満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Paul Motian Trio 2000+Two

2009-05-22 | 新規投稿

Paul Motian Trio 2000+Two 『live at village vanguard volⅡ

「タイムを自在に伸び縮みさせる事ができるのはポールだけだからね」
菊池雅章によるポールモチアン評であったと記憶する。自身のトリオ、デザートムーンにモチアンを招聘したのも、その独自の時間感覚に対する菊池自身の固有性の対峙が狙いであったか。果たしてデザートムーンに於けるリズムの揺らぎや‘謎めいた’グルーブはもはや異次元の響きであった。‘タイムを自在に伸び縮みさせる’と評した方も、された方も、もうこの人達あたりのレベルになると我々、常人の域を超えた音楽の営みがあり、その奥深さたるや、計り知りえない。ただ、その表出された音楽には十分、楽しめる要素があり、我々は、この達人達の演奏に一種の非日常的な異次元への探求を体験できるのだ。

ビルエヴァンス、ポールブレイ、キースジャレット、菊池雅章と長くピアニストに重用され続けたモチアンが試みたのは、彼らへの同化と反作用だったか。ドラミングによる自らのリズム概念を確実にピアニストへ浸透させ、その演奏を変える瞬間を確認していただろう。そんなモチアンが多くの自身のリーダーバンドを組織する時、そこにはピアニストが不在である事に気つく。ビルフリゼール、ジョーロバーノなど、空間浮遊系プレイヤーを好み、electric be bop bandに至っては2ギター、2ホーンというオーネットコールマンのprime timeに類似する編成を一貫して配し、その異次元ジャズに特異な個性を与えている。

モチアンにとってピアニストとはどんな存在であるか。
得てして支配者然とするピアニストという演奏種族に対し、多くのドラマーはそのメロディに追随し、ソロの為のスペースを供与してきた。モチアンはその関係性を踏み越え、ドラムによるスペースにピアニストを引き込んだのだろう。その双方の‘引き込み合い’によるテンションこそを音楽の利とした。従って、双方の時間軸が形成され、菊池言うところの‘タイムの伸び縮み’が生じたのだろう。モチアンの探究心はピアニストとの対峙で得た成果を自身のリーダーバンドでホーンとギター奏者との合奏によって再現し、独自のアンビエントジャズを構築するに至った。

『live at village vanguard volⅡ』はモチアン(ds)、クリスポッター(ts)、ラリーグレナディア(b)のトリオにグレッグオズビー(sax)、マットマネリ(viola)そして菊池雅章(p)というゲスト陣を加えた編成によるライブ音源。
動性の異物たる菊池のインパクトがまず、注意を引くが、モチアンの形成する音の間の支配、統率が全体に貫かれる。その美学めいた音楽空間が静寂や喧騒の場面をフラッシュバックのように提示する時、何かこう、力が湧いてくる気がするのだ。表現への意欲と言うか、音を発したい気になる自分がいる。
ずれて進行するテーマアンサンブルやうわものと全く同期しないリズム隊。演奏者に許容されるそれぞれの‘間’と音数。こんな‘自由’があるのか。これほど自由でいいのだ。それでいて構築感が確かにある。全くそんな感慨がある。
私は思う。恐らく、これは勇気の音楽であると。

2009.5.22




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フリクション観戦日誌 PARTⅣ FRICTION LIVE 2009‘DEEPERS’

2009-05-09 | 新規投稿

やってきました、日本の春が。年に一度のフリクション祭り。
仕事を切り上げ、ワクワク気分で地下鉄に飛び乗ります。
ところが、チケットを握り締めて会場に着いた筈のつもりが、何とチケットがない。「ない、ない、ない、ほんまにない。どないしょ。」家に置いてきた。最近のチケット、ちっちゃいから財布から何かのレシートと一緒に出してしまったようだ。あちゃー。私は仕方なく当日券を買った。5000円なり。トホホ。しかし更に「入り口でドリンクチケット買ってください500円です。」だと。「ドリンク要らん」は通じず。5500円。痛い。実に痛い。前売り4500円と合わせて今回のフリクションのライブ10000円なり!ハハハは。‘ハラハラハハーハ。くいしばるteeth!’という曲があったな。

今日はミニアルバム『deepers』のレコ発ライブ(この言い方、今もあるんかな)。2曲収められた新曲が特に楽しみです。
会場に入るとやはり、いつもより客多し。先着の大谷が後ろの方で立っていた。
「今度、メトロでROVOあるで。」
相変わらず、せっせとライブハウス通いを続けるこの男の学生時代から全く変わらぬワンパターンな生活スタイルは何なのか。多分、音楽に飽きる事がない私と同類の阿呆であり、数少ない現役音楽仲間なのだ。大体、我々くらいの歳になると昔はパンクに熱狂していたような奴でも、今では全然、興味もなくなって音楽と言えば昔話だけというのが多いのだ。俺らは違う。‘今’にこだわる事をフリクションからしっかり、教わっている。それが楽しむ術なのだ。

入り口で配られたフライヤーに80人あまり(多い!)の各界の人達による『deepers』に対するコメントが記されている。すごい注目度だったのだ。しかし、ほぼ全部が好意的な評で占められ、唯一「14年待ってこのボリュームじゃ全然、物足りない。一刻も早く全曲オリジナルのフルアルバムを」と書いたのが小野島大氏。あまり好きな批評家じゃないが、ここでは同意。

マイルスデイビスの「on the corner」が流れる中、7時半。今晩もフリクションは定刻に登場した。私の知る限りフリクションは遅刻はめったにしない。いつものように足早に出てきて楽器をつかむとすぐ演奏が始まる。
一発目、ストーンズのカバー「you got me rockin」
これできたか。『deepers』収録の問題作。その「‘行き過ぎたロケンロール’振りに‘ゲッ’となった」と私は先月、書いた。リフとビートが刻まれる中、瞬間、私は「ヘーイ!ヘーイ!」の箇所で客が拳を振り上げながら「ヘーイ!ヘーイ!」とやるんではないかと危惧した。最近のフリクションのライブには新規加入した中村達也ファンも多数、混じっているので、それはあり得る。いや、私はもう、腹を括っていた。もうロックンロール大会でもええで、好きにやってくれ!という心境だった。
バンドと客がみんなで「ヘーイ!ヘーイ!」。そんな光景がいかにフリクションの従来のイメージとはかけ離れたものであったとしても、それは以前のフリクション像に縛られている私の愚であろう。時代は変わっていくのだ。刻々と。‘一年たったら変わるか、百年たったら変わるか。頭ん中、入り込んで入れ替えちまおう’という曲もあっただろ。

しかし。結局、それは杞憂に終わった。コーラス用マイクをセットした中村達也による「ヘーイ!ヘーイ!」は獰猛な叫びのようで、どこか浮き、逸脱している。それは客に一体を呼びかけるコーリング、ままある‘ロックの風景’のそれとはやはり違っていた。浮いている。しかもレックによる、アタックのないベースギターのリフによるこのローリングロックもどこか、‘変な’グルーブを有している事に気付く。分かった。ベースギターの音色によるものだ。濁っているのだ。この‘濁り’は、やはり‘ノイズ’とい要素が入り込んだフリクションの個性としか言いようがないものだった。

『deepers』を聴き、考えたことがあった。
私は元来、レックについてリフ作りの名手であると認識していた。キースリチャーズ、ジミヘン、ジミーペイジ等に連なる‘リフ作り’の名人としてレックはその名を歴史に留めると常々、思っていたから。その意味でレックがストーンズ、イギー、ジミヘンのナンバーをやる事に違和はない。しかしただではやらない。ポイントはベースギターであった。その創作的音響、ノイズがかった和音のような、全く新奇な音によるリフを基底としたカバーがライブ演奏においてその意味が顕在化した。以前のギターがいた頃の編成で、つまりベースは通常のベース音を出していた時のフリクションならば、果たしてこれらのカバーナンバーをレックはやったかどうか。デュオフリクションの混濁したオリジナルな音響リフだから実現した新奇なロックンロール。その特質はスタジオレコーディングでは今ひとつ顕在化せず、ライブでは現前にはっきりと顕われた。その意味でやはり、フリクションとはライブバンドであったか。

混濁したベースギターのリフが繰り返される。瞬間、私はアドレナリンが廻った。そして気が付いた時、「ヘーイ!ヘーイ!」と叫ぶ自分がいたのだ。何と。スロースターターの多いフリクションファンの中で私は不覚にもこのロケンロールナンバーでファールを犯していた。いち早くスタートダッシュを切っていたのは私だった。

ぶっ太い音の濁りベースギターのリフは続く「kagayaki」に継続される。
これもロックンロールアレンジによるもので、ステディなエイトビートにのる。アップテンポに移行する後半を経て、出ました、最後のキメのリズムアンサンブルの凄さ。これだ。これが数多のバンドを軽く引き離すフリクションのフリクションたる所以とも言える構築美なのだ。やってくれた。圧倒的だ。今夜のフリクション、凄そうだぞ。

曲の合間の中村達也の奇声はレックがセッティングにとまどっているからか。早く演奏したそうだ。‘いきたい気持ちはよくわかるんだ。やりたい気持ちもよくわかるんだ’という曲もあった。さて、とまどって、もったいぶって、始まったのが超名曲「Ikigire(out of breath)」である。最高の曲。そしてこれまでに様々に異なるアレンジでプレイされてきた曲である。全くこの曲は今までに何パターンのアレンジで演奏されてきたか。今日の演奏、まず、レックはベースの音をノーマルに戻し、得意の変則グルーブを作り出す。めちゃくちゃカッコ良い。誰彼なくみんなに聴かせてあげたい気分になる。ドラムのタイトなリズムとブレイク、キマッてる。全く。そしてベースギターソロに入るが、またしても絶妙なリフが中音域で繰り出され、それがソロのように一つのバースをつくります。ああ、何と言うこの構成の妙。しかも、この‘リフソロ’はすごい。何が?いや、とにかくすごい。そしてベースリフをループさせながら、上にサイケドローンな今度は‘ギターソロ’をかぶせます。やがて先ほどの‘リフソロ’をもう一回、重ねて歌に戻る。あとはもうひたすらゴーアヘッドに進行し、ゴールインするのであった。
私が二人編成フリクションで最も好きな形はこのような変則ファンクのようなビートのアレンジを施した演奏だろう。どんどんやってほしい。

ライブでは「コンピューター、コンピューター」と聴こえていたが、アルバム『zone tripper』(95)が出て「コンピュート」だとわかった「red light dumb」。これは比較的、オリジナルに近いアレンジ。ヘビイメタリックなリフの応酬。しかしアップテンポ。サビでのドラムのドタバタドタバタするフレーズに小刻みにオカズを入れ、高速感が増す。しかも揺れている。中村達也がチコヒゲ、佐藤稔という歴代のドラマーと異質なのは明白だ。動的であり、横に揺れるのだ。そのビートをはみ出したような感覚が、固有のグルーブであり、個性だろう。

さて、問題の新曲「メラメラ69」が始まった。グアーン、グアーンという持続音はやはり、ドローンのよう。ベルベットの「Venus in Furs」のようなムード。
スタジオバージョンはそれほど好きになれなかったが、この遅いテンポはやはり、ライブでは生きる。そしてレックのサイケデリックなソロが酔わせる。音が放流され、四方に響き渡る。全く空間浸透的な妙技と言えるだろう。グアーン、グアーンのループ音を強調しながら、ジョンケイルばりの亀裂音のスパイスを注入し、その泡ぶくのような音がループ音に混じり、そしてそのいずれもが止まる。ヘイビイタイトなドラムがはっと現れ、場面の転換。やがてドラムの連打と共に「DADADADADADADADA」の後半部へ突入。幾分テンポが上がり、ドラムが小刻みに鳴る。レックのボイスが夢幻からリアルに変化したようにぐっと強くなる。そしてこの曲の面白さは、その閉め方の唐突さか。盛り上がってから、急にストンと終わる。

続いて始まったのは短いドラムソロと歪んだベースギターの音響イントロダクションに導かれたナンバー。しかし、何の曲かわからない。フリクションではよくある事。歌が出てきてやっと何の曲か判明する事をこれまで嫌と言うほど観てきている。また、凝ったアレンジをやってるんだろう。と思いきや、歌が始まっても判らなかった。しかし、どこかで聴いたような曲だ。何だろう。そうか、多分、新曲だ。このジミヘン張りのリフ。オールドウェイブ臭がぷんぷんするヘビイチューン。いや、本当に新曲か。どこかで聴いた。あっ。分かった3/3だ。おそらく。曲名はわからないが、多分。レックはMCをしないので教えてなんてくれない。客も訊かない。家に帰って私は調べようと思った。曲が終わってレックが「みなさん、ついてきてください」だと。意味わからん。この曲は知らないだろうなーって事かな。なら、教えてくれと言いたくなるが。

次、いくぞ。やたらかっこいいブレイクビートの応酬、でも何の曲かこれもわからない。と思いきや名曲「cushion」だった。うわっ!最高!またしてもこのアレンジは最高にカッコいい。中村達也と組む必然とはこのようなリズムアレンジにこそ顕著に現れる。変則的なエイトビート。しかもタイトでストップ&ゴーなグルーブ。いやいや、今回のフリクション、変則度、増してるやん。何がロックンロール大会や。誰やそんなん言ったんは。こんな演奏、他では絶対、聴けない。
やり終えて、サンキューと引っ込む二人。まだ一時間くらい。早い。いや、もう若くないから疲労困憊か。ちょっと一服タイムですね。出てくるまで待っとくから、ゆっくり休んどいて。

レックと中村達也、早めに出てきて、第二部の幕開けです。
一発目は「I can tell」。Wow!初期の超名曲。これは最高です。
通常のベース音によるファンキーアレンジで走ります。これもカッコいい。全く。しかも歌の合間の長めのリズムコンビネーションによるソロ的なバースのグルーブはどうだ。ベース音に微妙にギター音をプラスしてシンプルに、しかしリズミックなインプロビゼーションを展開する。ありゃー、妙技、妙技。この応酬。ベースとドラムの絡みと反発と成り行き。ダンスビートでしかも変則。このギクシャクドッタンバッタンでRUN RUN RUNのリズムはフリクションの専売特許。ドラムもクリエイティブです。レックの‘リフソロ’は続く。そして歌。エンディングのキメと完璧に演奏された。感嘆符ですな。
たった2音である。この厚み、この表現力。数多のロックインプロビゼーションをさりげなく超越していると確信する。しかもアレンジのバリエーションはもはや、ディランやマイルスレベルの領域だろう。

渾身の「I can tell」で疲れたかレック、「まだやるー?」と客に問う。
やって下さい、どこまでも。10000円分、お願いします。
レックがメンバー紹介をする時代が来るとは思わなかった。フリクション歴代の多くのメンバーなど、それが初ステージでも紹介されなかった。佐藤稔やセリガノ、再加入時のラピスを初めて観て「ん?誰?」という日々は遠い昔。今では、紹介しなくてもみんな知ってるお馴染みの中村達也を指して
「中村君!!」と言った。
そして中村達也が
「ミスターーー!レッーウウ!!」
と返すとレックがベースでレスポンスし、曲が始まった。またしてもオールドウェーブな重厚なリフ。これも判らない。新曲かと思いきや、「いつも・・・」という歌詞で判った。これも3/3の曲、「いつも」だ。これは覚えている。リフは今でも通用するが、‘いつも’という言葉がプレ・フリクションをイメージさせる感覚である。しかし、この曲での中村達也の叫びは何だ。「アーオ」とか「ワー!」とか好きなように雄叫びを挟み込んでいる。このワイルド放置感覚も新生フリクションの個性だね。

「いつも」が終わっても、間髪いれずにスペイシーな音響フィードバックをループさせるレック。まるでゴングのライブみたいにディレイによるサイケデリックなうねりを充満させ、その上に乗っかるように、超合金な直角ベースラインを刻みだした。そう、ついに出た。必殺のナンバー「zone tripper」だ。きたきた。来た見た買ったの北商店。いや。違う。
この曲は、ヘビイメタリックなロックンロールとして、同時代の欧米ロックに一つの基準を示すくらいのハイサウンドであると思っている。
圧倒的な「zone tripper」で幕を下ろしたフリクションのライブ。

確かな変容。ビートの形、その追求の過程を知る。レックの事を「すごい、いじくり好き」と評したのは盟友、ヒゴヒロシだった。楽器をいじり、エフェクターをいじって音をつくり、理想に近つけていく。曲のアレンジもどんどん変えるその‘いじり方’に偏執狂的な演奏者の性を見る。何かを目指して満足しない。その遥か見据えた場所を知りたいものだ。レックが向かっていく地平。そこにどんなビートがあるのか。自らをも‘いじり’ながら変化させ、あくなき他者との共同による化学反応を楽しむ高度な遊びを実践するレックというアーティスト。
今回のツアーがFRICTION LIVE 2009‘DEEPERS’と命名されているにもかかわらず、その注目すべきオリジナル「DEEPERS」を結局、やらなかった事も、そこにレックの思いのままの自然体、その場で何事も変えていく即興的な真髄を垣間見るような気がする。
驚くべきパフォーマーとして個人的力量をアップし続けるレック。次はフルアルバムでの驚きを気長に期待します。

2009.5.9


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Cecil Taylor  『Air Above Mountains』

2009-05-06 | 祝!ブログ開設

20年ほど前、私は昭和女子大学人見記念ホールの2階席にいた。階段状の客席はかなり高く、ステージからは随分、遠い席だった。斜め後ろの席に梅津和時氏が座っていた事を覚えている。そして、はるか遠方、ステージではセシルテイラーが一人、ピアノと格闘していた。その観客を見向きもしない態度と遠い距離が尚更、その孤立感覚を強調させ、一種異様な空気が会場に張り詰めていたと思う。フルボリュームで鍵盤をたたきつけるように弾くそのインパクト。轟音のようなピアノの打音が響き渡る。周りに誰もいないかのように、一心に自分の作業に打ち込むその姿はもはや、パフォーマンスならぬ彼の内的行為の一種のようであり、業の深さを感じさせたものだ。確かに我々、観客は唖然としながらテイラーのそのピアノを‘弾きたおす’様子を見ていたのだと思う。それはもはや、鑑賞とも言えない、‘観察’であっただろう。
全て即興。MCもなし。演奏は切れ目なく延々続く。全く火の出るような演奏を一時間半ほど、やっただろうか。最後、彼はおもむろにピアノを離れ、踊りだしたのだ。ピアノの周りをグルグル回っていた。

マイルスデイビスがセシルテイラーのことをただ、‘音符をたくさん弾く’と評していた事にずっと引っかかりを持っていた。そのマイルスの口ぶりからはテイラーの‘フリージャズ’や‘即興の革新’という評価軸を認めていないような感触があったのだ。フリージャズのフリー(自由)とは何か。かつて、それは精神の開放という形而上学めいた命題や、60年代後期という政治の季節に生じた現実の社会変革を目指す運動とリンクするものとしての‘自由’の概念とされてきた。しかしジャズのフィールドでそれを限定解釈すると、多くの場合、コードや和声、定刻リズムからの自由や逸脱のことであった。

即興演奏があらゆる音楽的制約からの自由を目指し、それは広義の人間開放につながってゆく。そんな解釈は前衛の定番として長く欧米に定着しているが、対し、マイルスは自由の体現には即興をあくまで一手段とし、音響や様式美とリンクさせる事でより接近しようとしたのだと思う。従ってその意味でマイルスにとってテイラーは西洋音楽の素養を持った演奏者に特有の‘演奏性’に支配された‘非=自由’の一連と変わらないと見做していたのかもしれない。テイラーによる音符の一斉放射のような演奏とは(単なる)西洋音楽の乗り越え(に過ぎない)と感じていたか。逆にマイルスは音の物性そのものを乗り越えの対象とし、その変容にも向かった。従って‘演奏’のカテゴリーではなく、エレクトリックやエスノに転生するフォームの変更、それは概念と快楽様式の変容に向かう方向であっただろう。嘗て故間章はそのフリージャズに対する論考で「自由という概念は対立する二つのものを含んでおり、‘・・・・・からの自由’と‘・・・・・への自由’という異なるベクトルである」と書いていた。間章に従うなら、‘・・・・・からの自由’を目指したのがテイラーで‘・・・・・への自由’を体現したのがマイルスであったか。しかし、私が実感するのは2009年という途方もない現在、その何れもが、同等に味わい深い快楽と自由を喚起させる音楽力を有しているという厳然たる事実であろうか。それはひとえに音楽に対する現在的貧困に対する生命力の共通と説明しても良いだろう。マイルスとテイラーという決して交わるベクトルを持ち得ない者同士が、‘今の耳’で均質に聴く事ができる。

セシルテイラーの即興とは果たして‘肉体’であった。ピアノにこだわり、エレクトリックへの転位を拒んだテイラーは、音響的概念を敗北と捉え、あくなき肉体的開放を己のフリージャズとした。

最近、フリージャズの重要レーベルENJAの再発物が連発している。『Air Above Mountains』はセシルテイラー絶頂期のライブ音源。全身全霊の78分。ここでもその‘弾きたおす’演奏が素晴らしい。テイラーにとってピアノとは取っ組み合いの相手なのか。多くのリスナーの意見と等しく、私はテイラー作品の中で『Indent』(73)、『Fly! Fly! Fly!』(80)等、ピアノソロ作品が好きである。初めて聴いた『Air Above Mountains』は76年、オーストリアでのライブ。ライブ音源とは思えない、その孤立の様子が伝わる。最後の僅かな拍手でやっとこれがライブ音源である事が判明する。クラッシクの都、オーストリアでテイラーは何を破壊したのか。西洋にエスノ、理性に獣性。そんな対立概念の古風をもしかし、ここでは信念を地で遂行するパフォーマーの戦慄的な姿こそを発見できるだろう。
思わず、私はあの日、ピアノの周りで踊りだしたテイラーの孤高を思い出した。

2009.5.5
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