満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

アーカイブ「満月に聴く音楽」(2006)回想の歌③  the doors breaking through the other side 

2022-08-31 | 新規投稿

回想の歌 ③  the doors breaking through the other side 

以来、
私は栗原のギター、その陰影に富むギター音を愛した。彼のサイケデリックメロディアスなギターと私のフリーファンクなベースは融合しファンファーレとなり、合体された二人の音像は暗い光を放っていた。スタジオで発せられるマイナートーンの音そのものが日常へと逆流して現実感を占め、私の内面も外側もその幻の環境で満たしてしまうような引力があった。私は社会生活のリアルさを少なからず失うトリップ状態にあったであろう。

ロックに還ってゆく契機のようでもあった。
LP、CDを買いまくり借りまくるどうしようもないリスナー体質な私。ジャズ、フリー、アヴァンギャルド、プログレ、エスニック、ファンク、ヒップホップ、ブルース、カントリー、エレクトロニクス。趣向の幅を限りなく拡げすぎていた当時の私はしかし、栗原と奏でる音響の中に十代の頃に耽溺した<懐かしき原ロック>の快楽を重ね合わせていた。
‘ロック’こそが私の深部に宿って消えない原点であった。パンク、ニューウェーブを同時代に追い、そこにプログレを併走させた私は‘ロック’の持つ奥深い濃度こそを愛好し、そこに浸るきらいがあった事は過去の事実であろう。その耽溺の中で‘快楽と覚醒が共存できるのか’といった事を薄ぼんやりと意識していたのだと思う。そんな思考へと向かわせるものが正にロックのロックたる証左であった。私はジョイディビジョンを一つの究極とし、その先駆としてのベルベットアンダーグラウンド=ルーリード、ドアーズ=ジムモリソン、或いはプログレ、ユーロロックを愛好していた。

嘗てロックとは日常感覚から私を引き離し、理想主義的な夢想体質へと誘うような魔力あるものであった。意識が研ぎ澄まされながらも、惰眠するような精神を助長するものがあったと思う。そしてその快楽からもう逃れる事はできないと自覚していた。良しにつけ悪しきにつけ音楽は日常的な栄養であり毒になった。大げさに言えば人格や人生観の形成に少なからずロックが介在した。ロックを基点とし、そこから興味の対象が拡がり、概念的なものへの関心にも向かった。ロック批評の阿木譲、北村昌士等の言説にも影響された私は今思えばややドグマ的とも言える過激主義があっただろうか。社会性に対する漠然とした‘反’(アンチ)の意識と不安感、閉塞感が同時に共有されていた。そんな状態を正当化し意味あるものにしていく欲求とその不可能性との間に宙ぶらりんになっていたのが当時、10代後半から20代前半の私ではなかっただろうか。未熟で純粋、知的で頓珍漢、夢想的で阿呆。理想主義。当時のロックマニアはそんな人間が多かったと思う。

 ‘青い夢想者’がいた。
その夢想者がいつしか、悪戦苦闘を続けながら何とか社会性を身につける術を心得て、サラリーマンとして現実と折り合いを続けながら、もう一人の自分(本来の自分という思い込み)の聖域としての音楽活動を展開していた。表現行為は私にとって重要で、誇り高く、アイデンティティーそのものであった。これを失う事、即ち自己崩壊であるという一種の強迫観念にも似た思い込みがあっただろう。一種の勘違い野郎だった。何ともキャパが狭い事であった。まあ、若いからしょうがない。
しかしその‘勘違い’から生じるエネルギーは強かった。大した才能もない私ががむしゃらに突き進む事でそれなりの出会いや活動が可能になったのだから。勘違いと盲目が力を生み、努力を可能にし、止まらない車輪を生んだのだ。ベースの演奏技術も私なりに上達があった。

元リザードのドラマー、ベルと会った時も、自分に最低限の技術がある事が私を勇気づけていた。もっとも最初のセッションの時、「Pモデルに入るため抜けてしまう」と栗原が言っていた前任ベーシスト(名前は忘れてしまった)のシンプルで雄弁な演奏に‘負けたか’と感じたのも事実であったが。しかしそれでまた発奮するおめでたさと生真面目さを私は持っており、モチベーションにつながっていただろう。
栗原のバンド、The Faithはいいサウンドを持っていた。中でも栗原のギターは絶品であっただろう。その演奏には歌心があり、幻惑的であった。バンドカラーを決定づけるトーンを持っていた。圧縮されたレベルから一気に拡がりを見せ、スタジオに充満するそのサイケデリックな音響。表現力が桁違いにあったと今でも思う。彼の存在によって私はバンドの未来に展望を見、甘い夢を持ったのだ。

*****

問題はあった。
ヴォーカリストの浩太郎に対し他のメンバーは不満だった。声量に安定度を欠き、シャウトに走りがちになる事がしばしばで、好不調の波が激しい。私達は浩太郎を見守り、彼はそれに応えようと努力していた。元来が真面目な男であった。誰も彼を見放す事はなかった。しかも浩太郎のルックスの良さは際立っており、華のあるオーラを放っていた。長身で美男、手足が長く、ステージ映えする事は間違いないだろう。ちょっとしたタレント然としたムードを持っており、彼を「福岡からスターを目指して上京した」と私に説明した栗原には特に可愛がられていた。

私などバンド活動とはインディーズ以外の何物でもない態度が最初からあったが、彼は違う。浩太郎にとってバンド活動とは成功するか失敗して故郷に帰るか二つに一つである。そんな彼は純粋にサクセスを夢見、精進するのであった。自分の下手さを自覚しながら懸命に歌っていた。私は彼とよく話し、相互理解に努めた。そしてレコードをたくさん聴かせた。彼は今、一緒にやっているベルが在籍したバンド、リザードも知らないのだ。もっとも栗原も「聴いた事ない」と言っていたが、困ったもんである。浩太郎は洋楽などは尚更、何も知らず、同郷からブレイクしたARBやルースターズに畏敬の念を持っていた。九州出身のバンドは多い。
「何かをやらなきゃいけないという意識の奴が多いんですよ。俺もそうですし」
浩太郎はいつも夢を語り、真っ直ぐ前を向いていた。生活態度も真面目で、ストイックな男だった。服装だけは常にキメており、原宿ロボットの服を愛好していた。

私達の物語は始まっていた。
週二回、池袋の<スタジオ創造>でリハーサルを行ない、その後、栗原の部屋で曲作りをした。ベルや浩太郎もよく来たが、部屋の主、高さんやその水商売仲間と酒を飲んでいた。私と栗原がごそごそと曲をMTRに録音したりする隣で皆がワーワー騒いでいる絵は今思えば何とも可笑しい。もっとも栗原はうんざりしていたが。
「うるさいなあ、高さん、もう少し静かにして下さいよ」
「しょうもない歌、作らんとあんたも一緒に飲み」
高さんの酒量は明らかに多かった。彼女の酔いは時たま凄まじいものがり、手に負えない事がある。最初は自分のペースで飲み、陽気になって周りの人間にどんどん酒を注ぐ。そして皆が酔いだし騒ぎ始めると、急に怒り出すというパターンが多かった。私と栗原にも執拗に絡んでくる。
「宮もっちゃんもちょっとは飲みいや。何がええ?くり!もう少しましな曲作らなあかんで。ほんまに」てな具合でやかましい事、この上ない。
しかし私はこの高さんの普段の優しさや、飲んで荒れている様をどちらも愛していた。彼女に何らかの‘過去’‘痛み’の気配を感じていた。もっとも栗原には部屋代が不要である事と引き替えに、無理矢理飲まされるという犠牲が伴っており、それが彼を少しばかり苦しめていたのも確かであるが。
「あの人、凄い酒飲みやからな。いつも変な愚痴につき合わされて飲まされるんや。お陰で一滴も飲まんかった俺が、酒飲みになってしもうた。仕事に差しつかえるしあまり飲みたないのに」

ある日、栗原と私はリズムボックスをいじってパターンをあれこれテレコに録ったり、歌詞を作ったりしていた。隣の部屋では高さんがいつものように数人の連れと騒いでいた。しかもラジカセのテープに合わせてアンルイスや中島みゆきの歌を大声で歌っていた。気が散るのでその日はふすまを閉めていた。雑音をシャットアウトして集中していたのだ。暫くすると、先程、二人が練習で入れたデモが高さんのラジカセから聞こえてきた。その前に何かダサいフォークギターが聞こえたが。
「あれっ、どおりで見つからんと思ったら、高さんが向こうに持って行ってたんやな」
私が言うと栗原は青ざめた表情になっている。
「あっ!しまった!」
「どうした?何を慌ててるんや」
私が不思議がるのも束の間、高さんの怒号が聞こえてきた。
「あんたら、何よこれーー!」
怒りの形相でふすまをバーンと開けて飛び込んできたかと思うと私達に怒鳴り始めた。
「勝手に人のテープに変な音楽入れて。台無しやないの!どうしてくれんのよ!」
怪訝な私をよそに栗原は神妙な顔で謝り続けている。何がどうなっているのか解らない私はこの悪夢のような様を茫然と見つめるだけであった。
高さんがふすまをパシャーンと閉めてあっちへ去った後、栗原はだらりと首を項垂れて言った。
「あれはまずかったで宮本くん」
「何がまずいねん?あのテープが」
「昔の彼氏が作った曲が入ってたんや。それを俺等のジャムセッションで消してしまった。もっと注意しとけば良かった。曲作りに夢中になっててそこらへんのテープをひっかき回してたからな」
「それは悪い事したな。でもそんなに大事なテープなら爪を折っとかなあかんわ」
「あの人、大阪にいた時の彼氏が未だに忘れられへんらしいんや。最初、一緒に出てきたらしいけど別れたんや。あのテープを聴きながら泣いているのを前に見た。へんなフォークソングばかりやけどな」

私は高さんがBOROの曲、「大阪で生まれた女」が好きだという事も知った。私も好きな歌である。私は特に萩原健一の二枚組ライブアルバム『熱狂雷舞』(80)に収められた柳ジョージ&レイニーウッド+速水清司の素晴らしい演奏をバックにしたヴァージョンを愛聴していた。
そう言えばこの歌の内容は正に高さんの過去、人生そのものなのだろう。「大阪で生まれた女」は彼女のテーマソングだった。私は高さんの日常である喧騒の背後にあるものを感じていた。明らかに彼女は過去の痛みを持っていた。表現者ではなかったが、彼女も私達の紛れもない仲間であっただろう。

**************
栗原はいくつかの良い曲を書いた。
ある日、スタジオで彼がアコースティックギター一本で歌った歌があり、その曲名を<age of god>(神代)と紙に書いて皆に見せた。私は傑作だと思った。ネオアコ風ではあったが、爽やかではなく、もっとブルース臭が強い。
私は‘age of god’という難しい英語に少し驚いた。普段、英語を全てカタカナで書くような男が書いたのだから尚更である。
「難しい意味はない。勝手に作ったんや。‘神々の時代’っていう事やな」
少し照れながら栗原は説明した。本当はもっと言うべき内容があったのだろう。しかしそれを今、長々としゃべるのは何となく恥ずかしいし、スタジオ代ももったいない。
私は大凡、イメージした。キリスト教に於ける‘終末思想’、仏教での‘末法の世’のような荒廃の世相、時代の果ての平安の事だろう。そしてこれは現実への嫌悪がベースになっている。栗原のユートピア願望であり、夢想であると思った。
栗原は普段の様子からは想像できない程、現実を疎んでいる。そしてそんな現実での自分の居場所を確保する為の悪戦苦闘、自己治癒が彼にとっての表現行為としての歌作りであった。やや横柄で陽気な顔とそれに反するような内面のイノセントを持ち、ある種の精神的不安定さと共に生きていた。それが栗原に見た私の印象であった。

栗原の神や神秘といったものに惹かれる体質は隠しようもなかった。「創価学会に誘われた時、断ったけどそいつらの話には感銘を受けた」と言った事もあった。‘危うさ’を持った男だった。ナイーブさと感受性の強さが際立ち、社会的には頓珍漢でダメな奴であっただろうが、現実の裏を感知するような典型的なアーティスト体質の男と言ってもいいだろう。
「age of god」は傑作だ。
高音域が多用されるこの歌を浩太郎はなかなか上手く歌えなかったが、徐々に克服していった。まるで音楽の授業のように健太郎は必死だった。私はベースラインを作り、歌メロに対するセカンドメロのようなものにした。
「ビートルズみたいでなかなかええやん」
栗原は認め、曲は完成した。

**************

「age of god」の暗さと美しさはグループの象徴になった。
退廃と希望が表裏一体となったような曲であり、それは‘幻視者’栗原によってもたらされた感覚であった。
ロックアーティストは‘視る者’としての諦めと虚無の感覚を持つ。肯定性へ向かう背後に常に否定性がついてまわるものだ。そんな根拠を前提とした表現行為とはいわばぎりぎりの肯定と快楽を約束し、最後には人生を否定しない拠点を築く。ロックの深みはここに在ると思う。何かの希望へ向かって脳天気にメッセージするロックを私は信じていない。嘗て、ジョイディビジョンによって生じた私の感性の基軸は、そこから遠く離れる(と感じられる)ロックを<ロックでないもの>と断じてきた。私は極端なヘンコではないが、確かに偏りがあったとは思う。

「age of god」をセッションしたあの日、スタジオのリハーサルルームを出た時、ロビーでかかっていたのはドアーズの「breaking through the other side 」であった。ジョイディビジョンの先祖と言って良いジムモリソンがファーストアルバムの一曲目で歌ったこの曲は、ロック表現の原点であり、成就でもあろう。それは以後、30年以上続くロックシーンの始まりであったと同時に‘既に見極められた終わりの成就’であったと思う。彼はこの曲で‘もう一つの世界、向こう側へ突き抜けよう’と歌ったのではない。そうゆう出発点と未来願望ではなく、ただ一人突き抜けた男がこれから続く迷宮を前に自己崩壊と敗北を宣言したのだ。視えてしまっている者は既にポジティブに対する距離の感覚と繊細さを有し、あとに残された表現行為による自己確認に質実性を高度なレベルで宿すだろう。そこでは‘解りきった’安易さとは無縁になる筈だ。虚無に裏付けされた外界へのインパクト、その強度を持ってメッセージとし、肯定性と呼ぶ。ロックのマイナー性の根拠はそれが夢を語らず、正夢としての地獄巡りを繰り返す事で自己覚醒を促す事だ。それが正当な‘メッセージ’というものだ。
ジムモリソンのロック表現の‘結論’は既に表現行為以前で確立している。そんなモリソンの事後行為としての作品生産や公演は、精神の堂々巡りを止まらない運動とする事の宣言であり実証なのだ。
ジムモリソンが高度な技術を持つアーティストと言うよりも‘見者(ボワイアン)’と言ったタイプであるのは明白だろう。彼はいわばプレアート、プレ表現に生きたのであり、凡百の表現者が到達地点とするべきレベルを既に「breaking through the other side 」というデビュー曲でやってしまった。モリソンの以後の道程は数枚のLP作品とライブ演奏やスキャンダルを通じ、敗者としてのロックのエッセンス、本質を外界に知らしめた事であろう。
‘視る者’としての最大快楽と悲惨を同時に引き受け、全うした。そして死んでしまった。

*****

栗原のギターを聴いた時、私はここにも‘視る者’を感じた。ここにも一人‘ロック’を体現する男を見つけていた。そんな資質を間違いなく彼は受け持っていた。私はそんな彼と共闘という名のゲームをしていたのだろう。参加者は私と栗原だけではなかった。ベルはその飄々とした自由人の雰囲気を持った軽やかな登場人物であった。彼は既に一つのゲームを終えていた。リザードという波乱に満ちた壮大な物語をその脇役として生きてきたのだ。そこでの体験は彼を強さに導いていたに違いない。実際のベルは無邪気で随分、庶民的な男であったが。
私と栗原がごそごそと曲を作っている横で、いつもベルは高さんやその女友達等と酒を飲んで騒いでいた。
「ベル、今度、私にドラム教えてや!」
「ああいいよ、いつでもOKさ」
何故か気の合う高さんとベルであった。実際、その後、二人でスタジオに入って高さんは真面目にドラムを習い、ベルも真剣だった事を栗原から聞き、私は爆笑してしまった。何をやってるんだか。まことにおかしなコンビであった。

私は栗原からベルに関するリザード時代の逸話を聞いた。
リザードのファーストアルバムはロンドンでレコーディングされた。その際、ベルは一人、上手くプレイ出来なかったようだ。プロデューサーのジャンジャックバーネルはベルに向かって「サムライスピリットでプレイしろ!」と叱咤激励し、ベルは半泣きで必死に演奏していたらしい。
私はこの話しを良い話だと思った。今、ここにいるベルは余りにも楽しい人物だが、ガッツは健在だろう。ベルはやる筈だ。私はそう確信していた。

*****

時代はバブルだったようだ。
もっとも安月給の私にとって世の好景気など、まるで外界の出来事だった。いや、大方の人間にとってもそれは同様であった筈だ。金融や不動産の狂乱景気が株価に反映しただけの猿芝居に皆が浮かれていた。儲けているのは一握りの人間なのに、浮かれたムードに便乗したい奴らがおこぼれもらいたさに嘘の踊りを踊っていた。相場で失敗した人間は無数にいた。バブルとは浮かれたムードや世相、浮かれたい人のマインドが支配した阿呆の時代だったのだ。私と大差ない収入のくせに週末は都内のホテルで一泊して過ごすという‘セレブ’な先輩もいた。何を考えているのか。

経済のバブルが崩壊しても尚、メンタリティーの虚構のバブルはしばらく続いていた。そちらの方こそがバブルな状況であった。閉塞感よりも時代を謳歌する気分がしばらく先行したのだろう。
テレビでも変なものを多く目にした。OLクラブとかいう番組では後に倒産する山一証券の男が歌を歌いながら脳天気に投資を煽り、なんとなくクリスマスだか栗と栗鼠だか、そんなのを書いたギラギラした顔の物書きが「はい、エルメス一千万円!」などと叫んでいた。黄色いメガネをかけた空間デザイナーやらコンセプターなどと名乗る得体の知れない職業の輩が中身のない話をもっともらしくしゃべり、下品な成り上がりの会社がディスコで入社式をしたと報道されていた。
バブルはポストモダンとも充分、連携していた。
田舎っぽい村上龍がトーク番組で繰り広げる‘知的空間’のどうしようもなさを直感していたのはホストの岡部マリだ。彼女がタバコの煙にうんざりしながら醒めた視線を村上に向けていたのを記憶している。ゲストの柄谷行人に対するいとうせいこうのべったり感も当時の‘気持ち悪さ’の象徴だった。<朝まで生テレビ>は初期の頃は和やかなムードがままあった。私が好きだった竹中労、野村秋介という左右の硬派も全体のムードに流されて居場所がなくなるような場面が多く、和気あいあいとした雰囲気を一喝するのが大島渚の仕事であった。時代が切迫感を持ってくるのはもう少し後であり、繁栄を謳歌する気分と安全神話が隅々の意識に反映し、メンタリティを形成していた。司馬遼太郎が土地を投機の対象とし始めた日本人の退化に対し警告を発していたのはその根源的変化に対する冷静な読みであったようだ。日本に於いて‘公’の意識が後退し、‘私’が肥大化するのがこの時期であろう。

もっとも私がバブル期について嫌悪感をもって記憶するのも、大部分は自分自身の閉塞感に因るものである。<イカ天>のやかましさや<オールナイトフジ>のミーハーを嫌悪しながら、そのブラウン管の向こうの‘明るい世界’に眩しさを感じていた。
確かに何となくひもじい記憶がある。
しかしレコードを買い過ぎて金欠地獄になりながら、バンド活動でへとへとになるのは自業自得で、そんな生き甲斐がある事こそが恵まれていた。しかも最初は苦痛の連続だったサラリーマン生活にもそれなりに順応してきたのは精神的に安定した良い状態であった。バブルな外界のムードを単純に嫌い‘ぜいたくな’不服を感じていたのが当時の私の憂鬱の正体だっただろう。
バンド活動は私の聖域だったが、明確なプロ志向ではなく、あわよくばという態度で勝手な夢を抱いていた。渋谷ラママでのソフトウィードファクターのライブでモーガンフィッシャーと対バンした時、‘一生の記念になった’と感じる私はやはり、どこまでも平凡な小市民だったであろう。

対し栗原は自分の音楽的才能を信じ、成功する事を使命としていた。
栗原は「グロリアス」という曲も作っていた。素晴らしいギターのメロディーを持つ曲だったが、glory=(栄光、栄誉)の形容詞をタイトルにした例によって彼独特の変な題名だった。バンモリソン(ゼム)のオリジナルでドアーズやパティスミスも歌った「グローリア」というロッククラシックがあったが、それには似ておらず、曲調は余りにもマイナーな美に満ちたオルターネイティブな香りのナンバーであった。生真面目でピュアな精神が迸るこの曲はしかし、栗原の‘栄光’への触手をゆったりと後押しするテーマソングでもあっただろう。私はそれを感じ、ロックバンドの一体感、栗原との連帯を実感していたのだ。

 

「満月に聴く音楽」(2006)より転載

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アンビエントという名の相剋 イーノ展を廻る

2022-08-28 | 新規投稿

ノン ミュージシャンを標榜したイーノはある時期からミュージシャンになったと思っている。しかもノンミュージシャンの頃はアーティストですらなかった。その姿はマルセル デュシャンにも通じる反技巧的なトータル表現の行為者であり、折しもNEW WAVE台頭期に於けるアイデア万能主義との相性がイーノの広角な影響力に繋がってゆき、本来なら現代音楽、アカデミズムが先行する手法をポップフィールドで具体化した事に意義があった。その意味で私はRoxy Music脱退後のイーノはPUNK/NEW WAVEの変種だったとも思っている。そして80年代後半以降のエレクトロニクス ミュージックシーン勃興によって電子機器の操作もミュージシャンシップであるという認識が一般化される中、イーノはその先駆者として神格化されていく。個人的には「nerve net」(92)までは熱心にフォローしたが、それ以降の作品はアンビエントという様式の再生産といった内容の作品が続き、感心は薄まっていた。30年振りとなったフリップ&イーノ名義による作品「The Equatorial Stars」(04)も期待外れ。もはや私の中でイーノは傑作揃いの過去作品のみを楽しむ対象になっていたのは確かだ。

そして迎えたのがイーノ展。「3階からどうぞ」というスタッフの案内に従って、The Shipというブースに入ると、真っ暗闇の中に未聴の音響が拡がる。そのイメージはアンビエント+サウンドトラック。様々なスピーカーの配置を施し、音量の大小もアットランダムに表現したダイナミクスある音響。そこにイーノのボーカルパートが時折現れ、物語性、メッセージ性を醸し出す。薄明りにこだまする音と声、かすかな光。イーノの新境地なのか。

The Shipというタイトルから、私は嘗てObscureシリーズの第一弾ギャヴィン・ブライアーズの「タイタニック号の沈没」(75)或いは「another green world」(75)に収録されていたBig Shipという曲を思い出すが、今作のダークなムードからはブライアーズの「タイタニック」からのインスパイアさえ感じさせる程の共通の質がある。最近はプロフィールに社会的アクティビストとも紹介される事も多いらしいイーノの何らかの現実的危機感の現れ、そしてメッセージだろうか。

先程、アンビエント+サウンドトラックと書いた。その感想は90年代半ば、特に2000年以降のイーノ作品に感じ続けてきたものでもある。全てを聴いてる訳では無いが、アンビエントの本義が、本来、何物にも属する事はない独立した音の物質であるなら、最近のイーノは何かしらの現実的動向を反映するアンビエント、それはいわば付随する対象ありきの正に‘サウンドトラック’であると感じでいた。

私は6年前にイーノの変貌について以下の文章を書いた。それは音楽的変化についてではなく、イーノの発言を巡る違和感の表明だったが。

<最近、ブライアン・イーノをよく聴き直しているのは、先日Obscureという名の付いたイベントに出演してイーノを思い出したからである。ところがと言っては何だが、何年か前のブライアン・イーノの俄かにとも思える対イスラエル批判には驚きを禁じ得なかった。イーノが政治に関する主張をするとは。私にとってイーノとはいわば‘超越体’そのものであったので小賢しい社会批判や政治的発言など、似つかわしくないと感じていたからだ。(中略)現実から遊離してこそ、イーノのアーティスト性と信じて疑わないし、イーノはそこに更に音響科学ともいうべき、空想未来志向を併せ持ち、‘先なる現実社会の提示’を目論んだ、いわばリアリストの次元を超えたアーティストのはずだった。‘政治意識が先行する’数多のアーティストの群れに埋没してほしくはない。もっと天上目線の存在でいて欲しいというのも、私の勝手な思い込みだろうか。>2017-10-30

そしてその‘勝手な思い込み’がROCK MAGAZINEの故阿木譲を通じてのイーノ解釈がベースにある事も以下の文章で示した。

<阿木譲の功績はブライアン・イーノの正確な評価を確立した事だと思っている。ロックを覆う内面性、文学性、メッセージ性などの人間中心主義を相対化し、イーノの一見、高踏派とも見えるその反情動的な佇まいの本質を開示しながら、その影響力まで予見してみせた。ノン・ミュージシャンとしてのイーノの音楽制作の手法であるシステム論を通じて、音楽から音響への変化の時代、聴覚作用の変位も織り込んだ快楽原則の新たな設置が生まれた事を説いていたと思う。それは言ってみれば、非―文系的な知の科学的、工学的な導入がイーノによってポピュラーシーンに導入された事の阿木氏による認識であっただろう。イーノの巨大な影響下にある以降の先端音楽を阿木氏は更に西欧の歴史主義、その精神史の系譜をクロスさせた論評を試みる実験を行っていた。そういった批評の土俵に現実の社会的出来事、政治主義は当然ながら似つかわしくない。世の中に対する社会不安、情勢不安という観点はあるにはあったが、そこにむしろマスの人間の内面不安の集積を見、ある種のアナーキズム的虚無思想にも通じる社会的コミットへの自身の希薄さを無意識に記されていたと思う。少なくとも私は社会性を表明しない阿木氏の文章の行間からそれを読み取っていた。そんな体質、元からあったのではあろうが、ブライアン・イーノというアーティストの触媒的役割は阿木氏にとって絶対だったはずで、私自身もそんな阿木氏の批評を通じ、イーノというアーティスト、その反情動的、非―政治的な資質、故の音楽の屹立した様相を愛好したつもりだった。
ところが、ここにきてイーノは政治メッセージを発信する一文化人たる風貌を帯びてきた。それは多くの人は何も感じないのかもしれないが、私にとっては大きな変化に映った。>2018年10月24日


イーノ・アンビエントのサントラ化への変化、その根底にイーノの現実的覚醒があった。それは同時にイーノの至高性、孤高性を喪失させる事を意味したのだと感じる。

イーノ展の各ブースに展示されたインスタレーション。何れも映像や光がゆっくり変化し、しかもその変化に気が付かぬほどの時間的緩和の中で鑑賞物が存在する。音はそのテンポに寄り添い、非―現実の空間を創造する。

「ありきたりな日常を手放し、別の世界に身を委ねることで、自分の想像力を自由に発揮することができるのです」

「音楽を動的で千変万化するもの、そして絵画を静的なものだと考えるなら私がしようとしている事は静的な音楽と動的な絵画を制作する事だ。私はその二つの形で音楽と絵画の従来のコンセプトの間に存在するスペースを見つけようとしているのだ。」━ ブライアン・イーノ

そのコンセプトはある意味、凡庸だ。数多の現代美術家、現代音楽家が試行してきた発想と手法の域を超えるものではない。少なくとも静的な音楽、動的な絵画を制作するにおいて、そのテンポを画一的にスローで統一する事によるイメージの拘束は真逃れないのではないか。

イーノ展の各ブースに共通するのは、暗い部屋に於ける、一種のアンビエント メティテーションとでも言うべき、瞑想の感覚であった。来場者は沈黙を強いられ、耳目をアートに集中する。
[興味深く聞くことも、聞き流すことも、無視することもできるという、あらゆる聞き方を受容する]というイーノ自身が掲げたアンビエントのコンセプトは無効化され、作品の発信と受容という  旧来型法則が復活した。
いや、今回はインスタレーション展示なのでアンビエントは無関係、あくまでもイーノの仕事のONE OF THEMだろう とは思う。ただ、イーノの創造物に対し、オーディエンス全てが、同じ態勢で臨み、瞑想空間を共有するこの部屋の空気に"らしくない”ものを感じるのも、また私の"勝手な思い込み”だろうか。あらゆる規範を外れ、自由度を追求したのがイーノの真骨頂だった。

1階でENO SHOPで私は展示ブースの一つThe ShipをタイトルにしたCDを購入した。やはりThe Shipは独立した作品と位置つけられているのだろう。5つあるブースの中で私が特にThe Shipに関心が向いたのは、そこにボイスが存在したからであるが、これは音楽的に成果ある要素だとは感じる。その言葉と発声、旋律のナチュラルな響きは声の音響化、ボイスの展示化という様相を呈し、新たな歌の在り方を示唆すると感じられたからである。嘗て「another green world」(75)「before and after science」(78)という2枚の傑作アルバムで実現させた歌とアンビエントの相互交感が言わはノンビートの背景を持って進化した。このような好解釈も成り立つかもしれない。
何れにしても「The Ship」は聴き応えある作品となった。ただしそのメッセージの先駆性に着目したというLou Reedのカバーにはムードを先行したボーナス サービス的な動機しか感じる事はできなかった事も付け加えておく。

2022年8月28日

 

 

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Squit Squad(河端一+藤掛正隆)1stミニアルバム「Squit Squad」

2022-08-23 | 新規投稿

Squit Squad(河端一+藤掛正隆)1stミニアルバム「Squit Squad」


「結構ノイジー」と藤掛氏は説明したがファットな音作りが全体をトレブリー過剰にならず、寧ろ心地良さを実現。河端氏の"歪みアンビエント”とでも言うべき残響豊かなギターワークと藤掛氏の明確な拍を感じさせる重いビートが自然融合。

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INCENDIES(灼熱の魂)監督ドゥニ ヴィルヌーブ

2022-08-22 | 新規投稿
 
内戦下のレバノンでのキリスト教徒とイスラム教徒の戦いに人生を翻弄されたムスリムであった母の遺言によって父と兄を探す旅に出る双子の姉弟。徐々に判明する亡き母の凄まじい人生の連続の後、父と兄が同一人物だったという奇想天外なオチに驚愕。如何なる経緯を経て誕生した生命も愛であるという母の確信は個人自由度の高いカナダで暮らす姉弟に文化の差異を突きつける重い探索ゲームを課した。唖然とさせられる物語。
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アーカイブ「満月に聴く音楽」(2006年出版)回想の歌②  CURE  just like a heaven

2022-08-19 | 新規投稿

休日。

一人、街を歩く。レコード屋、本屋、服屋、吉野屋、ジャズ喫茶。行くところはワンパターン。そして部屋に戻る。一人の部屋に。侘びしい一日であるが、当時の私は大体、こんな風であった。

 

新宿ディスクユニオンに行く。地下のジャズコーナーから順番に一階ずつ上がり、4階の中古コーナーまで時間をかけてチェックする。結局10枚ほどのLPを買っていた。

そして店を出ると私は必ず向かいのパチンコ屋の洗面所で手を洗う。レコードを沢山、めくりすぎて手が汚れ、ねちょねちょになっているからである。当然、パチンコなどというつまらんものはやらない。

 

***********

 

1987年、春。

私は栗原のバンド、Faithのメンバーと池袋西口で会った。

「こんにちは、俺がベル。宜しく」

ベルが手を挙げて声をかけてくれた。ニコニコした愛想の良い男である。

しかし私は緊張していた。そりゃそうだろう。嘗て、常に客席から羨望の眼差しで見ていたリザードの元メンバーがここにいて、私に話しかけてくれているのだから。しかもこれからセッションしようというのだ。

私達は西口はずれにある<スタジオ創造>に向かった。私はその間、ずっとベルと喋っていた。

「ねえねえ、宮本君はリザードのファンだったんだって?リザードのアルバムでどれが一番好き?」

まるで他人のバンドのように私に尋ねてくる。

「どれも好きですけどやっぱりファーストですかね」

「あっそう、俺は二枚目の『バビロンロッカー』なんだよね、でもコウ(キーボード)が抜けちゃったからなあ。あれが痛かった」

「コウというのは家業を継ぐため辞めたんですよね」

「そう。よく知ってるねえ。俺も辞めそうになった事もあったんだ。あの頃、俺、下手だったしねえ」

「そんな事ないでしょう。とても好きだったんですよ(確かにライブでは出来不出来の波があると感じてはいたが)」

「今は結構、上手くなってるよ俺は。ところでその‘ですます’調やめてくれない。フランクにいこうよ」

「あっ、そうですね」

「また、ですねなんて言う。頼むよ本当にー」

こんな会話があった事を思い出す。

髪が少し伸びたこと以外は、その美少年風の容貌も昔と変わっていなかった。何とも気さくで人なつっこい人物であった。偉ぶる事はなく、むしろ少年のような感じがして、大人に成りきってない人のようにも思えた。

 

栗原のバンドはタイトにまとまっていた。私はややファンク寄りのラインを刻んでいたが、栗原とベルから「音数が少し多すぎる」と指摘された。それは的確であったと思う。良いところを見せてやろうというスケベ根性が裏目に出た。次回の修正をメンバーに約束した。

 

リハーサルを終えた私達はマクドナルドに入った。

店内は客でごった返していた。「カウンターに並んでてよ、俺がみんなの席をとっておくからねー」ベルはそう言うと、はしゃぐ子供のように満員の店内の片隅に空いているテーブルを見つけ走って行き、みんなの席を確保した。こちらを向いて手を振っている。その笑顔を私は今でも憶えている。昼間、サラリーマン社会に生きる私の日常ではあまり見られない種類の表情であったと思う。

それは子供の顔であった。

余りにも無邪気な顔であった。社会に対し無防備で純粋な、ある種の‘幼さ’を私は感じた。そしてベルはそう言っても過言ではないような人物であった。

いや、今、思えば栗原のバンド、Faith自体がそのバンドカラーとしての‘未成熟、純粋、夢幻、イノセンス’を持っていたと思う。一人一人が問題を抱えた‘子供’の集まりであった。わがままな‘出来損ない’が集まっていた。それでいて素晴らしい音楽を創造していた。

 

********

 

西武池袋線、江古田。近くに日大芸術学部、音大、武蔵大などがあり、いわば学生の街であろう。栗原は改札で待っていた。

「定食屋が多いから便利やで。大学が多いから安い店が多いし。味はイマイチやけど」

そう言う栗原と私は吉野屋へ入り、牛丼の大盛を注文した。

熱いお茶をおかわりしながら、栗原は上京してからの事を語った。

プロのミュージシャンになるべく、真面目に勉強しようと思い、ハードなバイトで学費を稼ぎながら音楽学校に通ったが、そこは実はペテンまがいの経営で、ある日、一方的に授業を閉鎖され、学長が入学金や前払いの授業料を持ち逃げしてしまった。栗原には借金が残り、朝から土方をやり、夜はトラックで電化製品を関東一円に配達するバイトで、深夜ボロボロに疲れ果てた体で四畳半の部屋に戻る。そんな生活を続けていたのだと言う。音楽をする為に上京した筈がとんだ肉体労働者になってしまった。

「おかげでタフになったわ。東京の道は殆ど覚えたしな」

そう言いながら栗原はお茶を何杯もおかわりしていた。お茶で腹を満たし、金を使わなくても済むようにするとの事であった。

 

栗原の部屋は鉄の階段をカンカンカンカンと駆け上がる昔ながらの文化アパートの二階の一室であった。しかしそれは実は彼の部屋ではなく、部屋の主はスナックに勤めているというやや年輩の女性であった。

「あら、お客さん?私もう出るからね。お茶自分でだしてな」

高さんというその女性は在日の人であった。栗原とは男女関係はなく、彼を‘飼ってあげている’という。二人は池袋の路上で何となく出会い、栗原は野良犬のようにトボトボと高さんの後をついてきた。恋愛感情には至ってないのに、一緒に住むようになってしまったと言う。

二人とも関西からの上京者。それぞれに何となく寂しさがあったようだ。高さんは栗原を番犬とし、酒を飲みながら仕事のグチやストレスを発散させる相手として、この野良犬を部屋に置いているのだ。不思議な共同生活もあったものである。

三面鏡の前で準備に忙しい彼女はこちらを見向きもせず、大慌ての様子である。

「鍋におでんあるから食べてもええよ」

そう言って支度を終えた高さんはいそいそと出かけていった。美人とまでは言わないがエレガントなムードを持った女性であった。

 

2LDKの狭い方の部屋を栗原はあてがわれていた。テレキャスとミニアンプ、リバーブ、MTR、ラジカセとカセットテープが二十本ほどある。

「俺の荷物はこれだけ。居候やからな」

私は栗原のカセットのインデックスを見渡した。他人の部屋に入ると私は決まってレコード棚や本棚を隈無くチェックする悪い癖がある。ビートルズ、ベルベットアンダーグランド、ロキシーミュージック、ジーザス&メリーチェン、サケデリックファーズ、テレビジョン、スージー&バンシーズ、マガジン、バウハウス等のカセットがある。私も好きなグループが多かった。

「これはキュアーの新譜。けっこうええで」

そう言うと栗原はラジカセに<キスミー キスミー キスミー>とカタカナでタイトルが書かれたテープを入れ、再生した。

私はキュアーと言うと冷蔵庫のジャケットのデビューアルバムが全く好きになれなかったのと、今では女子供がキャーキャー騒いでいるだけのアイドルバンドと認識していたので、ずっと食わず嫌いであった。聴く気も起こらないというのが正直なところであった。

 

しかし栗原が最も好きだというキュアーの音楽は確かに良かった。

一曲目から既に全開のドラマティック路線。エフェクトされたベースにタイトなドラムが入り、歪んだギターが延々とソロを奏でる。シンフォニックに盛り上げるキーボード。その一体感は音楽が天上に向かい遊泳する上昇カーブを描いている。高揚する精神が表現され、必然的にある‘物語’の開始を予感させる。

ボーカルはなかなか出てこない。サイケデリックなギターの遊泳が続く。

と思いきや、機は熟したとばかりにリーダー、ロバートスミスによる‘oh,kiss me kiss me kiss me~~~!’というシャウトが始まる。歌い出しの一発目が凄い。しかも終始、叫んでいる。

何かとてつもない願いを訴えているような、凄まじいわめき声のような歌だ。或いは声変わりをしていない少年のような、そして女のくさったような軟弱な男が本気で怒ってしまったような中性的で幼児的な叫び声だ。この曲は「the kiss」と言う。インパクトはあった。私はいつしかこのアルバムをじっくり聴いていた。

各曲は素晴らしかった。最も素晴らしいのは「just like a heaven」だろう。歯切れの良いアップテンポなビートに美しいシンセが重なり、キラキラ輝くようなギターのリフ。語りかけるようなボーカル。これは現実への直面にふたをして、未だ見ぬ楽園を歌う理想主義的な賛歌であろう。天上への希求であり、悲しみ、憎しみという現実世界の負性に対する逃避のように感じられる。儚い一時的な愛の世界。しかし前進への意欲に満ちた希望の歌なのかもしれない。

 

ロバートスミス。余りにもイノセントだ。多分、どうしようもない奴なのだろう。ピーターパンシンドロームの代表か。そして駄々をこねる子供のような三十路男か。24時間白日夢男か。そんな事を連想させるその歌声である。どの曲にも言えるが歌い出しがとにかく強烈だ。

「なあなあ、聴いて聴いて!みんな!」

こんな風に始まる。

無防備だ。無邪気に誰にも見境なく話しかけ、熱っぽく訴え、しかし反論され、もみくちゃにされ、傷ついてしまう。しかし自己顕示欲と欲求不満は一向に収らない。だから、また凝りもせず叫び出す。キュアーの音楽はこんな繰り返しなのだ。

イギリス、ヨーロッパで絶大な人気を誇るのも頷ける。確かに人を惹き付け、心の中にぐっと入ってくる種類の音楽だ。

歌詞カードがないので歌の内容は解らない。しかし全曲、全編、これ‘I hope, I wish, I will’の世界であろう。ロバートスミスの声だけでそれは充分、伝わってくる。スタイリッシュなクールさとは対極にある無防備な‘CRY’そのものだろう。

何れにしてもキュアーの音楽は無防備な子供の叫び、わがままな願い、いわばそれは夢幻であった。

 

栗原がキュアーを愛好しているという事に私は納得した。いや、一つの判明、答えがそこにあった。昨日、会ったベルも栗原もキュアーの音楽性に通じる夢幻性を持っていた。彼のバンドFaithのカラーはここから来ていたのだ。そして私もまた、大なり小なり栗原と同じ種族であっただろう。私達全員が‘出来損ない’であった。ベルがバンドにいた事が私を栗原に近づけたが、彼との出会い。これは一つの必然であったように今、感じる。

 

ただでさえロックバンドとは、ある種の物語を形成しやすいものだ。

私と栗原の旅が始まっていた。それは現実への支点を取っ払った頼りない道程でもあった。音楽に付随する精神性が共有された。勿論、そんなことを私達は普段の会話の中に意識しなかったが、明らかに私達は一つの同志となっていた。

時代はまだ、そんな青臭い連帯を遊戯する空気を僅かに残していた。ロックが単なる愛好家でなく、それを愛する者達は一つの‘トライブ’(種族)であった事。夢を貪り、頓珍漢な方向へ流れていく敗者であった事。その中での上昇志向、成り上がりへのゲームが用意されていた。

「失うものは俺にはないな」

栗原の言葉は本当だった。彼はこの世を遊泳していた。

「just like a heaven」

そこがまるで天国であるかのように、彼は幻想に身を委ねていた。栗原の作る曲にそれは顕われていた。確かに良い曲を書いていた。しかもそのどれもが深い陰影に富む幻のようなトーンを持っていた。

私達はこの時点では終局に対する恐れなど微塵も存在しなかった。

それが私達の盲目性であったのだろう。

「満月に聴く音楽」(2006年出版)から抜粋

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