満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Miles Davis Quintet『live in Rome&Copenhagen1969』

2010-04-29 | 新規投稿


確かマイルスデイビスがツアーにガールフレンドやワイフを同伴する事をメンバーに禁じたといった内容がその自叙伝にあった。もっとも‘俺だけはいいのだ’とも書いてあったと記憶するが。そしてちょっと面白かったのは‘ジャックの野郎はワイフを客席に見つけると途端にカッコつけたりして演奏がダメになる云々・・・・・’と書いていた事だ。ジャックディジョネットと言えば激越さと整然としたスタイルを兼ね備えた最も理知的なタイプのドラマーと認識していただけにマイルスが彼をまるで子供扱いするかのように俎上に載せている事に意外な印象を受けた。

マイルスグループを離れて以降のディジョネットが積み上げたキャリアは知的なクールネスを伴った重量級のドラマーとしてナンバーワンの地位をもたらし、更にその存在は楽理に通じた作曲家、芸術家としての権威すら感じさせるほどの巨匠であり、ジャズ界に於ける別格の存在である事は間違いない。しかしECMでの諸音源からイメージされるその完成度に畏敬の念を抱かされていた私のジャックディジョネットに対するある種‘威厳’がマイルスの一言で崩れ去った。そしてその自叙伝と同時期にリリースされたマイルスのブートレッグLP二枚組『double image』(90)でのディジョネットによるけたたましく凶暴なドラム音は、無秩序なポリリズムを感覚に任せて演奏する動性の発見でもあっただろう。惜しまれながら消滅した黄金の60年代クインテットの次なるニュークインテットに招聘されたディジョネットのラウドなドラムはクイントット単体でのスタジオレコーディングに至らず、『in a silent way』(69)に於けるトニーウィリアムスの呼び戻しや『bitches brew』(69)に於ける複数のドラマーの並行起用という、非―正規な一時的措置という事態に及ぶ要因だったのか。確かにニュークインテットによるもはや‘アンチグルーブ’とも受け取れるリズムの蛇行感覚やゴツゴツした感触、また、主にチックコリアとディジョネットによる空間を切り裂くような実験的音響は以前のマイルスのアルバムにあった洗練度から遠く離れた反商業主義的な未完成的音像に満ちていたかもしれない。

私は『double image』を聴いた時、そのギクシャクドッタンバッタンと鳴り響くけたたましいドラム音の野暮ったさに覆われたバンド全体の演奏に単なる非正規アルバムとしての例外性のみを感じ取っていたのは事実である。『Miles at Fillmore』(70)での流麗なグルーブに溢れた正規ライブアルバムとの対照は明らかで、そこには本来、テオマセロの編集いかんで高度な娯楽作品と化すマイルスデイビスのとりとめない演奏が、しかしこればかりはそんなマジックが通用しない無碍なレア性に支配された一発ドキュメンタリーとしての性質こそを確信していた。その意味で『double image』に類似するのは『black beauty』(70)(日本のみの発売で無編集のライブアルバムだった)だろう。

『double image』のリリース(90年)は私がマイルスの70年代作品を熱狂的に愛好していた時期が過ぎた頃であった。私が自分の醒めた感覚とは裏腹にこのアルバムがニュークインテットによる唯一のアルバムであるという希少価値に気つくのはうかつにも『1969 Miles festiva de juan pins』(93)がリリースされた時であった。‘衝撃の未発表ライブ’と帯に書かれたこのCDはマイルス、ウェインショーター、ジャックディジョネット、デイブホランド、チックコリアという『double image』の時のメンバーによるその5ヵ月前のライブ音源であり、最初に聴いた時のショックはマイルスの70年代音源を飽きるほど聴き、もう大体、そのビジョンを把握し尽くしたと感じていた当時の私に別のショックをもたらした。今から思うにそれは90年と93年という時期の間隔がもたらす微妙な感想の相違だったような気もする。つまり、90年代音楽の顕著な傾向であろうグルーブという快楽要素を私が精査しながら取捨選択し、好きになっていったのが、ちょうど93年ごろであった。クラブミュージックに端を発する‘レアグルーヴ’などはその‘滑らか過ぎる’音の感触が最後まで好きになれなかったが、ジャズファンクの延長としてミニマルなビートものに一部、感覚的にフィットするものがあり、自分の中で新たな快楽を得た思いがあったのだ。

しかし、『1969Miles festiva de juan pins』はそんな私の‘ナウな先端感覚’をまたしても破壊し、揺り戻すような快楽要素として現れた。そのゴツゴツとした感触、ストップ&ゴーを多用し、リズムが上下左右に飛び散る様な‘蛇行感覚’はグルーブとアンチグルーブの混合であり、ビートに身を委ねる感覚以上の何か‘全―身体的’なリズムそのものだと感じ、そこに深みを感じざるを得ない濃い快楽がある。それは律動であり、ハート(心)をもグルーブさせる、ある‘鼓動’であるという実感があった。

『double image』と『1969Miles festiva de juan pins』は共にマイルス、ショーター、チックコリア、デイブホランド、ジャックディジョネトによるツアーの記録である。この通称‘ロストクインテット’の特徴はパーカッションが不在である点だが、『bitches brew』を基点とするいわゆる70年代エレクトリックマイルスがパーカッションや各種、民族楽器を導入しながらグルーブの実験を遂行した事を思えば、このクインテットの段階ではまだ、マイルス自身にジャズのフォーマットにおける音楽性の範疇を飛び出す考えがなかったようにも感じる。

ジミヘン、スライに感化された当時のマイルスがジャズの電気化とリズムを16に変容させる試みを模索する中で、複数の打楽器を配置しリズムを重層化させる事で‘現在的なグルーヴ’にも通じる音楽性を獲得するのはもう少しだけ時間を要する。従ってここで聴かれるのは、その狭間に生じた‘ヘヴィジャズ’とでも言うべき音楽性である。それは縦に振りおろすように刻まれるジャックディジョネットのドラミングに象徴されるグルーヴを遮断しながら進行するいわば怒涛のドライブミュージックである。

今回リリースされた『live in Rome & Copenhagen 1969』はその‘ロストクインテット’によるヨーロッパツアーの新たな音源だ。今とは別人のようなチックコリアの神秘的な演奏もこのグループの単純ではないグルーヴの創造に貢献しているだろう。そしてディジョネットの暴走機関車のようなドラムが気持ちいい。以前、近藤等則がエッセー(チベタンシンバルについてのものだったと記憶する)の中で‘けたたましい’という言葉を‘蹴た魂’とで書いていたのを読んだ事があるが、この打音の凄まじさはまさに眠れる魂を蹴り起こすような驚愕音と言ってもいいだろう。横で演奏する者はさぞかしうるさいだろうなあと想像する。
マイルスが60年代クインテットを解消して組織した‘ロストクインテット’。正規のアルバムを一枚も残さなかったこのグループのラウドネスは当時、屋外化したロックに呼応するべくジャズの拡大化の試みでもあったはずだ。マイルスのdirection(方向性)は音楽の電気的増幅という時代変化への措置でもあり、それと同時にブラックミュージックのリズムグルーブの先鋭化を両立させようとした大胆なテストでもあった。それは図らずも、音塊が電気と肉体、あるいはグルーブとアンチグルーブというそれぞれの狭間の中で軋むように破裂する個性的な音楽性を生んだ。その独自性は今、新たな解釈を与えられてしかるべきだろう。それは‘最新’へのヒントにもつながる要素をもつものと私にはイメージできる。
フリージャズとエレクトロニカを混ぜ合わせてポストプロダクションするようなトータス等のシカゴ音響派を‘にせもの’と断定するのは勇気が要る事かもしれないが(私はその誘惑を断ち切れない)、この時期のマイルスの演奏の‘聴きずらさ’と‘壮大さ’から比べるといかに現在の先端シーンが‘主題の喪失’を放置しながら、音響と戯れているかが一目瞭然となる思いがするのである。

例によってアルバムジャケットはヨーロッパツアーの写真ではなく、これは当時、出演して話題を呼んだワイト島ロックフェスティバルでのものだ。年代は一致しているので今回は許しておこう。しかしインナージャケのデイブホランドはおじいさんになった最近の写真だ。若いショーター、コリア、ディジョネットの中で浮いている。毎度のことだ。

2010.4.28









コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

           AUTECHRE 『oversteps』

2010-04-13 | 新規投稿


オウテカ待望の新作である『oversteps』の静的なエレクトロニカは前作『quaristice』(当ブログ2008.4.19参照)でのアンビエント要素を拡大させたものというのが当初の感想であった。が、何度も聴くにつれ、別の位相が浮かび上がる。ダンスに対置するアンビエントという単純な図式化を避けながら両者を混在させてきたオウテカはずっと以前から‘ノイズアンビエント’とでも言うべき静謐なビートミュージックと複雑にうねる様なダンスチューンによる対比の世界を創造してきた事にはたと気つく。だから一見、ダウンテンポなアンビエントトラックをアルバムに挿入したからと言って、それを何かの本質的変化と捉える事は間違いだった。しかし今作の音のシンプルな研ぎ澄まされ方は、今までの作品の情報量の多さを一掃するかのようなカラーレスな作風である事は確かだろう。

『oversteps』にあるシンプルな音、その音数も音色も極めて抑制された‘削除の感覚’にオウテカの新境地を見る。私はそれをベテランの域に達したオウテカの‘成熟’と単純に指摘したい誘惑にも駆られるが、多くの人はもっとその‘進化’の謎に意味を求めるのかもしれない。いや、確かにラジカルな精神、革新の意識は健在なのだろうが、今作に感じるのはそれとは別の領域である。それは今作ほどオウテカのデュオ性を感じるものは嘗てなかったという感想である。それは音の感触が従来のリズムマシーンとサンプラーを基軸にしたものから、明確なラップトップミュージックに移行したかのようなデータ感覚に満ちたものである事からも導かれる感想である。ただ、データ感覚と言っても、それがワンマンなプログラム作業による表出ではなく、言わばコンピューターによるセッションのような感覚であり、コンピューターを楽器に見立てたような二人の‘ミュージシャン’によるジャムのような音の様相を見せているのだ。従って練りこまれているのだろうが、どこか放置的で偶発的な‘演奏’によるサウンドがきこえてくる。今回のオウテカ作品ほど、二人の人間が見えてくる音楽はなかった。私は敢えて情報を遮断して(インタビューや他人の評など読まず)本稿を書いているので、制作過程は分からない。もしかしたらデータ交換やファイリングの構築による交換的共同作業が主だったかもしれない。しかし結果的に私には『oversteps』にエレクトロニカの範疇に於ける稀にみるフリーインプロバイズミュージックのような感覚が想起された。或いは作曲された楽曲を向き合って合奏するデュオの姿である。そんなリアルタイムな演奏が基軸となった楽器音の衝突がここには濃厚にきこえる。全体を覆う音色や音数のシンプルさ、あるいは音と音の間のスペースの正体は果たしてAUTECHREという脱意味性に綾どられた非人称な創作チームがそのチーム名から離れ、ショーンブース&ロブブラウンという実体を前面に押し出した合同演奏の記録集であった。

私は最近、『マイルスの夏、1969』(中山康樹著)という新刊本の中にマイルスデイビスが68年から75年(いわゆるエレクトリックマイルス期)にかけて制作した驚異の作品群はマイルスデイビスがスタジオを自由に使えるという境遇抜きには生まれなかったという記述を読んだ。つまり、アルバム発売を目的とする必要のないセッションを自由に連続的に行えた事による蓄積が結果、膨大な演奏記録として残り、『in a silent way』(69)以降、アルバム化した音源は全て、テオマセロがその長大な記録テープを切った貼ったの縮小編集を施した産物であったのだ。そしてそのスタジオを自由に使う権利はテオマセロがサイモンとガーファンクルのアルバム制作を手掛けたヒットによって得たものであり、それをマイルスが無尽に使ったという事だ。マイルスはスタジオを私物化し、ミュージシャンを贅沢に招聘しながら、連日、何時間もの実験的ジャムセッションを繰り広げた。その放流される音楽の海原を作品化したのがテオマセロだったのだ。

『oversteps』はオウテカではなく、ショーンブース&ロブブラウン名義が相応しい。ここにはファイリングされた二人によるエレクトリックミュージックの膨大なセッションをまとめ上げたピンポイントな音像がある。全くブレない一つの様式美の形とでも言うべきデュオミュージックが奏でられる。それはまるでマイルスデイビスの無尽蔵な即興の演奏記録の中から僅かな煌めきを一つ一つ拾い出したテオマセロのような嗅覚溢れる作業に似た深遠な営みによるものだ。
全く美しい音楽である『oversteps』。二人の気の遠くなりそうな共同作業、そのアナログな力感に感動を覚える。

2010.4.12


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

TIME STRINGS TRAVELLERS(時弦旅団) ライブのお知らせ

2010-04-10 | 新規投稿

TIME STRINGS TRAVELLERS(時弦旅団) LIVE!
場所:NU-THINGS JAJOUKA(大阪心斎橋)
時間:19:00開場  19:30開演
チャージ:2000円(1drink)
共演:未定
http://nu-things.com/top/index.html

リニューアルされたNU-THINGS でのライブが4月26日に決定しました。
先日、内装中のところを伺い、どんなスペースになるのか楽しみにしていたのですが、やはり、前の本町のお店同様、その独特のムードは健在で従来のライブハウスやジャズクラブとはそのセンスに於いても一線を画すお店となっています。オーナーの阿木氏から提案を受けた定期イベントも今、思案中。その詳細は後日、企画、日程が決まり次第、告知するとして、今回は通常ブッキングによるライブとなります。対バンは未定。えっ!あと2週間やのに大丈夫?決まらんかったら2時間でもやらしてもらうよ。いや、そんな心配より急な決定でまたもや集客の方が心配です。というわけで皆さんの御来場を心よりお待ちしております。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする