満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Jamie Lidell 『JIM 』

2008-07-26 | 新規投稿

スティービーワンダーが大好きなのは解るが、声色まで真似るのはいかがなものか。
私にはまるで‘歌’がきこえてこない。DJによる何かのリミックストラックかサンプリングのような音楽が鳴っている。表面的な完成度の高さが逆に嘘くさい。演奏がどこか機械っぽく、歌も何となく他人行儀だ。ここには生演奏さえセンスにおいてはサンプリングの聴覚に根差しているような音楽がある。このクールネスをスタイリッシュと見るか。いや、ソウルがないソウルミュージックだから何かが物足りない。それを血や涙だとは言わないが、この感覚は嘗てのブルーアイドソウルにも無いものだ。なるほど、DJ的感性なのだ。音響快楽志向がこのジェイミーリデルの根本にあり、それはR&Bやソウルとは異なる表現拠点にいるアーティストだと想起させるに充分な要素だと感じられる。

こういった音楽を聴いていると、逆に過去の様々な白人の‘ソウルミュージック’を再認識すべきと思えてくる。嘗てロバートパーマーやホール&オーツはブラックミュージックファンからは絶対、認められなかった。可愛そうに。今思えば、彼等は白人独自のソウルを確立したオリジナリティ溢れるアーティストだった。ソウルへの愛の深さがアイデンティティを探る苦闘を自覚させ、作品を充実させていた。フィルコリンズやビリージョエルが放ったモータウン感覚のヒット曲もそうだ。それらはブラックミュージックへの過剰愛からくるコピーの欲望とオリジナル意識がせめぎ合い、結果的にポップによるブラックミュージックの超克を感じさせる有無を言わせない曲の力があったと思う。76年あたりまでのエルトンジョンの鬼のような才能もスティービーワンダーに匹敵するような正当な評価を与えられてしかるべきだ。ホワイトソウルとは汎西洋に立脚する事によってのみブラックミュージックに拮抗し得るのではないか。ポールバターフィールドやドクタージョン、スティービーウィンウッド等パイオニア達は皆、黒人音楽にのめり込みながら、苦しんだアーティストだ。

ジェイミーリデルのソウルミュージックはヒットするかもしれないが、ヒットしなければ容易に方向転換できる‘軽快’なものだ。むしろ、アルバムラストに収められた「rope of sand」のような非―ソウルナンバーにこそ、オリジナルな可能性を感じる。

2008.7.26




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PAT METHENY TRIO 『DAY TRIP』

2008-07-23 | 新規投稿

旧友、浅野は私にコルトレーンを教えた人物として恩人と言えるが、学生時代はゴリゴリのフリージャズ派で、年がら年中、ジャズ喫茶に入り浸り、アイラーだ、テイラーだ、サンラーだと言っていた。私はそんな奴の硬派ぶりが好きであったが、後年、パットメセニーが好きだと言い、その意外さに驚きながらほっとしたのを覚えている。そしてこの偏屈な野郎をも虜にするパットメセニーの音楽性に改めて敬服した。

私にとってメセニーはギタリストではなく、歌手だった。彼のギターはあまりにも雄弁に歌っていた。そしてメセニーグループはプログレだった。その叙情性や構築美はPFMやバンコ、ニュートロルスなどのイタリアプログレと通底しており、パットメセニーを聴く時、私はジャズという背景を削除していたと思う。

広義のポピュラーミュージックを本質に持つパットメセニーとは、たまたまジャズギタリストだったのだ。彼はミュージシャンでありアーティストだ。従って彼の名曲や名演が、譜面を追う事や、器楽依存的な即興など、音楽範疇内の技術的表出によって生まれるのではなく、もっと内面の衝動や世界に対する感受性といった非―音楽なものが契機になっている事をその音楽に接していて常に感じる。私は以前、メセニーを‘ドラマ作家’と書いた。メセニーのフィンガリングに楽器と戯れるような意識は感じられない。そこが凡百の上手いギタリストとは違うところだ。外の事象に対する感情の揺れや安堵感が音楽化される。その姿は職業ミュージシャンと言うより、紛れもないメッセンジャーのものだ。

『DAY TRIP』はトリオ名義の新作。メセニーグループのアントニオサンチェス(ds)とクリスチャンマグブライド(b)がメンバー。以前、ビルスチュアート(ds)等と組んだトリオは即興のインタープレイによる緊張感を追求したスリリングなものだったが、今回は幾分、リラックスモードとなっている。パットメセニーの中にある平和志向、優しさの表現の一端のようだ。街のうごめきや自然の風景、人々の生活感を描くスケッチのような味わい。しかしメセニーの中では、ジャンルや傾向の棲み分けは存在しない。アコースティックな音色やメロウな曲調は表面的なカラーであり、音の細部に聴き入るや、そこにやはり、凄まじい演奏の応酬がある。大きな音で聴くや、その空気感ががらっと変わるのが、面白い。
アルバムジャケットは例によって表裏で12面にもなる長大な絵。描かれたのは、ある晴れた日の街の風景、そこの人々の営みといった感じだが、登場する人間の表情は描かれていない事に気づく。メセニーが音で描いたのは実はこの無表情な人達の内面であり、感情の動きを表現したに違いない。単なる風景の写実を超えた、内部への眼差しこそを強く感じる。

2008.7.23




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DEATH CAB FOR CUTIE 『NARROW STAIRS』

2008-07-21 | 新規投稿

CDが売れなくなっている。音楽配信が増大したからと言うが、そうではない。音楽ファンが減っているのだ。でも悲観する必要もない。音楽産業自体がデカくなりすぎていたのだから。音楽なんて零細企業で充分。メガヒットも大スターも不要。音楽産業が衰退しても音楽やる奴はどんどん出てくる。これでいい。スターなんて目指さなくてもいいのだ。目指してもいいけど、なれなくてもいい。音楽をとことん好きになってずっとやればいいのだ。

「まず売る事だ。文化はあとからついてくる」という角川春樹氏に感銘を受けた石坂敬一氏は、ボウイ(デビッドじゃない)でそれを実践したと新聞に載っていた。曰く「彼等のあとに影響を受けたバンドがたくさん出てきて、ロックの巨大な足跡を残した」と。すごい自画自賛だ。それが文化か。どこにロックの足跡などあるのだ。石坂敬一氏と言えば東芝EMIでのビートルズやピンクフロイドのセールスで有名で、今では日本の洋楽産業トップの人物だ。トップの人間がこんな感覚だ。作り方と売り方を優先し、かんじんの‘ロック’が後回しになった。先鋭なものと商売音楽との格差が広がりすぎて中間層がない日本のロック。中間層こそが文化を創るのに。ロクでもないものをロックと騙して商売するのが行き過ぎたのだ。どうでもいい事だが。

DEATH CAB FOR CUTIEのようなバンドが売れるアメリカのロック文化は中間層の厚さが証明する健全な姿なのだろう。「また青春ロックかな」と聴いたこのバンド。失礼。全く本格的な‘ロックバンド’だった。美メロなんて安っぽい言葉は使いません。‘叙情’です、これは。このバンドの創るメロディ、歌の切実さは心に響くもので、ボーカリストに‘歌いたい必然’を感じます。言葉を大事にしているのは間違いないでしょう。曲もいい。演奏もアレンジも安易じゃなく創意工夫を感じます。繊細かつダイナミック。録音も歌と演奏が混じり合うロックの醍醐味を備え、非のうちようがない。参りました。最高です。

やりたいことを素直にやって、そのままの形で制作された音楽。やる方も聴く方も幸せになれる。売れても売れなくてもいい。個人と音楽が深くつながればいい。ロックが大文字の‘夢’や‘革命’‘変化’の共同幻想を捨て、パーソナルな内面に回帰し、私小説化した物語を歌う誠実さを前面に出したのは、アバンギャルドの果ての必然だった。ティーンエイジファンクラブの『thirteen』(93)はそのファンファーレだったが、しかしその深遠さは最初で最後の頂点でもあった。ティーンエイジ自身がその後、いい作品を創っていない。私小説的モノローグに音楽的完成度を伴わせるのは至難の業で、そのジョージハリスン的‘慈愛ポップ’がジャンルとして定着しつつも、大量低質の世界である事も事実であったか。そんな私の思いこみをDEATH CAB FOR CUTIEは打ち破ってくれた。いや、このバンド、そんな次元のバンドじゃないのかもしれない。もっと違う世界へ創造性を伸張させるかもしれない。

2008.7.21













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CLEAR FRAME    non title

2008-07-17 | 新規投稿

ロルコックスヒル(sax)、チャールズヘイワード(ds)、ヒューホッパー(b)、ゲストのロバートワイアット(cor)というドリームチームのようなプロジェクトだが、実質的にバンドのキーパーソンとなっているのはビブラフォンやスティールパン、パーカッションを担当するオーフィーロビンソンであると感じた。クレジットは全曲が<compositions by>となっているが、恐らく全て即興演奏だと思われる。チェンバーロック系のフォーマットでビブラフォンが重要な働きをするケースは多いが、このプロジェクトに於いては独特のエスニック感覚で処理されている。それがコックスヒルのホーンに象徴される無機質な音響と融合し、独特の‘熱さ’となって聴く者をワクワクさせる。英国即興シーンの新たな地平と言えるであろうか。

ソフトマシーンが初期のサイケロックの物語性から中期以降の演奏至上主義による広大な無意味性へと転身した事は重大な影響力をもったはずだ。その他多くのプログレッシブロックとは異なる器楽主義、演奏の応酬という形式がイギリスでも生まれたのだから。デレクベイリー、エバンパーカーらによるcompanyやジョンスティーブンスのspontinias music ensambleのようなヨーロッパフリーに連なる即興音楽シーンに、ポップ、ロックサイドからの即興の概念が融合された。しかもソフトマシーンがボーカルレスのインストバンドに変化した事はジャズロックという新たなジャンルを開拓しただけでなく、大きな視点で見れば、それは結果的にアメリカジャズへの明確な対抗基軸を形成したという点で重要だったのではないか。ジョンマクラフリンやデイブホランドなどがマイルスデイビスに招集された事を成果とは言うまい。しかしブリティッシュジャズ、ジャズロックがソフトマシーンを大きな幹としながら、ヨーロッパフリーやプログレを巻き込んで、アメリカジャズの膨大な層に対するオリジナリティを確保した事こそが成果であろう。

CLEAR FRAMEに見られるインプロビゼーションはもはや不測の事態ではない。もうこの世界は充分に様式として機能しているし、一つの快楽原則になっている。と言うことは新鮮味には欠けるという事か。いや、私はこれをイギリスのルーツミュージック的快楽の一形態と見る。甚大な影響を受けたはずのアメリカジャズ、そのブラックミュージック要素などを捨象しながら、独自の英国様式を創造した大きな空間に永遠に生じるブルースのようなものだと解している。この即興音楽はある意味、排他的な快楽様式なのだ。ホッパーとヘイワードのリズムの応酬、激闘に感じ入る。深く。

2008.7.17






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EMMYLOU HARRIS 『all I intended to be』

2008-07-15 | 新規投稿

ジョンコルトレーンにとっての『a love supreme』、ビートルズの『sgt pepper’s』、マービンゲイの『what’s going on』、ボブディランの『blood on the tracks』マイルスデイビスの『bitches brew』はそれぞれのキャリアの中で特別な‘空気’を持ったアルバムだと感じる。それは各々の代表作でありながら、それだけが他のアルバムとは違って、どこか別の部屋で鳴っているような異質性があり、ディスコグラフィーの中で浮いた存在である。

同様の作品がエミルーハリスにもあり、私は『red dirt girl』(2000)の神々しいまでの至上性にエミルーの最高傑作的異質性を感じていた。この作品にある独特の空気感は音響処理による作為が深みと夢幻性をもたらせたものである。そして、カントリーミュージック特有のレイドバックした安定感、たおやかな時間の流れを基底としながらも、歌の切実性が苦悩や希求といった独自の緊張感を醸しだし、ダークダイドとの拮抗が計られたアルバムだった。ただ、それは現在から顧みると単なるサウンドプロダクションの成せる業ではなく、楽曲そののもの力とそれを表現したエミルーの精神状態の具現化であったと確信する。様々な要因により『red dirt girl』は良い曲が奇跡的に集中し、楽曲の焦点の集中度による別格的な崇高さを有していた。

エミルーハリスの長期キャリアを保証しているのは彼女の‘絶対ボイス’であろうか。純潔性をイメージさせたクリアーボイスの70年代から老成の深みに至る現在まで、その暖かみのあるピュアな歌声は、ソロやユニット等、あらゆる企画、いかなるフォーマットに於いてもそれら制作の変化に左右される事のないエミルーの揺るぎない個性であっただろう。平坦なリズムアレンジが単調に感じられたマークノップラーとのデュオアルバム『all the road running』(06)も歌声の魅力に引き込まれ、結局はよく聴いたアルバムだった。聴けばすぐエミルーハリスと解る歌。そんな‘絶対ボイス’を持つ歌手である。

新作『all I intended to be』は『red dirt girl』以来の傑作となった。
自然体の楽曲、シンプルなアレンジ。それでいて『red dirt girl』のドラマ性に対抗し得る物語性を持つ作品。エレクトリックギターがアコースティックギターに交わるその一瞬のみで、これ以上ない雄弁な世界が拡がる。シンプルな音響世界と詩的融合感が実現した。
この静的なアンビエンスは喧噪へのアンチテーゼか。
‘静かな生活’への憧憬は混迷するアメリカの人々の共有するテーマとなりつつあるかもしれない。エミルーハリスの私的必然によって生まれ出た歌が、アメリカ人の‘内向き’を喚起する。それは現実への支点を動かし、新たなメンタリティを形成するのだろうか。そんな影響力さえイメージさせるほどのパワーが漲る作品。

2008.7.15

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