満月に聴く音楽

ベーシスト宮本隆の音楽活動(時弦旅団、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

「ジャズ・カントリー」 ナット・ヘントフ

2018-12-17 | 新規投稿

「アメリカのもう一つの国、ジャズ・カントリーに加わってゆく白人少年トムと苦悩するジャズメンの魂との冒険にみちた物語」
同書の帯に記された‘ジャズ・カントリー’とは何か。作者の意図は物語で強調される黒人差別による分断の象徴としての国家内国家を想定するコンセプトがあるかもしれないが、私は学生時代に読んだこの本を再読して少し異なる観点を持った。それは‘ジャズ・カントリー’とは内面的理想郷の事であるという結論である。従って当然ながら‘ジャズ’を‘ロック’なり、‘アート’なり、他の表現手段の言葉に置き換えても構わない。

「(略)そして、さまざまなところで働いている男女の皆さんが、めいめい自分の<表現の国>を持つ事を願う」という訳者、木島始氏のあとがきの最後のフレーズをふと目にした事が再読のきっかけになったのであるが、物語そのものの内容に新しい発見を見出す事は叶わなかった。しかし、「ジャズ・カントリー」という同書のタイトルそのものから受ける印象は時を経て、当時とは異なるものに変化している事に気つくのである。

物語の概要は公民権運動、ベトナム戦争反対運動華やかし頃のアメリカ社会の分断の季節が背景にある。ジャズの洗礼を受けた白人少年がトランペッターを目指し、黒人ジャズシーンの中に参入していき、大学進学を前に進路について苦悩するという物語だが、この青春小説のテーマの根幹に人種差別に対するアンチと、その撤廃運動への契機という志向があるのは当然ながら、同書のタイトル「ジャズ・カントリー」には固有の内部的なカントリー、それは理想郷であり、一種のシェルター、アジール(避難所)という非現実志向の強度を増す事の示唆でもあった事が今になって鮮明に分かるのである。

従ってカントリーとはある種、‘理想郷’のシンボルであり、さしずめ、邦題をつけるなら「ジャズ共和国」だろうか。
‘共和国’とはかつて、一つの理想郷を表す象徴的な意味合いを帯びる言葉でもあった。ただ、私は同時に‘王国’もまた、表現者個人内部の観念肥大としての理想郷のモチーフ足り得る事も同時に想起する。詩人、吉増剛造の「王国」しかり、リザード=モモヨの「王国」など、過去の作品媒体を通じ、‘王国’という言葉に自らの住処を設置する志向を多くの表現者に例を見る。

いずれにしても内部理想郷としての表現行為は現実から乖離しながら、いつでも現実への浸食を伺っている。その度合いが進むと人は現実社会とのバランスを失うのであろうが、表現行為に於ける恍惚性をデュオニュソス的と形容し、その最高意義を求める精神の在り方に生きる術を多くの表現者は自明の理として内在化させているだろう。
更に言うならば主人公の苦悩の告白に対し充分な回答を示さないジャズメン達は‘理想郷’に生きながら、それは楽園ではないという現実の理も主人公の少年に教唆する事も重要なテーマに同時になっているとも思われる。普遍的な理想郷はない。あるのは、いわば、瞬間的な快楽としての理想郷ではないか。従って現実生活に於ける苦悩の堆積こそが表現の快楽濃度を増幅させる事も一方の真理として、表現者に実感させている筈である。

中高年のサラリーマンがしばしば‘社会人バンド’等と自ら名乗り、週末にライブをやったりするが、彼らの魂は‘社会人’にあり、‘バンド’にはない。例え、‘社会人’であっても‘バンド’にこそ崇高点を見出すのは可能であり、それは表現の快楽の追及そのもののレベルや基準値だけが、問われる事である筈だ。「ジャズ・カントリー」の訳者、木島始氏による「(略)そして、さまざまなところで働いている男女の皆さんが、めいめい自分の<表現の国>を持つ事を願う」というあとがきの文章はそれ自体が同書の本質を表すメッセージとなった。


‘非現実志向の強度を増す事’と先ほど、書いた。
理想郷に於ける瞬間的快楽の濃度は何物にも替えがたい。その意義こそを多くのアーティストは知っているだし、その時間的引き延ばしを追及してるのだとも言える。そこに見る風景は体内に刻印され、精神的な主となれる。幾分、副作用のリスクはあるが、そうなれば誰しもが「ジャズ・カントリー」に入国を許されるのかもしれない。

何気に再読した「ジャズ・カントリー」。
そこには‘表現の国’の住人たろうとする私自身の願望の投影という要素も含んだ古くてタイムリーな物語であったか。しかし、実は未読の人に勧めるほど、良い本だとは思わない。やはり青臭いのだ。ナット・ヘントフには物語性とジャズ愛に満ちた最高のジャズ評論集「ジャズ・イズ」(1976)がある。こちらの方が良いに決まっている。

2018.12.16

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