満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

服部良一  『1934-1954 未復刻傑作選集』

2009-04-24 | 新規投稿

‘戦前暗黒史観’蔓延の要因を日教組による反日偏向教育や唯物史観にまみれた朝日、岩波など左翼言論機関に求めるだけでは無理がある。我々、戦後世代の感性の不感症の方がより問題なのだ。服部良一を聴こう。この正しくハイレベルに突き抜けたポップスが戦時中の日本で作られた事を確認し、その時代に対する自由な想像力を膨らませるべきなのだ。戦前の日本を今の北朝鮮と同一視するような無知を放っておくわけにはいかない。服部良一を聴こう。錯誤からの開放はここから始まる。はい。

コロムビア音源である『服部良一 / 僕の音楽人生』と『笠置シヅ子 / ブギの女王』(それぞれがCD三枚組!)をまず、お勧めする。(当ブログ08.02参照)これは共に必聴である。そしてビクター音源である『東京の屋根の下~僕の音楽人生 1948~1954』(CD二枚組)は灰田勝彦、服部富子等、同時代歌手によるオムニバスで、これも私は愛聴している。更に雪村いづみの服部カバー集『super generation』はティンパンアレイによる演奏とアレンジが光る傑作である。(当ブログ07.11参照)逆に現在のつまらないシンガーを集めて歌わせた『生誕100周年記念トリビュート』や小西ナントカとかいうシャレ者が洒落たアートワークでパッケージした『ハットリ ジャズ&ジャイブ』などは聴く必要はない。

‘我々、戦後世代の感性の不感症の方がより問題なのだ’と大げさに書いた。
情緒に深く感じ入る感性。他人との繋がりが濃厚で、悲しみも喜びも共有したかつての日本人の平均的感性は現代の個人主義的な即物的感性とは明らかに違う。貧しさや苦難は慕情を育み、一片の詩歌やバラッドに涙できる豊かな感性をつくる。悲劇の物語に対する精神的合一や喜劇に対する爆笑は、感情の量そのものに比例する時代的感性と言えたのだ。そこには現代的空虚や装飾された本性というポストモダンなシラケは介入しない。

‘ハイレベルに突き抜けたポップス’とも書いた。それは皆に等しく在った苦難や貧困、当然のようにある悲劇の日常に生きた嘗ての日本人の魂の躍動、その表出であると言わなければなるまい。メランコリーに深く沈む感性からの反動があのような極限の陽性となって現れ出るのだ。私はそれを感じる。‘悲’が奥深いからこそ‘喜’が爆発する。服部良一の音楽にあるこの両極を感じなければならない。従って、服部楽曲のポップなものだけを拾い集めた『ハットリ ジャズ&ジャイブ』は、その魅力を半減させた浅はかな編集モノであり、いかにも渋谷系などというスノッブのやりそうな所業だ。だから‘聴く必要はない’と書いた。

‘戦前暗黒史観’の誤りは、単純な‘戦前ハイカラ時代’に取って代わるものではない。戦前とは旧日本人が生息した‘情緒万能’と‘喜怒哀楽の振幅’が存在した時期の事であり、それは言わば‘感性の黄金時代’であった。小津、溝口など、世界に影響を与えたこの時代の日本映画の量産もそれを証明するだろう。

『1934-1954 未復刻傑作選集』は服部良一の未復刻作品集。
生涯作品数が二千曲に及ぶという服部楽曲は昭和5年の初吹込みからSPレコード時代の膨大な音源が未だ、CDはおろかLPにもなっていないと言う。聴きたいものである。商業ベースに乗らなくとも、全て復刻すべきではないのか。駄作も含めたこの時代の歌の総量を現代に放出する事をもって、歴史認識という学術的価値にも役立とうというものだ。

山田五十鈴の歌う「逢いみての」の叙情的なバラッドの美しさ。日米開戦直後の作品でこの時期はジャズ的アレンジが禁止されたらしいが、大陸情緒風メロディにジャズボーカルのブルースを加味したその苦肉のアレンジの努力が見て取れる。傑作だ。あのフューチャーポップ「流線型ジャズ」の志村道夫によるノスタルジックナンバー「月のデッキ」も味わい深い。この棒読みのような真っ直ぐな歌い方は何なのか。今にはない歌い方。しかし、やはり言葉が明確に発声されている事にまず、注意が向かう。日本語を巻き舌の英語発音で歌う現在の歌い方は全く低レベルなのだという事を再確認する。日本語の語感を強調する事はこの‘棒読みシング’こそが有効なのだ。恐らく今でも。更にこのアルバムには服部良一得意の民謡、音頭をポップに異化する試みが散見され、「ルンバ万才」、「ヤッタナ」等の躍動とほろ酔い郷愁感の交差が面白い。そして祭りのリズムに唐突に現れるジャズ的なソロパート等の配合感覚や型にはまらない言葉の遊びの中にその先鋭さを改めて認識できるだろう。

戦前から戦後に及ぶ服部良一の活動とは何だったのか。
私はそれをモダニズムの運動の一種であったと理解する。
明治以来、‘西洋’を摂取し続けてきた日本に於けるその‘カウンターゾーン’に対する受容がこの時期、始まっていた。例えば服部良一の同世代にはシュルレアリスト、瀧口修造がおり、当時のアカデミズム主流に反し、美術、現代詩などの前衛の導入を試行した。そこには西洋に於ける主流 / 反主流を意識し、その反主流の動向と併走する意識があった。服部良一が試みたのも大衆音楽に於ける王道を新種に差し替えるべく現在進行形のアメリカ アバンギャルドとしてのジャズやラテンを導入したのだと思う。しかも彼が偉大なのは、その‘最新’をあくまでルーツアイデンティティーに拘りながら日本音楽の型として創造し、そこに将来のメインストリーム像を明確に描いた事だ。

瀧口修造と服部良一。両者に共通したのは進取の精神であり、それは近代の超克を時代的要請とした日本が変成する過程に生じた変種としてのモダニズム運動であった。しかもその運動からイメージされるのは戦前、戦後の分断ではなく、その精神の連続性、日本人の持つ自由や至高価値への希求という普遍的な肯定性の思想なのである。時代や社会状況を問わない不変な原理としての肯定性という民族的特質の喚起と培養がこれらアーティストによって表現された。
従ってそのモダニズム運動とは激変する社会総体の意志であると同時に、変化に対応すべく人間の免疫力の向上を無意識に志向する開放でもあったと思う。
服部ミュージックの実験の体現者であった笠置シヅ子。当局からその異常に飛び跳ね回るステージングを危険視された彼女の爆発性は、その芸術が反時局的であると弾圧、拘留された瀧口修造の先鋭さと共通する、精神と肉体の解放の運動を意味した筈だ。

戦後に結実した主流としての地位は継続された運動の成果であった。
笠置シヅ子の動態も服部良一のダダ的言語やリズムの革新、和メロの昇華ももはや大衆的定着感と共に一つのスタイルとなった。私達は永遠に楽しめる。しかもその魅力は全く衰えず、未だ持って最新モードである。

2009.4.24


















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FRICTION 『DEEPERS』

2009-04-11 | 新規投稿

知人にミクシーに誘われたのが2年前。最初は好きなミュージシャンのコミュニティに20個ほど、入っていたが、殆ど読みも書きもしないという事で、順次、退会し、最終的にディラン、コルトレーン、フリクションだけが残った。今ではライブ情報が必要なフリクションだけでいいかなと思っている。元来、私にはインターネットの言語空間への参加を躊躇させる理由があった。匿名やハンドルネームという慣習が性に合わないからである。そこに自己防御や責任回避を感じるという屁理屈以上に、例えばハンドルネーム同士の会話の気持ち悪さという生理的嫌悪感の方が強い理由だろう。「そんなコミュニケーション、別に要らんやろ」と感じてしまう私は旧体質なのか。しかし、私にとっては‘別にええやん’では済まされない何か本質的に相容れないものを感じるのも事実だ。

もっともインターネットに於ける匿名とはタブーについての公開性と結びついた問題を含むので、その有効性も認識している。例えば隠された真実の伝播はしばしば、リスクを回避できる状態において発信されるものだ。多くの内部告発の類がそうであるように。デマゴーグとの識別を図る為にも一定の情報量は必要で、その集積には匿名を排除しては始まらない。しかし私が問題とするのは実はもっと気楽で理由なき匿名の事である。昨今、人間のコミュニケーションの希薄化とは、その量的問題以上にその深さに関する質的なものである。バーチュアルはもはや一つの時代的精神構造と化し、コミュニケーションの濃度基準をはるか後方に追いやった。生の人間関係の煩雑さ、軋轢を避ける傾向は過度且つ無意識な防衛本能を平均的感覚に据えたのだろう。従って、今の匿名には自己防御とか責任回避といった自覚すら実は無く、‘ただ、何となくハンドルネーム’なのだ。そしてその事の‘病み方’に気づいていないという退化が起きているという事であろう。
名乗る事と名乗らない事の境界線が崩壊している。本来、厳密な相違がある筈の両者が並行に許容され、そこに感覚密着性も生じているのだ。

名乗る(‘本名’の意に非ず。有名人のペンネーム、芸名も名前である)という事はそこに言説の責任感覚が生じ、絶えず自己に反証を強いる訓練と思考を練る感性が育まれる。逆に名乗らない事は安易さに流れ、自己批判と表現が一体化する契機が失われるだろう。匿名だからこそ全許容や全否定という極端化、デマの流布などがネットの言論空間では散見されるのではないか。それはコミュニケーションに対するイージーな精神の顕れだと断じて良い。恐らく、その果てに思考に、また感情にも‘ため’が存在せず、直線的で短絡的な感覚が肥大する。そして、軋轢を避ける体質から導かれるのは洗脳を可能にする思考の空白状態ではないか。不可侵を前提とする我々の社会がそれ自体、自由と民主を達成した成熟社会のように映っても、見えない侵犯に取り囲まれ、あらゆる局面に於いて‘濃度’、‘深さ’を排除する事で偽装された心地よさに在るという実相が日本でのネット文化にダイレクトに反映しているようにも感じる。

いささか強引な展開ではあるが、フリクションがその音楽性に受け持つ即物性、アンチブルース、アンチヒューマニズムな性質。その非―感情的世界は逆説的に人間の感情の襞、コミュニケーション、或いは対人、対社会という関係性のその濃度、深さについてのテーマを持つものである。実際、レックは昔から、個人の意志や社会との関係、コミュニケーションについて断片的ながら鋭い考えを表明し、歌詞の中にもサブリミナル的にその思想が散見されていた。あるいはレック自身が明確なコンセプトを表現に注入せずとも、結果的にフリクションの叩き出すビートの強さは、‘濃度’、‘深さ’の存在を我々に示し、虚構や中庸に対する嗅覚を研ぎ澄まされる事につながっていた。こじつけではない。フリクションのファンはライブや音源によって必ずそのような抽象感覚を得ていた筈であり、そしてその‘濃度’、‘深さ’とは物事の本質という観点以上に、人間の繋がりやコミュケーションに関するものであったと思う。勿論、それは ‘断絶への批判’という単純明快なものではないし、‘連帯’などという旧概念を喚起させるものでもない。フリクションはむしろそれに敵対すらしているだろう。そして社会やネットで見られる、‘ため’なき個人主義ならぬ自我主義の如き‘個の跋扈’を許容するものでもない。

更に強引な展開ではあるが、フリクションは表層を嫌い、‘深み’を追求、実践してきたバンドである。いや、正確に言えばバンドの自然体として‘濃度’、‘深さ’を身につけた存在であった。そんなフリクションが、久々の音源を届けてくれた。れっきとした新作であり、新曲2曲とカバー3曲による今回のミニアルバムはレック、中村達也の二人体制のフリクションによる待望のスタジオ作品である。前作『ZONE TRIPPER』(95)から14年という年数が経過した。10年に及ぶ活動休止を経て2006年にデュオで復活。現在までのこの間、ライブ活動の活発化。過去音源の復刻リリース、総括本の出版と、一定の話題の渦中にあった。むしろ70~80年代の活動ペース、そのゆったりとしたマイペースぶりを知るファンにとっては最近の方が、グループがより大きな認識度の中にいるようにも感じている。復活フリクションのライブ映像を収めたオフィシャルブートDVDも昨年、リリースされ、一つの作品として楽しめた。「さあ、あとは新曲だ」という期待値はファンの間で大いに高まっていた。

タイトルは『DEEPERS』。
不思議な語だが、フリクションらしいタイトルで、先程来、述べてきたグループの‘濃度’、‘深さ’をダイレクトに喚起させるものだ。DEEPという形容詞に行為者を表すERをつけ、更に複数を表すSをつけている。面白い。何となく納得させられる語感があり、そこに意味めいたものを見出せるだろう。しかもDEEPERSという響きが単純にカッコいい。以前の「gapping」(ギャッピング)などにも通じる一種の言葉遊び、造語だが、そこにフリクション特有の、何か本質的なものを感覚で表したいという志向を感じる。

注目はやはり、新曲の2曲である。
私の第一印象は嘗て『ZONE TRIPPER』でロックンロールに回帰してきたレックが、今回はサイケにまで遡ってきたというものだった。
アルバムタイトルチューン「DEEPERS」を私は‘深行者’とイメージしたが、深みに沈み行くという潜行のイメージではなく、何か本質に向かって接近する‘深く行く者’と解する。それは詞にも顕れ、レック得意の単語や動詞の組み合わせはイメージを喚起させるに充分だ。

引っ剥がす 蓋が開く
意味はある HITする センターに HARDなコア

フリクションに元来、在った現実主義、その存在論的で、あたかも物事の本質へ迫るように発信されるリズムがこのナンバーにおいても健在であり、リフの堅固さ、その反復の中に変わらぬ様式と発声の鋭さを見る。ただ、私が先程、サイケと言ったイメージはまず、リフの音色から来た。ギターレス・フリクションによってレックは当然、そのベースギターによるギターパートの代行を実験している訳だが、今回、結果的にその音色がベースとギターの中間的な‘濁り’と‘丸み’によって象徴されるサイケデリックイメージを醸し出すものとなった。以前のようなシャープなエッジではなく、うねるような厚みを加えたファットな音響的リフとなり、それを反復する事による高揚感覚、上下感覚というのは、正しくサイケデリックであると言える。

その傾向はもう1曲のオリジナル「メラメラ69」により顕著な形として顕れる。これは変わったタイトルで。最初、メラメラと火が燃える歌かと思ったら、歌い始めて、鏡の歌であると判る。‘MIRROR’の発音をメラとカナで表記したのだ。

MIRROR  MIRROR 向こう側 覗かれて こちら側 痺れる
   DA DA DA DA DA DA DA DA DA
調子はどうだ 光はどうだ

ミディアムテンポの中にグルーブが走り、深い、じわっとしたスローダンスもできるだろう。しかも途中で登場するベースギターによるソロがこれまでにないサイケなもの。ベルベットアンダーグランドでのジョンケイルのようなオールドでエスニックなサイケソロをレックがやった。いや、ここまで来たか、ここまで遡ってきたかという感じ。サイケの時代である60年代後半に‘逆行’するかのようなオールド感覚に驚く。恐らく「メラメラ69」の69とは69年の事だ。レックの表現の基点がこの時代にある事は理解するが、今回、結構、モロにやったなという感じ。‘DA DA DA DA DA DA DA DA DA’の箇所の歌い方など、これまでのレックにないもので、そのダレっと揺れる発声に従来の直角的でジャストタイトなレックボーカルの新境地を感じる。このような歌い方は今までなかったものだ。
思えば70年代後期に於けるフリクションの突然変異的な出現に過去からの断絶、中でもヒッピーに象徴させるサイケデリック文化等のオールドウェイブを断ち切った感覚の斬新さを感じていた私達ファン。今回の路線はそれに対し、むしろ、その連続性の存在という視点こそを迫るかのような音楽を提示したのだ。

69という数字が象徴するサイケデリック時代。
意識の変容という内部革命が、表層の流行現象とは違う次元で進行し、しかるべき人間はその内実を正面に受け、正しく変容したのだろう。私は2年前に刊行された『FRICTION The Book』の中でラピスがフリクションの音楽の深みについて、サイケデリックをキーワードにした論を述べていた事を思い出し、今回、そのインタビュー記事をチェックした。抜粋しよう。

ラピス;レックが音楽を始めた時代って、同時にサイケデリックが始まった時代だから、ミュージシャンもそれ以前と大きく変わった。ビートルズもロックンロールバンドからいきなり何かに目覚めて、心の中を覗き込んだり、日常生活を疑うようになった。(以下略)
Q;カウンターカルチャーの本質を根本から把握していると
ラピス;だからこそ日本のバンドから切り離されて見えたし、レックはかなり早い時期から気がついていたと思うよ。70年代初めには、自分の意識を追求し過ぎて若くして亡くなった人間がまわりにいっぱいいたしね。オレも夭折するはずだったけど(笑)、どこか構造がわかってしまったからギリギリで帰ってこれた。でもそこまで一度は行かないと、やっぱり日常的な音で終わってしまう。レックはクスリによって意識を変えるんじゃなくて、音楽は本来そうゆうものだし、その音楽を発している人間の根元を追求していけば、必ず、到達できると気づいている人間だと思う。(以下略)
Q;ではレックの印象を
ラピス;直感的な人だな。自分でもミーハーだって言い切れるぐらい、好きになったらとことん追求する能力があるから、音源はもちろん探して聴くだろうし(中略)とても的が絞られているし、特別な何かを見つける嗅覚がある。そしてその向こうには人とつながれる何かが必ず見えてくると。それをまじめに追求している。(以下略)

はたまた、強引な展開ではあるが、このラピスの発言によって図らずも、本稿の冒頭で述べたネットにおける匿名の問題から展開したコミュケーション論断片にまつわるフリクションの位置、そのテーマを喚起しうる有効性につながってきた事を私は確認する。そしてフリクションの‘濃度’、‘深さ’を人間の意識やコミュケーションに対するメッセージ性の顕れとし、それを可能にしたのが、サイケデリックという出発点であった事を併せて再確認するだろう。今回、その認識を具体的に表出したのが新生フリクションの新曲、「DEEPERS」と「メラメラ69」であった。

更に言えばミニアルバム『DEEPERS』ではもう一つの確認があった。
サイケデリックと並びフリクションのルーツとなっていたのがロックンロールだったと言う事を。それはアルバムに収められた3曲のカバーによって証明される。「raw power」、「fire」はライブで体験済みという事もあって意外性はないが、ストーンズナンバー「you got me rocking」のロールぶりには驚いた。あまりにも真っ直ぐな、しかもサビの‘ヘイ!ヘイ!’というコーラスのストレートマッチョな‘拳突き上げロケンロール’はどうだ。正直、私はゲっとなった。中村達也もまるで後乗りタイトなチャーリーワッツドラミング。いや、なんとも。すごい。変化こそがフリクションの本質と知る私でも、この展開は想定外だ。

私はフリクションがベルベットアンダーグランドの「white light white heat」を演奏した時の違和感を思い出した。確か、89年、恵比寿ファクトリーじゃなかったか。恐らくフリクションが他人の曲をカバーしたのはあの時が初めてだったと思う。(先日、買った『ZONE TRIPPER 1978-2008』での78年のライブ音源でイギーナンバー「I wanna be your dog」を演奏していた事を知ったが、それは最初期という事で私は未体験)あの時、フリクションがカバーをやる事自体が意外だったが、それ以上に、「white light white heat」という選曲が意外だった事を記憶している。何故か。
当時を思いだそう。
パブリックイメージとしてフリクションはニューヨークのNO WAVEムーブメントから表出したバンドであり、同時代のD.N.A、コントーションズ、或いはジョンゾーン、エリオットシャープ、アントンフィア、近藤等則、アートリンゼー、ビルラズウェル等、ジャンル越境型のインプロバイザー、或いはソニックユース、ジムフィータス、スワンズ等、ジャンク、ノイズビートロックとの同時代共振性があり、音の感触からくる即物性、アンチブルース、アンチヒューマニズムな性質は自ずとルーツをカットアウトするような外観を整えていたと思う。即ち、ルーツの所在を消去する‘強さ’こそがフリクションの世界性や何物にも収斂し得ない突出性を約束していたのであった。過去の様式に添う姿勢とは、それ即ち、甘さであり、イージーなエンジョイである。それはフリクションにはあり得ないスタイルであった。従ってオールドウェイブとの明確な切断を意思表示する事は逆にオールドウェイブに対し潜在的にその影響を自覚しているからこそ、重要だったのではないか。フリクションの音楽から私はずっとこのように感じていた。それはレックというミュージシャンが対外的な気楽なセッション活動やヘルプ的参加というものが一切、ない事にでも証されていると思っていた。

しかし、あの日の「white light white heat」は確かにカッコ良かった。それは意外な行動に映ったのは間違いないが。しかも、そのアレンジはベルベットのではなく、ソロ時代のルーリードのスタイルをカバーしたものであったと記憶する。つまり、この時点でレックはノイジーではなく、明るいトーンを採用したのだ。

『replicant walk』(88)以来、ロック回帰(この時点ではまだ、ロックンロールとは言うまい)してきたレックが、次第に成長する佐藤稔のグルーブを生かしたオリジナルをライブで展開するに及び、オリジナルと交えて「white light white heat」をやったのは実は自然体だったのだろう。この曲がライブ全体の中で、違和感なく収まっていたのも事実だ。確かアンコールで披露し、我々はダンスした。そして今、思えばそこに後年のアルバム『zone tripper』(95)の発芽があったのかもしれない。つまり、レックがカバーしたのはベルベットの「white light white heat」ではなく、ルーリードの「white light white heat」だった。これはポジティブな明るさの強調の契機だったのではないか。

『zone tripper』で展開された痛快な‘陽性’のロック(ンロール)。
「money laugh」、「head out head start」、「missing kissing」等の‘ツイストダンスでノリノリ!’の如く腰にくるロールミュージックを聴き直せばよい。フリクションが神秘的で変則的なグルーブを得意としながらも、よりシンプルで明るいトーンの楽曲演奏を繰り広げ、アルバムにバランスよく配置してあった。
結局、ロックンロールはフリクションの本質を示す一方の要素である明るさ、強さを表す象徴としてあった。その再認識が今回の新作『DEEPERS』におけるストーンズナンバー「you got me rocking」の行き過ぎたロケンロールぶりだろうか。

果たしてフリクションの新境地はサイケ&ロックンロールであった。
それは最近の音源復刻で初めて聴いた3/3を彷彿とさせる世界である。74~76年という洋楽ロックの模倣の時代。ロックンロールとサイケデリックを咀嚼、通過したレックがオリジナルなリズムを模索していた35年前。レックは確かにロックンロールとサイケデリックを母体とした表現背景を持ち、そこに依拠していたのだ。『DEEPERS』はその場所への発展的帰還であったか。

しかし、今回の変貌を肯定的に捉える私でも作品『DEEPERS』の全体の印象は、散漫であり、音楽もそれほど好きになれなかったという事実を明記しておこう。それはオリジナル2曲という少なさ、しかも楽曲の魅力不足。カバー3曲の直球志向が過剰(もう少しひねったアレンジだったらと思った)。そしてアルバム全体の音質のワイド感の不足も理由として挙げたい。特にドラムの音はライブで体験するラウド感が全く失われており、残念であった。結局、魅力的なナンバーはタイトルナンバーである「deepers」だけであり、これはフルアルバムの際の再録を期待したい。

私は大谷に電話した。
開口一番、「フリクションか?新譜、全然やなー」と言う。でも「チケットはもう買った」だと。全く皆勤賞な奴。これがフリクションファン。23日。クアトロ。さて、楽しみである。

2009.4.10















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SIX ORGANS OF ADMITTANCE 『RTZ』

2009-04-04 | 新規投稿

家族で白浜に旅行した帰りの列車。私は買ったばかりのアルバムを聴く。
サイケデリックミュージックの最も本質的なアーティストと思われるベンチャスニー=シックスオルガンズアドミッタンスの新作。何と場違いなシチュエーション。しかし妻も子供らも疲れ果てて寝ているので、問題なし。

未発表音源による二枚組だが、最高傑作かと思わせるほどの充実した内容。従来のサイケ度に増して、スローなグルーブが全編に炸裂する動性が素晴らしい。ゆったりとしたうねり。曲が連続し、大きな流れの中に主題が見え隠れするような構築美。民俗音楽のドローン的持続、そのマイナー調で暗い音象に暗黒の闇を視る。しかも美しい。細部に渡る弦の響き、空気を伝わる音の命が静かに消え、また甦る。その反復の中に煌めくような硬質な光が放たれる。それが美しい。この表現世界は深みに滑り落ちるような暗い精神ではなく、照り輝くような光輝な美に浸る耽溺の世界。それは聴く者に高濃度な癒しの時間感覚をもたらせてくれる。私はまどろみ、醒める。

車窓から見る海原に陽光が跳ねる。その光線が一筋のロープのように列車の後を追ってくる。曲がりくねる海岸線に私の体はリズムを刻み、そのテンポに漆黒の音楽が重なり合う。乱反射する光。眩しい。もはやサイケデリアとは闇ではなく、太陽の眩しさの中にこそ、その行き場を得たかのようだ。私はいつしか眠ってしまった。

『school of the flower』(05)以来の傑作。そして臼井弘行とのユニット、AUGUST BORN(05)以来の驚異的音響。『RTZ』で実現した歌と瞑想の交錯。アコースティックによる重奏的構築が電子的快楽を凌駕する瞬間。原始回帰のような大地的、土着的なセレモニーの音楽が発信される。しかもそんな集団熱狂のような催眠的高揚の果てに時折現れる‘情’の世界。ブルースだ。はっと我に還るような覚醒。はかなさ、寂寥感に浸される。ベンチャスニーは個の内奥から外部、他者、そして人間、自然へとその感電の触手を往来する。

3曲目のタイトルナンバー、「you can always see the sun」
図らずも、私はこのアルバムを夜の部屋ではなく、太陽の中で聴いた。月光の下で浴びるルナティックワールド(=狂気)よりも鋭利で研ぎ澄まされた陽光の中にサイケデリックの本質をイメージした。しかもベンチャスニーの歌う「you can always see the sun」を単純な自然崇拝とは言うまい。むしろ張りめぐされた電子網に生きる現代人が閉塞的空間の中に微かに見いだす点のような太陽の光、その物性の発見を祝する個的な儀式だろう。

おっと、私は目覚めたようだ。
暗黒の使者ならぬ、熱沙に誘われた魂があちらへ行ったままのよう。恐ろしいくらいの吸引力を持つ音楽が終わる。列車が着き、私は家族と共に降りた。

2009.4.4

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