなければ、音楽を楽しむ事などできない。本当に悲しい時や辛い時、人は音楽が聴けるだろうか。
確かに私はフェイバリットであるコルトレーンやディランといったアーティストから、これまでに幾度となく、勇気をもらい、励まされてきただろう。落ち込んだ時や何かにすがりたい時、音楽は私を慰め、立ち直らせてくれた事を否定しない。
しかし、今回、親しい人間の死に直面した私の放心状態と心の重苦しさ、その受け入れ難い現実は私の中に音楽を介入する余地を残さないまでに、ポジティブな精神を私から奪っている。全く打ちひしがれた状態にある今の私に音楽を楽しむ精神の余裕はない。

それでも音楽をセットする。いや、したい。しなければならないのだ。
アマゾンから届いた7枚のCD。コルトレーン、モンク、菊池雅章、琉球アンダーグラウンド、ミロスラフビトウスを避け、私はBIOSPHEREの新作『WIRELESS』をセットした。これを買って良かった。と思う。

ノルウェーのアンビエントユニットBIOSPHERE。この微音スタティックな音響は今、私の精神に何ら、荒波をたてる事なく、静かに進行している。それは決して癒しではない。慰めでもない。感情を慰撫する優しさではなく、ただ、静かにそこに在る音。
いわばこの音楽は私の今の放心状態と併走しているのだ。重苦しく暗雲に被せられている私の心と無関係にこの音楽は鳴っている。

このゆっくりと併走する音楽がいかなる‘想い’や‘意志’‘物語’を裡に持つのかを私は知らない。いや、今は知りたいとも思わない。フィールドレコーディングによる日常の音、微かに音階らしきものを奏でる電子音、人の声、エフェクトされた雨音・・・・等がダウンテンポによる協奏曲のようにアンビエントを紡ぐ。

私はこの作品を鑑賞していない。ただ、もう20回くらいセットしている。他の音楽が今、聴けない。私の心と距離を置き、私の放心状態を客観視するこの音楽。それは私の感情に立ち入る事なく、ゆっくりと、やはり、併走しているのだった。

2009.7.28
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

   ANIMAL COLLECTIVE  『Merriweather Post Pavilion』

2009-07-15 | 新規投稿

多くのロックマニアが『pet sounds』(66)を過大評価しながら、初期のサーフロック時代のビーチボーイズを認めないのは『pet sounds』の内面性やトータルアルバムの構成感、或いは、サイケデリック要素によるトリップ感覚がポピュラーならぬ‘ロック’として峻別される‘高等意識’を喚起させてくれるからではないか。高度なソングライティング能力は実は初期から一貫している。しかしその楽曲の秀逸なる輝きや至高のコーラスは業界による常夏サウンドの象徴という戦略の元、海とビキニの女の子とオープンカーといったフォトイメージで覆い隠された。そもそもサーフィンをするメンバーが一人しかいないのにビーチボーイズを名乗る事が間違いだったか。しかし、その全盛期から既に40年を経過した今、初期ビーチボーイズの歌メロの一つ一つの圧倒的な上質感、普遍性こそを強く認識すべきだろう。『pet sounds』を分岐点にするような初期と後期の音楽性の乖離は少なくともソングライティングを基点にした場合、グループには存在しない。そこに在るのはただ、‘音響’の有無という歌以外の相違点のみなのだ。

ただ、かくゆう私もビートルズを『revolver』(66)以前と以降に区分けし、中―後期の作品を偏愛する傾向からま逃れてはいない。そうゆうロックフリーク一般の感性とはロックに於ける‘エッジ’がポップスの‘歌メロ’を凌駕し、且つ補完する関係性を持ち得た場合の感動の沸点が‘エッジ’なきポップスを下位に据える感覚を生じさせる故だとも感じている。
しかし本来は、歌メロに装飾される‘エッジ’を剥がしても、歌の芯を感受できる感性こそを養うべきなのだ。しかし、60年代半ば以降、ビートルズのライブ停止に伴う、スタジオワークへの偏執性は結果的に歌メロを囲うように、様々な‘エッジ’を施す事がポップスの一つの型になってきた。ビーチボーイズが『pet sounds』による分岐点を出現させたのも、それはソングライティングの変化ではなく、‘音響’という‘エッジ’を扱う処理作業による変化であろう。
私の言う‘エッジ’とはロックの持つスピリットやメッセージという思想性の事ではない。ギターノイズやリバーブ、ディレイ等のエフェクト効果、オーバーダブやリミックスという編集、シンセサイザーや民族楽器による脱ロックへの異化作用・・・・・ そう言った楽曲のアレンジに関する音の物質的な装飾、変形作業の事であり、‘音響’はそれの最たるものである。

『pet sounds』とそれ以前の作品の相違点たる‘エッジ’の有無。
その‘エッジ’とはしかし、それ以降の音楽シーンの中で‘原曲’を裸のまま提示することで歌メロの優劣を直接、問うリスクを回避する方便として悪用されてきた事実もあるのではないか。私たちはむしろ‘裸になった歌’のみを注意して聴き分けなければなるまい。

ジョージハリスンのインドかぶれを嫌ったポールマッカートニーの発言を思い出す。「インド音楽なんか忘れてこの曲のメロディだけを聴いてごらん。素晴らしい」『sgt pappers』に収録されたジョージ作品、「ウィズンユー ウィズアウトユー」はシタールやタブラを使用し、全編にドローン効果ともとれる音響処理を施した異作であったが、ポールはそのアレンジに違和を感じながらも、芯となる歌メロそのものの力については認めざるを得なかった。生きた主旋律、普遍的なメロディがあったのだ。
『pet sounds』のビーチボーイズや後期ビートルズ、ベルベットアンダーグラウンド等が偉大なのは、その‘エッジ’を剥がしてもなお、屹立する歌メロが際立っているからこそなのだ。

ソングライティングとはあくまでも、例えばピアノの単音弾きで奏でられる歌メロが、いかに説得力を持ち得るかを巡る勝負の事だろう。しかし、ロックの発展形態の要素でもあった‘エッジ’は結果的にその勝負を土俵外に追いやってきた。逆に脆弱なメロディが‘エッジ’に凌駕され、取り込まれるような形態が広がる中、ロックを巡る感性の中で、ことメロディを味わうレベルに関しては低下してきたのだと感じる。それはロックにおける創造と鑑賞の相互の快楽原則の後退を伴う‘更新’であったか。

極上の音響ポップ、その完成形のような概観を誇るアニマルコレクティブの『Merriweather Post Pavilion』も、その一曲、一曲の主旋律だけを取り出して、単音で奏でてみれば、それほど秀逸なポップソングのメロディを持ち合わせているものではない事がわかるだろう。
各曲に込められたアイデア、創意工夫、アレンジの練られ方、音響の追及などに音楽と格闘する強い意志は伝わってはくる。「my girls」に見られるファンタジーワールドは正に銀河系サウンドともいうべき壮大さを持つ。「bluish」のリードなきコーラスの多重録音による複合ボーカリゼーションは万民の為の讃歌のようであるし、「in the flowers」や「lion in a coma」のドリーミーな浮遊性や「no more runnin」の神秘世界も美しい。テープの逆回転という古風な技による「also frightened」の錯乱感覚や「taste」、「guys eyes」の抑制されたメロディリフの交互応酬的サウンドは共にサイケデリックなポップがドラッギーな要素を通過したメジャー感覚を提示している。「brother sport」のミニマルポップや「summertime clothes」のキャッチーさと意識高揚的な怒涛性を織り交ぜたソングも面白い。確かに聴きどころは充分ある。
しかし、このような玄人受けするポップアルバムが出ると、又しても直ちに『pet sounds』や『sgt pappers』が引き合いに出され、論じられる事については、明確に土俵違いであると意見表明させていただきたい。残念ながらアニマルコレクティブの『Merriweather Post Pavilion』の各曲から抽出された歌メロの一つ、一つは『pet sounds』に遠く及ばない。そして初期、ビーチボーイズにも。
音の表面的なムードや外形だけを捉えて<現代の『pet sounds』>云々と評するのは止めた方が良い。コ-ラスとサイケフィーリングが『pet sounds』と酷似するこの『Merriweather Post Pavilion』は、しかし、インディー臭が抜けず、あくまでサイケデリックな音響をポイントのメインに据えた作品であり、逆にそれゆえの美点を持つ傑作だと信じる。
普遍的な歌メロは不在。
むしろニューウェーブ以降のポップロックの伝統的な様式美に裏打ちされた緻密な構築美によるトータルな作品至上主義の継承を感じる。

2009.7.15



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

       美空ひばり  『歌は我が命 第2集』

2009-07-03 | 新規投稿

美空ひばりの『歌は我が命 ボックスセット10枚組』発売の知らせに歓喜した私だが、個別でも販売するという事で、結局、バラで買う事にした。理由はボックスにカラオケCDの特典しかないからだが、何よりも私の財布の事情がそれを許さない。全く、昨今の世界経済の悪化は私のような真面目な日本の勤労者の生活をも直撃し、正社員でない事でその不安定さが露呈され、図らずも危機感による緊縮財政を余儀なくされている。月に15枚もCDを買う事に何のためらいもなかった以前は、幸せな時期であったか。しかし、これからはそうはいかないだろう。財布の紐を固くして14枚くらいに押さえておこう。そして中古の割合を増やそう。

しかし、この『歌は我が命』だが、個別で買って正解である。私はまず、『第1集』と『第2集』を買って聴いたが、その内容があまりにも濃厚で、こんなものを10枚組にして、一気に聴いたら、ゲップが出る。それよりも1枚を何回も何回も聴いて、もう味がしなくなるまで味わい尽くしてから、順次、揃えていった方がいいに決まっていると実感した。美空ひばりの全盛期の音源。収録された1曲、1曲の精緻さと歌の力を今更ながらに思い知る。全く、イージーソングは一曲たりともない。

美空ひばりは、デビュー20周年に当たる1967年、新しい試みを行った。それは当時、歌手は勿論、作曲家、作詞家、編曲家もレコード会社の専属制であった習慣を破り、ひとりの歌手に様々な作家が曲を寄せるという、画期的なレコードの制作であった。『歌は我が命』という新企画は成功し、以後、毎年、誕生日である5月29日に発売されるシリーズとなり、10年もの間、継続されたのである。

『歌は我が命 第2集』は68年の作。この時点で既に、演歌、民謡から端歌、ジャズ、シャンソン、世界の民謡まで歌いつくした美空ひばりの表現力を無限に解き放つべく、歌のバリエーションを体現する圧倒的な歌手の姿を見る。実に22人もの多数の作家によるオムニバスに統一感を与える力量があった。

アルバムトップ「道」は古賀政男作曲、関沢新一作詞という「柔」コンビによる王道的ナンバー。
この時代がかった歌の違和感と既視感の正体は何か。それは歌が‘自我を解き放つ内面性の発露’としたフォーク、ロック世代の感性から顧みる別の領域の再発見である。歌とは元来、様々な訓戒、教えとして機能する一つの精神浄化と行為性への指針として、その役割に立脚するものであった。万能的で自由な感情表現でありながら、そこには、あらゆる内面の葛藤を自己調整し、感情を外部へ放出するのではなく、むしろ抑制を範としたエモーションの暴発の制止を志向し、感情運動というそのテンションを一つの秩序、統制された倫理へと向かわせる感覚が、かつての歌にはあったのだと思う。ずばり、<道>という題の歌は人生訓を示唆し、生活の中の忘れがちな道標を思い起こさせる徳の喚起でもある。

 山より高い 真心や
 海より深い 愛もある
 年は幾年 変れども
 真の道は 一筋に

 薄紅いに 燃えながら
 夕陽よ夕陽 なに思う
 とおく父母 おわせども
 心でつなぐ 愛の道

こういった‘説教節’こそが、大衆的に賞味され、言葉が咀嚼された時代。高度な歌謡娯楽が生活訓と一体となる‘快楽’は今、失われているものだと認識する。

2曲目「だけど私は・・・・」はトランペットが先導するムード演歌の典型。モダンである。この様式は藤圭子のエレジーワールドの先駈けでもあろうが、作者の市川昭介は都はるみの育ての親とされる真正演歌の作り手である。それがここではアーバンな哀歌をポップなセンスでまとめあげ、素晴らしいアレンジにも感心する。サビでのピアノのランニングやトランペットのオブリガードは美空ひばりに相対するもうひとつの歌であろう。

3曲目「ひとり旅」はポップな道中もの。尺八の踊るような歌い方が印象的なナンバー。
最初、私はなじめなかったが、何回も聴いているうちに好きになった。将来、股旅ものに関心がいくかもしれない。

4曲目「海鳴りの丘」
淡谷のり子ばりの裏声とビブラートを駆使する傑作である。このまるで別人のような声の七変化は、正に表現の鬼か。このレベルに対峙するのは欧州歌曲、オペラ、シャンソン等の大家のそれだろうか。マリアカラスやエディトピアフの好きなヨーロッパのリスナーに聴いてもらいたいナンバーである。

5曲目の「花愁」もまたまた凄味を感じさせる程の重厚な傑作。
浪曲師のような低音を駆使する美空ひばり。そのバックにステディな和太鼓とむせび泣くようなテナーサックスが絡む。強力な歌にもはや、言葉なし。全く何という曲。しかも私の注意をひくのは、その淡々としたアンビエント性なのである。重厚なメロディに抑揚を効かせ、スタティックな静けさをも醸し出すのは、やはり、歌の巧さか。それと歌詞のどっしりとしたバランス感覚故だろう。

 悲しみと言う 花びらが
 別れた後の 心に匂う
 失くしたままの 微笑みを
 探して行こう ああ行こう 明日からは

悲恋の内容の言葉が、どこか風景描写的な客観性に綾られる時、感情を籠める歌が鑑賞に堪え得る物語の普遍性を帯びる。作詞は「哀愁波止場」の石本美由紀。すごい歌である。

感動に浸る間もなく始まる荘厳な歌曲は6曲目「武蔵野の恋」である。
これも傑作。ダイナミクスの極致。語りのピアニッシモからサビに向かって上昇する歌世界に引き込まれる。

 黄昏の武蔵野に
 風がちらした 病葉(わくばら)の命
 武蔵野のこの路に
 武蔵野の愛をはなさない

泡沫の恋を回想する美空ひばりと女性複合コーラスは一つの演劇作品を観るようなビジョンを聴くものの眼前に作り出す。一瞬たりとも聞きのがせない歌がここにある。

7曲目「太陽と私」は当時、一世を風靡したブルーコメッツの井上忠夫の曲。作詞は加藤和枝、即ち、美空ひばりである。グループサウンズを消化した当時のポップ歌謡の一つのパターンだが、私は好きになれなかった。歌詞にも特筆すべきものはないと感じる。

8曲目「唇に花 シャッポに雨」は美空ひばりの実弟、小野透(加藤哲也)作曲による単調な佳作。このまるで新人アイドルタレントに歌わせるようなイージーなナンバーに意表を突かれる。しかもあの「天城越え」の吉岡治大先生作詞家がやっつけ仕事のような歌詞を提供している。

 くちびるに花 帽子(シャッポ)に雨
 くちびるに花 帽子(シャッポ)に雨
 これが荷物の すべてさ
 あとはパンが ひときれと
 ギターがあれば 生きられる
 オ ノン ノン ノン ノン
 帽子の雨が漏る

なんだ、この軽すぎる歌は。
と思うが、しかしここで注目されるのは、美空ひばりのその入魂の歌唱なのである。これは一体、何か。ペラペラなメロディに思い切り感情を籠め、上質なポップスに仕立て上げようとする意欲がありありと見えるのだ。この苦闘。歌唱と原曲のこのアンバランスな表象に私は感じるものがある。それは美空ひばりと実弟、小野透の物語を映し出しているのではないのか。
歌手、俳優でもあった小野透はこの時点で、芸能界を引退し、山口組の舎弟頭となっており、暴行、傷害、拳銃密輸、賭博などで数々の逮捕歴を持つ、美空ひばりにとっての不逞な弟でもあった。その弟への愛がこの歌に独特の色を与えている。それは美空ひばりの必死であろうか。キラ星のようなナンバーに交ったこの‘普通’の歌を、アルバムの中にポジションを与えるべく、美空ひばりは発声による渾身のアレンジを試みている。私はそれを強く感じる。小野透は後、かとう哲也として芸能界に復帰後も、やはり、暴行、賭博等で逮捕され、美空ひばり初の紅白落選の要因にもなった。1983年、42才で亡くなっている。そんな姉と弟の物語は小野透の実子、和也をひばりが養子に迎える事で、第二の物語が始まる。美空ひばりの死後、加藤和也がひばりプロダクションの社長として、その歌の伝播に努めているのだ。
『歌は我が命 第2集』の歌詞カードにロカビリースタイルのハンサムな小野透に微笑みかける美空ひばりのスナップがある。時代を超える美空ひばりの歌の伝道は家族の物語、絆によるものであったか。

9曲目「愛のボサ・ノバ」
様々なジャンルに挑む美空ひばりがボサ・ノバに挑戦。と思いきや、その歌い込み方は全く、感情的でボサ・ノバ的語りやクールネスは皆無。そのままこぶしをまわす、ラテンタッチのひばりナンバーである。

10曲目「別れてもなお」はクールダウンした美メロが光るナンバー。さりげなく染みる旋律に心が落ち着き、クラリネットのほのぼの感に精神の安らぎを覚える。いい曲である。前川清にぴったりなハードボイルド風味なアレンジも可能だろう。

11曲目「夜更けのささやき」はシティポップ歌謡とも言うべき70年代歌謡曲の一つのパターンを先取りしたような作風で、リズムのファンクネスと哀愁のメロディのマッチが面白い。ドラムの後ノリが際立つダンスチューンである。ボイスにもややサイケカラフルな音響処理がなされている。

アルバムラストを飾る「星空の微笑み」はシャープ&フラッツの原信夫による壮大なジャズ歌謡。これまた傑作。数多のジャズスタンダードナンバーに匹敵する、夢のスクリーンミュージックだろう。肯定的な実在感。歌い上げる極致。歌の最後に繰り返される‘しあわせすぎる 恋のためいき’という口語に美空ひばりの息使い、その振動が伝わる。全てを抱擁するかのような肯定感。フランクシナトラ、ナットキングコールに引けを取らない曲と歌と演奏、そして録音が1968年の日本でなされていた。私達はこのナンバーを基点に、現在の日本音楽を考えねばならないだろう。

1968年という激動が記憶される年。社会が、世界が、文化が揺れ動いたこの季節に世に出した美空ひばりの歌集。この時点で歌手生活21年。歌が世相を反映したり、心の裡を表す鏡として機能する事をもはや、声高に叫ぶまでもなく、それは当たり前であるという包括的なメッセージがここに聴こえる。
全てであり、無でもある。
美空ひばりの歌に、そんな一つの境地を確かに見る。
『歌は我が命』全10作。私は毎月、二作ずつ買うだろう。

2009.7.4


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする