満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

木村文彦 遺響の世界 1 「クロッシング」 KIMURA FUMIHIKO -crossing-

2013-11-28 | 祝!ブログ開設
 


<木村ですねん>というタイトルのブログを突然、止めた理由は、「ブログを書いてもらっていた人が忙しくなってきたので悪いと思って」のことだと言う。ライブ告知やその簡単な感想などを書くだけのものすごくシンプルなブログだったので、自分でやっているのかと思いきや、やはり誰かに頼んで作ってもらっていたのであった。「じゃあフェイスブックやったらどうですか」と言うと「やってます。宮本さんやってるんですか?」と言う。お互いがフェイスブックやってる事を私たちはお互い知らなかった。「じゃあ友達申請しときます」「はいお願いします」と言ってその晩、見るともう友達つながりがされていた。ここまでくるともうボケでは済まされない。もっとも木村氏のフェイスブックは開けるとそこには他人がタグ付けした写真があれこれ載ってるだけで本人はろくすっぽ何も書きこんでいない。軽く私以下だ。かくゆう私も家内にフォーマットを作ってもらった<時弦プロダクション>というホームページを作成しているが、そのシンプルすぎる理由は、これ以上のやり方が解らないからである。アルバムジャケットをクリックするとその内容が現れるようにしたいと思っているのだが、やり方が分らないので放置しているのである。思えばこのブログも廣川君に作ってもらった事を思えば、たぶん私はこのようなツールを使いこなすことが本来的に苦手でそれは木村文彦にも充分、当てはまるようだ。アナログ人間は自然淘汰を待つべきなのか。

「ライブ最近少ないんでとりあえずブログはいいです」という木村文彦は最近、自宅録音を活発化している。その一つである「クロッシング」と題されたこの音源に私はこれまでの木村氏の演奏とは何か違うものを見つけ、木村氏の要望もあって、自分で撮影、編集した抽象的な映像をミックスしYOUTUBEにアップし、木村氏はこれを新作と位置付けた。
「クロッシング」は「キリーク」(Jigen-007 2012)以来の新しい境地であり、それはある意味、その間、行ってきた数多いライブによって導き出された新しい演奏の語法でもあり、そこからさえも抜く出るような新しい場所であるだろう。セットを変え、ハコによっては音響に注意を払いつつも、木村氏が一貫させてきたものはプリミティブな世界だったと思う。その原始的とも言える肉体的なものへの信仰が木村文彦をして存在を際立たせ、方法論の新旧を無効にするかのような確信的な音楽世界を作り上げてきた。何かの情報、周りの環境、今の潮流、あるいは未来や過去といった視点、そのようないわば自分の肉体の外に在る様々な媒体は木村氏の演奏意識に希薄であり、ある意味、表したいものという前提的なコンセプトを念頭に置かない、自然発生的な身体の動きに結果を委ねる意識の表れが大きかったと思う。「クロッシング」の新しさはまずコンパクトな形だろう。そして低音に響く疾走感と音数、使用楽器のミニマムな世界である。この事によって、今までは各種さまざまな楽器やモノを所狭しと並べていた木村文彦がこれは以降のソロライブにおいて、きっとシンプルなセットでも充分に表現世界を確立できる契機となるに違いない事を想起させるのである。「クロッシング」を<遺響の世界>というシリーズの第一弾とした木村文彦。私はそれをフェイスブックに載せるように進言したが、「僕のフェイスブッなんか誰も見ないですよ」と言って私が載せたものにコメントを寄せた。曰く「クロッシング ご覧いただきありがとうございます。 お聴きになる際は 是非ヘッドホンをお使い下さいませ。  キムラ」という事である。自分のページにもシェアすれば良いのに、それをせず、私のページ上だけでコメントし、皆さんに訴えている。このイレギュラーな感じはなんのこっちゃという感じである。




三回目となった私と木村氏のDUOによって私はこのユニットを継続的に発展させたいと思うまでになってきた。木村氏も手ごたえを感じているらしく、VI-CODEのようなPAがしっかりしたハコはやはり、それなりの充実感があった。私は曲までいかなくてもリフのパターンやユニゾン的なものを交えてやりたいと少し考えているが、それは今後の流れにまかせようと思っている。
 
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            KING KRULE    『6 Feet Beneath The Moon』

2013-11-18 | 新規投稿
 

「ダブっぽいです」とCDを貸してくれたのは廣川君。たいして期待もせず、何の予備知識もなく聴くとそこに驚きのサウンドがあった。ニックケイブ、トムウェイツのような野太い声。語りかけるようなポエトリーリーディング的な歌い方、あるいは原曲のメロディの輪郭を想像させるような崩したような歌い方はディランのようでもある。そして深遠なサウンドプロダクションの妙。ダブ的だがフォーキーでジャジーですらある。聴き終わってからYOUTUBEなど検索すると、そばかす顔の痩せっぽちの白人だった。しかし引き籠りのようなその相貌と相反するようなKING KRULEのボイスの確信性は本物の匂いがする。どんなアーティストに影響を受けたかは知らない。もうそんな情報は要らない。ただ、感じるのはKING KRULEの意識下にある伝統継承の感覚だろうか。様式美ではない精神的な継承というか。個性的である事と伝統的である事は矛盾しない。逆にこれくらい個性的でなければ個性などと言うべきでない。まだたいした世界観もなく自己確立もおぼつかない蒼白いイギリス人による内的発露な音楽世界。プロフィール見たら19歳だった。30歳以上くらいの声だと思った。ひたすらパーソナルだが、それが普遍性を帯びてしまうこともある。いわゆる‘いまどきのカッコイイ’サウンドの範疇にも‘入ってしまっている’のでi-podで聞き流せるようなアシッド的快楽志向という外郭に覆われているが、その核心はハイレヴェルな歌世界そのものだと感じる。何を歌っているか知らないが、詩人の様相である事はそのボイスで分るだろう。

2013.11.18

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宮本隆 の11月ライブ予定

2013-11-05 | 新規投稿
improvisation session 山本 公成(sax) 石上 和也 (guitar) かつふじ たまこ (pianika etc) Fantome (laptop) 宮本隆 (bass)


 
11月22日(金)

vi-code(大阪中津)
18:30開場 19:00開演
1500円(1ドリンク込)

木村文彦(Perc)&宮本隆(Ba/a.k.a.時弦旅団)
山県源内 [Performance] 深海魚くん [DJ] スミダトモヨシ(a.k.a.psybava) {SHOP] トアル食堂(FOOD)/バアルカリー(FOOD)



11月26日(火) 

ユノ・デラ・イヴ Vol.4 @油野美術館(大阪)
18:30開場 19:00開演
1500円(1ドリンク込)

山内 桂 (サックス)
石上 和也 (ラップトップ 電子楽器)+ かつふじ たまこ (鍵盤ハーモニカ 音具 etc)
宮本隆(Bass/a.k.a.時弦旅団)+ 向井千惠(胡弓er-hu, voice,etc)

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The Wayne Shorter Quartet 『without a net』

2013-11-01 | 新規投稿

 
昔、中上健次の『破壊せよとアイラーは言った』を読んでつまらないと感じたのは私が‘秩序派’だったと言うよりは作家自身の‘破滅ぶり’や‘破天荒’をだらだら書きなぐるその文体に全く共感できず、どうせだったらセリーヌや太宰のように‘破滅ぶり’を文学に昇華させればいいのにと生意気にも感じた私の嫌悪感によるものだったと思う。しかもアルバートアイラーのレコードを初めて聴いてその‘統制されたカオスの美しさ’に感動するに及び私は「このミュージシャンは‘破壊せよ’なんて言ってへんやないか」と感じた事を記憶している。そんな事を最近、思い出したのは毒舌で人気の作家(哲学者)、適菜収が『B層の研究』の中で、フリージャズの破壊の無意味さを『破壊せよとアイラーは言った』を絡めながら記述しているのを見つけたからであるが、デレクベイリーを持ち上げながら<破壊が‘自由’をもたらすというのは愚かなオプティミズムにすぎません。それどころか破壊はたいていの場合、非常につまらない結果に終わる。近藤等則や阿部薫の底の浅さは、そこに由来すると思います>と断定している。阿部薫の中にも‘歌’を感じ、近藤等則の中に‘ポップ’を感じる私としては安直な物言いだと感じる部分もあるが、言いたい事の核心についての異議はない。

<破壊>は行為であって<結果>ではない。束縛からの解放や自由という概念的なものが実感として音楽による一つの成果だと感じたいのであれば、それを可能にするのは<破壊>の当事者になるか、その行為に自らも‘参加する’瞬間においてのみだろう。その<自由>は一時的なものだし、行為によって<もたらされたもの>という鑑賞の対象としての音楽ではなくなってしまう。音楽は発せられた時点で演奏者の手を離れ自立する。そこに普遍的か否かという価値を持たせる気があるのであれば、それは少なくとも<破壊>に終始するものによっては、それが可能だとは思わない。

‘フリージャズを完全に無視したマイルスデイビスは大人の見識を示した’なる文で、その項を締めた保守主義者、適菜収はその社会や政治分野での‘改革嫌い’‘革新嫌い’を音楽上での小さな出来事をも引用する事で、その主張を補完したのであるが、声高々に改革や維新を叫ぶ馬鹿政治家と情念を振り絞って激越にハチャメチャ演奏に終始するフリージャズ演奏家を<破壊>という同じ愚行を繰り返す共通のものとしてオーバーラップさせたのだろう。

ただし、<自由>というのは確かにジャズにとって一つの命題ではあっただろうとは思う。
即興とは楽理の制約からの自由の行為であり、場合によってはその延長線上に形而上学的な自由を想定する無理矢理な試みもあるだろう。実際、演奏家が自らそのような‘精神的’や‘社会的な’<自由>という大文字のテーマに言及する場合もままある。適菜収なら‘そんな大層なお題目をのたまっている奴ほど<自由>を獲得していない’ってな事になるのかもしれないが。ウェインショーター、マイルスデイビス、ポールモチアン、菊池雅章といった私のフェイバリットは<破壊>ではない言わばリフォーム的解体と再建築による<自由>獲得の道程を切り開いた演奏家と言えようか。

ウェインショーターの『without a net』はDanilo Perez(p)、John Patitucci(b)、Brian Blade(ds)という不動のメンバーを従えたカルテットの新譜。『Footprints Live』(2002)以来、ジャズの未来性を提示してきたように感じられる本家メインストリームジャズの重鎮による創造的ライブ音源である。その音の硬さ、演奏の脅威感覚はジャズフォーマットという古色蒼然とした制約下でいかに自由に演奏するかという狭い門を果敢に潜り抜ける稀有な証明であるかのようだ。テーマからフリーという場面転換のリピートもなければ、完全即興の無秩序もない。あるいはコンポージングによる違和感創出という飛び道具もない。ここまで自然にジャズ本来の生命力を完備したまま、自由度を保ち、鑑賞に耐えうる演奏を残すのはもはや、演奏力の優越という一言ですんでしまう奇跡的なグループだろう。逆にいえばこの形、この方法でしか未来のアコースティックジャズは道がないということか。すごく狭い険しい道である。

2013.11.1

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