満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

MY MORNING JACKET  『AT DAWN』

2007-06-12 | 新規投稿
      
月日の流れはいつも性急だが、私の意識は緩慢だろうか。時は容赦しないが私の白昼夢は止む事がない。それで良い。生活の忙しさに埋没する私は社会性という圧力の元、今日も満員電車に駆け込む。それでも白昼夢は続いている。私は現実時間に逆行する術を身につけている。それは永年の音楽時間によって確実に育ってしまった私の中の病でもあるだろうか。しかし感じるのだがそんなデイドリームは性急な時間軸があってこそ、その快楽度が増すのだ。厳しき日常とやらがあってこそ、夢想の深みは増すのである。

ロックミュージックの聖典、ヴェルベットアンダーグラウンドのファーストアルバムの一曲目「sunday morning」はその後、何十年のロックの<気分>を決定づけてしまった。
誰にでも経験があるだろう。日曜の朝だけ訪れる日溜りの中のぼんやりとした空気の暖かさを。カーテンの隙間から差し込む僅かな光の中で半眠のままの心地よさを。ベッドから半身を起こし、たおやかな時間の中で味わう煙草の旨さを。
無意識と意識的自己がせめぎ合い、行動への意欲とそれを引き留める意識のシーソーゲームが繰り返されるあの時間は日曜の朝にだけ許される快楽の時だった。

しかしヴェルベッツはこの曲を僅か三分で終わらせた。夢は終わる。確実に。
デイドリームから現実へと向かう態度。そして再び夢へ。はたまた現実へと。
これは<堕ちる>と<闘う>を交互に循環させる意識だろうか。そんな繰り返しにこそロックの生命線はあると思う。「sunday morning」の歌の本質はここにあるのではないか。
しかし「sunday morning」にある現実逃避としての側面、その表面的なムードはロックの一つの様式となり、この曲の‘気分’をロックは30年以上、大量生産してきた。

MY MORNING JACKETの『AT DAWN』は「sunday morning」の‘気分’を充満させながらも単なるムードミュージックに陥らない芯の太さを感じさせる音楽だ。いつもCDを貸してくれる廣川君から例によって何の予備知識もなしに借りたこのバンド。まるで風呂場で録音したかのようなエコーのかけ方がすごい。(これはリバーブじゃないね。ピンクフロイドやサードイヤーバンドが使っていたようなアナログエコーマシーンみたいだ)この大仰なエコーが白昼夢に誘い込むのだが、元の楽曲が良いので安っぽい感じがしない。この手のバンドサウンドはソングライティングの良し悪しが運命の別れ目だ。

アルバムタイトルの『AT DAWN』という言葉も違和感なく収まっている。
dawn = 黎明、夜明け前、兆し、薄ら灯。
そのタイトルと等しく、その<ぼんやり指数>は最上位まできている。しかしこのバンド、不思議な骨格感がある。曲に芯の太さが感じられ、重量感があるのが気に入った。全ての曲の作者であるJim James。この人は恐らくサイケデリック等は意識の範疇外で、むしろオールドなロックやR&B、ブルースやカントリーの愛好者ではなかろうか。楽曲にそれを感じるし、発声にも正統的なオールドウェイブへの愛や音楽への堅固な態度を感じさせるものがある。

表現力が追いつかず、想念ばかり先行するチープな惰眠空間はオルタナによくあるけど、MY MORNING JACKETは手練れがやる本物の‘まどろみ’を体現した。すごくいいね。

2007.6.10
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Five Corners Quintet 『CHASIN' THE JAZZ GONE BY』

2007-06-07 | 新規投稿

ロックフリークであった古い友人、林に10年ぶりに街でばったり会った。
嘗ての仲間。関係が自然消滅してからもずっと彼の事は気にしていた。大切な友人だった。同じ意識、悩みを共有していた。何かしらの焦燥感、もがく感覚の日常を共通意識として私達はつき合っていた。そんな彼は私にとって同志であっただろう。ネオアコ、スミス、マンチェスター以降のUKロック全般を愛していた。そんな林は今、意外にもハードバップにはまっているという。

「俺が薦めるジャズとかは全然、見向きもせんかったくせに」
私の嫌みに対し「宮本さんとは好みが違う。50年代がメインやから。アシッドジャズ聴いてたのは過去の汚点」と言い切った。

ビバップからハードバップ、モード、クール等のジャズの様式美はその後のフリーやエレクトリック等よりも、大いなる普遍性を持つ不滅の形、原型質的なものなのだろう。あの型を目指すジャズは今でも掃いて捨てるほど、ある。しかしサマになっているのが少ないのも事実だろう。そして古いジャズには新しいリスナーが途絶えることなく増え続ける。興味深いのはその傾向が本場、アメリカではなく、ヨーロッパや日本において顕著であるという事だ。
北欧フィンランドのTHE FIVE CORNERS QUINTETは‘古き良きジャズ’へのストレートな愛情をてらいもなく表現したグループ。しかしアメリカのいわゆる新伝承派などと呼ばれるジャズ群よりも、幾倍も素晴らしいと感じるのは、そのスタイリッシュさの徹底性故だろうか。このグループはクラバー、DJ達に支持され、人気が拡がっているらしい。しかしクラブジャズなどというと瞬間的に拒否反応を示す私のような偏屈者さえも納得させてしまうその圧倒的な快楽空間がある。なるほどビートはモダンだ。黒人ジャズのポリリズムではない機械的な反復ビート。そのジャストなタイム感のミニマル的高揚感はイージーだがカッコいい。踊れるね。しかも聴ける。白人のウェストコーストジャズが規範になっているのだろう。

制作者が自ら‘レトロな企画’と言うその確信犯な業はその徹底性と完成度でもってプラ
スイメージへと転じている。全く中途半端ではない。マークマーフィーがゲストボーカ
ル。このわざとらしい話題作りも、音楽的な完璧さで結果オーライ。隙が無いね、憎いほど。

ルサンチマンやら郷愁感、攻撃性に満ちた若い頃、そんな不安定な自分の内面を代弁し、違和感を世界へと一緒に対峙させるような共闘仲間としての音楽達が大切なものだった。そこにこそ快楽を見出していた。そんな聴き方をした時期が少なからずあった。しかしそんなある日、B.E.F / Heaven 17を聴いてその軽快さとスタイリッシュな音楽の美しさにクラクラして、重いものが取れたような、アカが落とされたような何とも爽快な気分に包まれた事を憶えている。そのダンスミュージックの知的な様式美は私の感性を拡大したと思う。THE FIVE CORNERS QUINTETはあの時を私に思い出させた音楽だ。

BLUE NOTEのアナログ盤の収集にも熱心な林。THE FIVE CORNERS QUINTETは聴いていないと言う。「いや、本物を聴いているので。そんなんは聴く気がしない。」

私達は近々ゆっくり会う事を約束した。偶然会えたのも何かの縁だろう。あの頃から見れば生活が一変し、一段落ついた私の新たな人つき合いとしての旧友との再会だと信じた。しかし林はその後、連絡をくれない。こっちが電話してもつれない返事。ふられたなと思った。ばったり会った時、子連れだった私を見る林の複雑な表情を思い返す。私の生活はこの10年で変わり、彼は変わっていない。いや、わかるが。しかし。

林の闘いは今も続いていた。スミスやレディオヘッドの延長としてハードバップがあるんだろう。スタイリッシュなものを求める心境とその引力から敢えて離反する心意気が私達にはあったよな。確かに。でも林よ、THE FIVE CORNERS QUINTETにも心意気はあるんだぜ。いっぺん聴いてみろよ。

2007.6.4
 
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フリクション『軋轢』(’80)デジタルリマスター

2007-06-03 | 新規投稿

      
<坂本龍一とダブ>
長い間、複雑な心境から逃れられなかったのは、この傑作がフリクションと坂本龍一の共同製作だったという事だ。私が日本で最も好きなバンドをよりによって最も嫌いなアーティストがプロデュースしていたという事実。長年、このLPを聴いてきて「最高。しかしドラムの音は実際のチコヒゲより軽い。これだけが欠点」という持論を私は坂本龍一起用故のマイナス点と自己納得させていた。坂本が当時、アンディーパートリッジの『take away』に感銘を受け、リズムのダブ処理の感覚を学んだ事も知っていた。(坂本の唯一の傑作『B-2UNIT』はその影響大)ベース音の振幅性やリズムが前面にふわっとせり出す感じは音響効果としてのダブを濃厚に感じさせる。それは生のフリクションの直進性や鋭角さを緩和させ、サウンドを立体的に見せる業のようでもある。坂本は彼のダブ実験をフリクションを素材に試みたと私は感じていた。しかし当時のフリクションのライブを観た限り、既にそのサウンドは極めて立体的な構築性を持っていると感じていた私は『軋轢』におけるスタジオ機器による過度な音響操作は不要という印象があった。器楽パートの分離感が良すぎて音にエッジが失われる臨界点まで来ており、もうちょっと音が混在してもいいと感じられたのだ。
ダブ処理過剰。これが私の『軋轢』の感想であった。そしてそんな音処理の出来の良し悪しをバンドの演奏の突出度が消し去ってしまう事もあるのだという逆説的なプラス面を『軋轢』に感じていた。フリクションの‘熱’はスタジオをはみ出すものだという逆転勝利的な到達感が『軋轢』にあり、私はその点こそを愛していたのだ。しかし・・・


<デジタルリマスター>
LPで持っているものをCDで買い直すという習慣は私にはなかった。いや、今でもない。アホらしいとさえ思っている。(つまらないボーナストラックに釣られて買った後で後悔した事も何度あろうか)しかし『軋轢』だけは、ドラムの音を確かめたいという欲求が抑えられず、リリースされて半年後、ようやく購入したのであった。果たして私の関心事であるドラムの音質は向上し、全体の音像が奥行きを感じられるものに仕上がっていた。リバーブ処理が控えめなのに関わらずある種のライブ感覚、ホール感をも醸し出している点はすごいと感じ、リマスターを担当したHiroshi Shiota氏の腕と見ていいのだろう。
ただ、デジタルリマスターである本作を聴いて感じた事はもっと別のところにあった。それは27年前にもなるオリジナル録音の秀逸さである。つまり坂本龍一の録音の正しさをよりイメージさせたのがこのデジタルリマスター盤CDだったのだ。これは私にとって悔しさを伴う発見と言っても良いだろう。この受け入れざるを得ない点について、語っていこう。

この作品の絶対的な心地よさ。ここには何年たとうが古さを感じさせないリアルな快楽を保持する予感がある。それこそ「100年」たとうとも色褪せない普遍性が確かに『軋轢』にある。今更ながら感じるのは、このアルバムにある現代的な快楽主義であろうか。2007年という今の音楽シーンにあって1980年になかったもの。ヒップホップもハウスもエレクトロもアシッドジャズもドラムンベースもハードコアもグランジも当然、なかった。それらを受容、通過した私達は快楽原則が多様化した今の感性で昨今の全ての音楽を聴く。2007年の耳で1980年の音を聴いているのだ。
しかし『軋轢』は古くない。見事なほどに古くない。むしろ最新の輝きすらある。
デジタルリマスター盤を聴いて再発見したのは、リズムの前面への出具合だったが、それはオリジナルLPもやはり同様だった。つまりこの点での際立った変化はない。器楽パートの音量バランスは今回のリマスターでもオリジナルが踏襲されたのだ。修正されたのは音圧向上による器楽パートの均等なレベルアップ一点だろう。それによって分離感によって損なわれがちな音の衝突によるエネルギー(本来、音が混ざる事で生まれるものだ)が極めて熱く再現できている。こんな演奏だったのだとイメージさせるものに近づいているのではなかろうか。

LP『軋轢』に既に在り、今更ながら実感するのは演奏の熱さよりもむしろ、ビートの電波的、パルス的、信号的な響き方である。それが2007年という現代風の快楽要素にピタっとはまっているのである。
いわばデジタル要素が充満した‘熱’。
『軋轢』が古くならない理由がここにあり、それはオリジナルでの坂本録音の成果だったと私は思い改めている。デジタルリマスターはその事を発見させてくれた。


<1980年のドラムンベース>
一曲目「A-gas」のイントロが始まった瞬間にこのバンドがドラムとベースによるものである事が判明する。私が体験した全てのライブも全てこのドラムンベースを基調とする変わらぬ核が一貫していた。このバンドはいわゆるギターバンドではない。いわばベースバンドなのだ。デジタルリマスター盤の解説は当時のPASSレーベルの後藤美孝氏による貴重な証言になっているが、その中で後藤氏は坂本龍一を起用した経緯と共に坂本が事前にフリクションの練習をスタジオで見学し、機材やスタジオ、エンジニアの手配全てを行った事を証言している。
坂本はフリクションを聴いた瞬間、そのリズムの強さに圧倒されたであろうし、ドラムとベースによるアンサンブルの妙技を感知した筈だ。私が思うにフリクションを録音するにあたってポイントになるのは実はそのリズムアンサンブルを正確、且つ強固に表現する為のギターの処理方法なのだと思う。坂本はそれをすぐ感じたのだろう。ギターをどう扱うか。音量は。音色は、バランスは。混ぜ具合は。それらがポイントだったのではないか。
ロックバンドの定型とも言うべきギターサウンドが占める大きなポジションを坂本は絶妙なバランスで配置し結果、ベース、ドラム、ギターという三つのパートがこれ以上ないという程の精密な正三角形になった。スタジオやライブでのギターのラウドさによって、カムフラージュされるフリクションのドラムンベースサウンドを坂本はグループの最大の美点とみたのだろう。それは正しかった。
そしてそれを坂本に感じさせる楽曲、ある意味、特異なソングライティングをレックが既に行っていたのだろう。ロックンロールの陶酔感があるにはあるが、そんなノリではない。フリクションにはありきたりの曲がない。それはリズムを味わえば解る。定型を感じさせないビートの形。8ビートの中に4ビートがあり、16ビートに2ビートが重なって響いてくる。そんなリズムの快楽がある。ベースラインはブルーノートを逸脱し、フリーキーな独創的なラインが多い。それでいてグループの血肉とも言うべきグルーブはしっかりキープする。レックは明らかに曲を下から作るタイプだろう。ドラム、ベースが先にあり、そこに彼のやりたいポイント、メッセージも思想も全てが入る。歌には言葉があるが、それさえリズムメッセージを補完するような位置なのではないか。フリクションにブルースやソウルがあるとしたらそれは歌メロではなく、リズムにこそ在るのだろう。

<後藤美孝氏>
「フリクションのようなグループの音を録るということに関してのノウハウの蓄積の不在は、演奏内容や音楽性云々以前に作品の表情にある種の限界を強いていた」
PASSレーベル後藤氏のこの回想はグループの1st EP録音の際に痛感した事柄のようだ。フルアルバムの制作にあたり、その反省を踏まえて氏が起用したのが坂本龍一だった。
果たしてそれは結果的にどうでたか。少なくともレック達バンドメンバーは不満や限界を感じながら、最低限の満足度で妥協点を見出したのだろう。私が知る限りレックがインタビュー等で坂本との共同製作に関する回想が皆無なのは、やはり到達点に達し切れなかった何かしらの思いがある事を想像してしまう。(同じくPASSレーベルで坂本プロデュースで『終曲』を制作したPHEW(ヒュー)は「驚きましたよ。仕事の速さとセンスの悪さに」と回想している。かなりボロクソだ。『終曲』は今、聴いても良い曲だが)

しかし『軋轢』によって後藤氏は<作品の表情にある種の限界>をクリアできたと、一つの成果を自負しているようである。
「荒々しいエッジとスピード感がフリクションの持ち味であるとの評を耳にするが、彼等の音楽をよく聴けば、そのような簡単な括りの中に収まる音楽性ばかりではないのがよく解るはずだ。たしかに彼等の演奏は荒々しくはあるが、不思議なことにその高揚感には互いの感情をべたりと重ね合わせることで成立する安易な湿気というものはない。しかもその感覚と感情の絶妙な距離感はざらついたテクスチュアのなかに時として「美しい」と感じさせてしまう瞬間をも用意する。それも「クール」などと簡単に語り済ませないような。」
この後藤氏の分析はフリクションの音楽を言い表す究極の解説のようだ。

私も今になって解る。そしてデジタルリマスター『軋轢』で以前から思っていた抽象的な感覚を整理する事ができた実感がある。
先述した<ビートの電波的、パルス的、信号的な響き方>。それが当時では無意識に受容していた一つの快楽の源だった。エッジの強いラウドロック的な拡散型エネルギーではなく、圧縮された磁場のような感触。磁場がうねり、美しいラインドライブを描くように進行するミニマルビートミュージックが『軋轢』だった。それはドラムンベースの陶酔感覚に通じるだろう。

<軋轢=friction>
演奏者と制作者は違う。演奏者は自己表現の観点、制作者は客観性の観点をそれぞれが持ち、両者は対峙する。フリクションのような前代未聞の音楽グループの録音は困難なものだっただろう。しかし1980年のスタジオではバンドとスタッフが真摯な制作を行ない、当然、そこに軋轢が生まれた。それは必然だっただろう。フリクションは自らのバンド名を宿命に持ったグループだったか。
そう、フリクションは録音以前にそもそも演奏自体が軋轢そのものではないか。
『軋轢』を聴き続けてずっと感じるのは、バンド内の闘争、軋轢であった。レック、チコヒゲ、ツネマツマサトシの三人は互いに向かい合って演奏をしている。よそ見するヒマはない。すぐやられるだろう。緊張感に満ちた三角形の中でインタープレイを繰り広げる。

ツネマツのギターは軋む。レックーチコヒゲという鉄壁のリズムの内側へグリグリと入り込む。ベースが反発し、それを押し返す。両者が絡む。馴れ合わない。限りなく摩擦し合い、そこに火花が散る。フラットなテンポに凹凸が生まれ、そこに隙間が生じる。誰がそこを埋めるか。また闘争が始まる。ツネマツはギターコードを無化し、音塊と化したものをスペースにばらまく。全員が突っ込み始めると自然、音を抑えるセンスも各人に要請され、見えない勝負、批評が始まる。間の取り合い、探り合い。チコヒゲは下から煽る。猛烈にドライブを発し、二人を吹き飛ばす。しかし我慢の沸点を知るコントローラーだ。支配者然としたその包容感は他の二人の逸脱を取り締まる。そのチコヒゲだがサックスを持った時は、遊ぶ遊ぶ。いや、その即興は余裕をかまして二人を油断させる反則技か。
レックのベースの上下感はどうだ。走るときも絶えず先頭だ。電流のようなライン。しかもどこか知らぬ顔風だ。ペースを崩さない。崩されない。ズンドコズンドコ上がったり走ったり、引っ込んだり。サウンドを攪乱し、挑発する。そして負けず嫌いだ。くさい言い方だがガッツがある。この言い方を許してもらおう。そう、根性だ。しかもレックのボイスは一つのリズムパートのように打楽器的だ。すごいグルーブ。しかも言葉の端々に印象深いものがあり、過ぎ去った後で聞きかえしたくなる。

「目玉ん中、目玉ん中、入り込んで。見る物みんな変えちまおう」(「100NEN」)
何?すごい文句。
レックのボイスはどこか異人のような、宇宙人のような。誰かわからない。人が見えてこない。日本人も見えてこない。無国籍で、非=人称的だ。その何者かがシャウトしている。極めて刺激的な言葉を発している。センテンスではなく、単語の組み合わせに面白みがある。

「何が何やら東京ピープル 追いかけたり 追われたり」
「I can tell 俺は言うことできる」
「いつも手探り 足探り」
「下に感じる、スマートでスマート 素晴らしく」
「聴きすぎて見すぎてtoo much 、too much考えすぎてやりすぎてtoo much、 too much」
「空気 air  吸い 込み gas  gas」
「右から左へ 前から後ろへ move move 裏から表へ 上から下へ move move 」

面白い言葉達だ。物語ではないが、意味性を排除しているわけでもない。コンセプト、メッセージらしきものが感じられる。しかし一方通行な感じはない。言葉から受け取るイマジネーションをどうゆう方向にでも拡げられるような許容度がある。断片詩みたいなものか。いや、パロール、発声されて生命を帯びるポエトリーリーディングか。具体詩か。いや、そんなものではない。何物でもない。フリクションだけの言語感覚に満ちた刺激的なビート詩だ。リズム言語だ。そんな言葉の数々もまた、フリクションを構成する器楽パートに対峙し、軋轢を引き起こしている。早口になったり、間延びさせたり、その即興性やビート感に於いて一つの楽器と化している。フリクションというリズムミュージックの構成要素としての言葉であり、ビートに乗る事で生き生きと膨らむマジックのような言葉。フリクションの音楽がイマジネイティブで聴いていて楽しくなる必要不可欠な要素だろう。


<時代を超えて>
日本のロックはいつも外国の後塵を拝してきたと言われてきた。今でもそうだ。「ロッキンオン」などの雑誌はロックは英米のもので、日本も頑張ってるがまだまだと思いこんでいる勘違いジャーナリズムだ。裸のラリーズに勝るサイケデリックロックは外国にはなく、フリクションに勝るリズムの強度を持つロックも外国にはない。ついでに言えば友川かずきに勝るロック詩人も外国にはいない。つまりは世界一である。はい。これらの事実を前提に欧米のロックを語らなければならない。尺度を変えなければならない。

『軋轢』は今では当然の事として日本ロック史上に残る傑作として認識されている。しかしファンは当時からこのアルバムを欧米のロックアルバムより高く位置づけていた筈だ。私はそうだった。今、聴いてもその認識は変わらない。『軋轢』は世界的レベルのアルバムだった。海外で売らない方がおかしいのだ。
1980年前後と言えばトーキングヘッズの『remain in light』、PILの『metal box』、ディスヒートの『deceit』等ロックの重要作品がリリースされた頃だ。それらはロックフィールドに於けるリズム革命としてマサカーの『killing time』、ジェイムスブラッドウルマーの『black rock』等、アメリカのノーウェーブジャズともリンクされ、共通の土壌を創っていただろう。それらのシーンに共鳴するものを有しながら内容で勝っていたのが『軋轢』であったと私は思っている。

フリクションはレック、チコヒゲそれぞれが自らメンバーだったノーウェーブムーブメント(ジェイムスチャンスのコントーションズ、リディアランチのティーンエイジジーザス&ザ・ジャークス、マース、アートリンゼイのD.N.A)出身ではあるが、それらヘタウマ実験派の革新主義に従来の70’sロックプレイヤーの持つテクニックが合わさったものであった。フリクションはノーウェイブ以前にそもそも上手いミュージシャンだったと言うことを忘れてはならないだろう。(ノーウェーブのアンチグルーブとフリクションの怒濤のグルーブの差は際立つ相違点だ)
「アート(リンゼイ)にはギターのチューニングを教えてあげた」というレックの発言をずっと以前、読んだ記憶がある。いわばプロとアマ程の差が歴然としながらもレックはアートリンゼイ達の斬新な発想、自由度に感化され、自分の持つビートテクニックにそれらをミックスする形で最強のロック創造へ向かった。

そしてレックの中にあった開放的感覚は当時のイギリスニューウェーブの世紀末意識過剰な<暗さ>や、ニューヨークパンクの<文学性>よりもノーウェーブ、若しくはビルラズウェル(マテリアル、マサカー)、アントンフィアー(ゴールデンパロミノス)、オーネットコールマンのプライムタイム、ウルマーやジャマラディーンタクマ、ラウンジリザーズ、ジョーボウイ、コーネルロチェスター、キップハンラハン等の感性に近いものがあったのではないか。それらはロックやジャズの60年代文化的イデオロギーを脱した表現であり、音楽行為の意味性を無化する意識によって音の純化を快楽主義によって引き起こした新種であった。音楽にまつわる概念などの余剰を排したいわば、音への純正フェティシズムの持ち主達であったと思う。フリクションのアンチ夢想的感覚(=現実主義感覚)はこれらのアーティストの性格に極めて近いものを感じる。
ジャズの新しい流れを含むノージャンルのグルーブ革命の中にフリクションがあり、しかも後にソニックユースに先導されるノイジービートにも先行していた。ツネマツマサトシの無調ノイズギターはレックのアイデアによるものだが、それがヒゲとレックによるグルーブビートの上に乗っかっている事で唯一性を誇る。この感覚はアメリカにはないものだった。ソニックユースのビートはニューウェーブを脱していない。そこにはフリクションのような味わい深いロール(オールドウェーブ特有の)がない。この差は大きいと私は感じている。

<日本的なるものの断絶と創造>
更にフリクションが突出していると感じられるのは情緒の断ち具合を徹底させながら、それを生命感溢れるグルーブビートと両立させた事だ。(この感覚は後年、ボアダムズに継承された)感情的、人間的なるものの単なる断絶、断列を意図したノイズではなく、身体性を含む形で演り手と聴き手の相互間を断ち切らずに表現し得ている点が素晴らしいのだ。
フリクションの音楽はデビュー当時、突然変異のように感じられた。そもそも英米のパンクはブルースやロックンロールの要素、いわば濃厚な人間的要素と言ったものが希薄であり、それこそがニューウェーブと呼ばれる様式の特徴でもあった訳だが、フリクションの場合は希薄どころか、それがすっぱりとそぎ落とされていたのであった。より徹底されていた。しかもそんなグループが日本から出てきたのであるから、突然変異と感じられても何ら不思議でないだろう。

情緒に収斂される日本音楽の基本の形、ロックだろうが、現代音楽だろうがま逃れ得ない、その湿り具合はポストモダンやテクノでさえ、日本人の表現の特質にある。(問題の本質は情緒、その存在にあるのではなく、むしろその強化を怠り、半端な形で残したり、消去したつもりになって自己満足したものが多い事であるが。)

歌謡曲の源流の一つに朝鮮半島経由の<恨(ハン)>の芸能があるとすれば、その感情の量、怨念、湿っぽさ、喜怒哀楽の表現は日本音楽の基底を成す要素であろう。欧米音楽を日本人が愛好する時、それらを感じさせない中和された感覚に触覚が反応するケースが多い。洋楽にかぶれた私自身がずっとそうだった。洋楽ファンは日本語の歌詞がない事で感情移入を回避させる事が音楽享受の快楽の前提になっていたのだ。知らず知らずのうちに。
しかし欧米のロックとて実はブルースという絶対要素を基礎にしている以上、その感触の違いはあれど、濃厚な人間の血、心、感情を表現するものである事も自明である。ソウルやジャズもしかりだ。という事は私達、洋楽ファンは自らのルーツの血や感情に対峙する事を避けながら、外国人の血や感情の表現に疑似同化しているのか。いや、今は話を発展させないでおこう。(しかも今の私は洋楽ファンではない)

フリクションの『軋轢』にある情緒的なるものの断絶の感覚。大げさに言えばその反歴史主義的なものはどのように生じたのか。私はそれを日本人だからこそできた徹底性だと感じる。そんな逆説的なものを感じる。
いわばフリクションは<恨(ハン)>に対する<恨(ハン)>なのだ。
レックがしばしばインタビューで日本、日本人に関する発言があるのを私達は知っている。日本的不自由、束縛感、因習、直接的表現の欠如、個人の未確立などについてレックは常にさりげなくだが、違和感を表明していた。多分、それらを憎んでさえいただろう。嘗て1年住んだニューヨークから東京に戻った時に感じた恐怖感、その逆カルチャーショックについても最近のインタビューに書かれてあった。
レックは自らの日本人というルーツ、血さえ消し去ろうとする程のエネルギーを表現に注いだのではないか。結果、個人主義が成熟しポストモダンという空間に於けるドライな心地よさが蔓延する欧米の芸能よりも幾倍もの密度を持って、徹底した金属物質的質感を持ったロックを創造した。甘い人間性や弱さそのものを抽出する形態ではなく個が厳しく屹立するような音楽。それでいて先述したように魂が鼓動し流動するようなうねり、グルーブビートを有し、それらを両立させる希有の音楽性を実現させた。

そしてそこに私は日本人故の合理性に収まりきれない要素、いわば<間>や<息使い>を表現の土台に置いた構築性の最たるものを見る。つまり西欧合理主義の産物である無機質性ではなく、それらをも内含した大きな<無>に近い生命力を。フリクションは情緒を排し、日本を消去したが、その徹底ぶりが逆に日本的なるものを育てたと映る。

*****

「ロックとはつまるところ文学だった。音楽や音ではない。」という阿木譲の最近の発言を読んだ。(そう言えば初期ロックマガジンでも阿木譲は<プラスティック>という言葉で、ロックの脱物語性を論じ、闘っていた事も思い出す。)
確かにそうだ。ロックは表現者の内面世界、思想、言語表現、形而上学的感性に収まる表現形態だ。そこには欧米も日本も変わらないものが横たわっている。
フリクションが1980年という年代で早くも突き破っていたのは、正にこの壁だったのだ。
形而上的世界よりも直接快楽、思惟よりも全身の(下半身とは言うまい)ビート=生命観こそがフリクションの核だっただろう。

そしてフリクション=レックは意識的に白黒という分かり易さ、決着をつけるという思想を我が身に持ち、曖昧さへの闘いを行っていたのだろう。その意味でこの『軋轢』は同時代に現れたストラングラーズの『black and white』よりもその白黒度に於いて上だったと確信する。
あらゆるカラーを裡に含みながら、徹底したモノクロームな世界を実現させたフリクションの『軋轢』。
正しく世紀の傑作である。
2007.5.15











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『AUGUST BORN』 /  AUGUST BORN

2007-06-02 | 新規投稿

AUGUST BORNを聴いて咄嗟に思い出した事がある。
灰野敬二がインタビューでシドバレットが好きな理由を「部屋で流していて悪くないから」と答えていた事だ。それはだいぶ前(26年位前)の雑誌の記事だった。そんな昔の事が急に記憶として甦るのは不思議な事だ。多分、間違いないと思う。
<部屋で流していて悪くない>とは微妙な表現だ。積極的に聴くという行為やそこから得られる濃厚な快楽から離れているようで、しかし何物にも代え難い心地よさがあるという強い肯定の感覚もある。
私はAUGUST BORNからそんな実感を得た。正に<部屋で流していて悪くない>という感じだ。そしてこれは極上でもある。こんな音楽は滅多にない。
イーノの環境音楽のような微音スタティックな空間でもなく、ヒーリングミュージック等と称されるわざとらしく高圧的なものでもない。(あの手の押しつけがましさは処置ないね)いわばAUGUST BORNは私にとって本物の<癒し>の音楽なのだと感じた。

AUGUST BORN はベンチャスニー(Ben Chasny)と臼井弘行の二人によるユニットである。臼井弘行とは灰野敬二 / 不失者の元ドラマーであり、その後は歌、ギター、ディジリドウ等によるソロとなり、独自のサイケデリアを紡ぎ出す孤高のアーティストとなったようだ。その作品『holly letters』(92)を私は聴いていないが、ベンチャスニーがこれを聴いて感化され、臼井やP.S.Fレーベルのアーティスト(友川かずき、三上寛、灰野敬二など)の熱狂的なファンとなり、その臼井弘行と運命的な遭遇を果したのがこのAUGUST BORNである。ベンはsix organs of admittanceのリーダー。『school of flowers』(2005)という傑作がある。(これは最高だ)

二人の奏でるアコースティックギターの流麗な響き。もはやサイケデリックフォーク、フリーフォークという呼称すら、どこか遠いものに感じる。弦の音が全て鮮明に聞こえる。ムーディにダラダラ弾いてそれらしく見せる多くのサイケフォークとは訳が違う。この二人、表現の奥底まで辿って行っている。ダークな闇の中にキラっと光る光明が射し、少しずつ拡がっていく。神秘や精神世界を表す一種、高踏的な匂いを醸し出しながらも、自然に耳をそばだてたり、身を任す事のできるサウンド。臼井のまるで唱名のような歌声。この催眠効果はある意味、危ない世界だが、もう音楽的気持ちよさが勝ってしまい、私の心身は引き込まれ、そして離れる。確かに洗われる。すごく落ち着いた心情になる。私は音楽の力をここにも見つけたと思う。

曲名や英詞を見ると鳥の死に関するストーリーを持つコンセプトアルバムのようであるが、物語を象徴的に捉え、一つの世界観を体現している。無常観やわびさび、そして生命意識を簡潔な音で描ききっており、もはや雄弁な言葉や思惟、宗教の説法が無効になる。音楽の先端はいつでも時代精神や新たな思想潮流を導いてきた。それを感覚的にキャッチし次代への先導を果してきた。それも極めて無意識に。言葉の世界はそれを後から追いかけてきたのだ。
AUGUST BORNにある世界を私は人間に必要なある基底、一部分であると直感する。
<癒し>が個に留まらず、そこから一本ずつの小さな枝分かれによって無数の<癒し>へと発展する可能性を帯びた音楽の力。それが本物のサイケデリックだろう。嘗て究極のサイケを体現しながら個の狂気に陥ったシドバレットを超えうる音楽がAUGUST BORNにあると感じる。

 



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