満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

MAGMA 『BOURGES 1979』

2008-12-29 | 新規投稿

表面的には汎西洋的世界に立脚したイギリス、ヨーロッパのプログレッシブロックが実は、ブルース、ソウル、ジャズなどの黒人音楽やフォーク、カントリー等、アメリカンルーツミュージックからの多大な影響下にある事はよく知られている。実際、多くのプログレのアーティストがそのフェイバリットにR&Bやディラン、レノン等の‘アーシーミュージック’のアーティストの名を挙げ、それらのマニアである場合が多い。しかし日本の多くのプログレファンは黒人音楽を聴かないのは何故か。
イエスのギタリスト、スティーブハウはフルカバーアルバムを作るほどのボブディランフリークだが、イエスのリスナーはディランを聴かない。また、ピーターガブリエル(ジェネシス)のソウルへの傾倒をガブリエルマニアは受け流し、マービンゲイを聴こうともしないし、クリムゾンファンはロバートフリップが‘乗り越える存在’として設定したのがジェイムスブラウンやチャーリーパーカーである事を承知しているが、やはりそれらを聴かない。マグマファンもそうだ。クリスチャンバンダーはコルトレーンを音楽神とし、同様にオーティスレディングを崇め奉っているのだ。なのに、それらを聴かない。なぜ、聴かないのか。聴きなさい。

70年代に入ってジャズやロックがサウンド的にカラフルになり、大作志向を含めた構成主義的なものが増えるに従い、日本人好みの型が整ってきたのだと思う。この時期、ギタリストがヒーローになり、シンセサイザーも登場する。従来のアーシーな音楽と器楽主体とも言えるサウンド志向の音楽が両極を作り、リスナーが二分化した。クラシカルなメロディに惹かれる‘泣き志向’が70年代ハードロックの隆盛時に多く指摘され、シンフォニックプログレの持つ陰影、叙情志向など、その非―黒人音楽的フォーマットを好む傾向はフュージョン等のテクニカルな音楽の愛好者にも顕著な‘反=アーシー志向’であり、それは日本に特有な聴き方を形作ったのではないか。私が幾度と遭遇したディランやミックジャガーの‘声がまず、ダメ’というジャズ/フージョンやプログレ愛好家を私はそれらの大多数派と見ており、彼等にアーシーなものに対する拒否感があるように感じている。

『merci』(83)はマグマのラストアルバムであり、ボーカルグループOfferingへ活動を移すクリスチャンバンダーの‘歌’志向を予言させるアルバムだった。コバイヤ語を封印し、英、仏語で歌ったソウル=魂の歌のアンソロジーだった訳だが、多くのマグマファンには不評、私も当初は受けつけることができなかった。しかし、90年代後半に再び、大編成マグマを再開する事から考えるに、この時期のクリスチャンバンダーの歌=ソウル志向を彼の表現の純化、或いは音楽嗜好の成就、回帰とは受け取れない。今になって、そこには一貫したもの、連続するものがあった事が解る。従って私達は嘗ての『M.D,K』(73)や『KOHNTARKOSZ』(75)、『UDU WUDU』(76)にある汎西洋的な暗黒やドラマ主義、サウンドの構築性、クラシック的昂揚感の中に『merci』と同様の歌心、ブラックミュージック的福音こそを感じ取るべきなのだろう。そう反省する私は徐々に『merci』が好きになってきたのであった。Offeringから復活マグマへの経緯、そして『K.A』(04)のリリースと続くクリスチャンバンダーの広角な活動は全く前進的であり、如何なる場所への回帰でもない。彼にあって表現とは趣味的なスタンスや好みのフォーマットに寄り添うものではなく、スタイルの変遷、それ自体が表現の強度を左右した事は一度もなかった事に注目したい。

2枚組CD、『BOURGES 1979』は『ATTAHK』(77)の時期、いわゆる‘ファンキーマグマ’時代のライブドキュメントであり、この時期のライブ音源の初のオフィシャルリリースである。こう見ると暗黒プログレからソウルへというスタイル変遷の過渡期に‘ファンク’があったという見方もできる。私は『ATTAHK』が当時、あまり好きになれなかったが、このライブを聴くと、「M.D,K」等、以前の曲の異なるアレンジ演奏にも、変わらぬパワーがある事を発見できる。音の外観より更に確固とした力が漲っているのが、この時期のマグマであったのだろうか。見方によってはファンク、ソウルそのものの力の見直しが、ロックフィールドが停滞した90年代以降、世界的に進み、ファンクの中にあるロック的享受の仕方が広く認知され、私も知らず知らず、そんな影響下にある事が、このライブで聴けるブラックミュージック寄りフォーマットに対する違和感なき感動につながっているのかもしれない。おそらく、この音源が79年というリアルタイムにリリースされていれば、現在のような評価を得ていたかどうか。80年代初頭に於けるニューウェーブに於けるファンク化が当時、‘軟化’と捉えられた時代的感性を併せて思い出す。

そして、当時、同様の違和感を示した人物が当のマグマの中にいた事を指摘しないわけにはいかないだろう。長くクリスチャンバンダーと活動を共にしてきたボーカリスト、クラウスブラスキだ。ライナーでも指摘される彼の発声の不調の原因を私は、ブラスキの汎ヨーロッパ性への固執からくるブラックミュージックへのアイデンティティーを得られない性と見る。彼の重低音オペラチックな発声は初期マグマの象徴であり、それはフランスを基点とするマグマの世界性の獲得を示すものであった。従ってバンダーによるブラックミュージック志向が彼の行き場を一時的に狭め、方法論に関する迷いと試行錯誤に苦しめられた事は想像に難くない。

しかしクラウスブラスキの不調が逆に吉と出た姿を『BOURGES 1979』で確認する事ができる。つまりブラスキをリードとしながら、クリスチャンやステラ達がバックを陣取る従来のマグマボーカリゼーションの型がここでは崩れ、全員が均等の発声による円座を形成する事でソウルミュージックにおける自発的な掛け合いのような局面が多く見られる事だ。
それは整合感よりも偶発性を醸しだし、マグマ独特の構築美を感情的な波動で揺さぶるような感触があり、興味深い。

アップした写真は『BOURGES 1979』の裏ジャケ。クリスチャンバンダーのいつもの不気味な眼光がインパクトがあり、しかもこのフォトが中ジャケにも2枚のCDにもプリントされている。この眼光はバンダーの自信の表れと確信する。多くのファンが戸惑ったファンキーマグマのエネルギーが今、解明され、再評価される。

2008.12.29










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DISCHARGE    『NEVER AGAIN』

2008-12-16 | 新規投稿

新風社という出版社が詐欺罪で訴訟されたあげく倒産したニュースを見たのはちょっと前だったが、私は嘗て、本を自費出版しようと思い立った際、広告を見て、この会社を訪れた事がある。担当者の口にした法外な制作費(確か200万だか)に対し、瞬時に「CD作るのにもそんなにかからへんで、ぼったくりの騙しやな」と応答した。この時、私の中にパンク的な心性があった事を思い出す。パンクで培われたD.I.Y精神をなめてはいけない。しかし沢山の人間が騙されたていたようだ。本が売れない時代である今、息絶え絶えな出版業界が、作家志望者の夢につけ込んで金をむしり取る詐欺商法が横行しているのを後で知ったが、その出版社で感じた‘じわっとした’怒りを覚えている。激怒ではないが、違和を感じた。パンクがあった。私の心底に。

ディスチャージの『NEVER AGAIN』は1984年のLP。
音質の異なる初期ナンバーと中期ナンバーをごちゃまぜにした編集物特有のバラバラさが目立つLPだったが、その初期ナンバーのみをremix versionsとした今回のボーナス付きCDでもやっぱりバラバラだった。しかも4曲のボーナスもミニアルバムやシングルでの既存曲だから新鮮味もない。いや、それは最初から解っていた事だった。そもそもディスチャージなどというバンドに音質だのリマスターだの、期待する事自体がお門違いというものだ。
じゃあ、何故、私は今頃、こんなCDを衝動買いしたのか。急に聴きたくなったのだろう。大ファンだった。嘗て。シングルもアルバムも全部、持っている。実家のレコード棚にあるLP『hear nothing see nothing say nothing』(82)の見開きジャケには‘俺はこのレコードを一生、聴き続ける!’とカッターで切り刻んだ二十歳の自分がいる。若い、若い。危ない、危ない。

来日公演が決まった直後に解散。代役で来日したG.B.Hをツバキハウスで観たのが85年。再結成後のメタル路線は好きじゃなく、ディスチャージを追う事はおろか、そのままハードコアパンクというジャンルとも縁遠くなった私だが、その後の音楽シーンの中でハードコアパンクの意義を感じる事がままあったのは事実。ハードコアラップ、ミニマル、ノイズ、ボアダムズ、ペインキラー等を愛好する私の中に常にディスチャージという基点を想起させる部分があった。ポエトリーパンクとも言うべき「decontrol」のラップ的先駆性や「anger burning」にある確かな楽曲性は今更ながら感心せざるを得ない。また、「protest and survive」に見られるノイジーリフの反復演奏にはミニマルスラッシュとも言うべき、以後のグランジ等に伝播した広汎な影響をも感じている。反―音楽的コンテキストを疾走し、政治性、メッセージ先行を特徴としたディスチャージが実は音楽的影響度という意味で重要なグループだったと今では認識されて間違いないだろう。

オリジナルパンクの終焉とニューウェーブのメジャー化と入れ替わるように拡がった第二次パンクの波。それはハードコアが主導した音楽的な更なる純化(単純化)による低品質大量生産と風俗的画一化に顕れ、世間によるパンクの異端的認知に役立った。この時点でもはやパンクはロックファンやオリジナルパンクからも‘意味無し’の烙印を押され、鋲打ち革ジャンにモヒカンやクジャク頭といった風俗が蔑みの眼で見られる真のアンダーグラウンドの称号を‘勝ち取った’と言えよう。(時代遅れな)パンクファッションからクールスタイリッシュな装いに変貌したクラッシュが象徴する‘音楽寄り’を保守パンクと否定しながらハードコアは反批評的スタンスを生きた。そう、真の重要性はその‘生き様’の方であっただろう。ディスチャージが創出したハードコアパンクの影響度は先述した音楽的観点以上に、ライフスタイルの創造という点にこそあった。

そのライフスタイルとはヒッピー以来であろうコミューン生活を究極の形としながら(クラスに象徴される)、社会の隅々までそのエッセンスを浸透させる病原菌として顕在化した。ハードコアへの中毒的愛好が社会生活に支障をきたすブロウクンな人間を多数、生み出し、あらゆるドロップアウトやサボタージュが進行した。それらは総じてアナーキスト的感性を実生活で実現する態度であったと思う。バンドをやるかやらないかは問われなかった。生活自体が反社会的である事の方が重要だったのではないか。

ウィルスは日本にも伝播した。
私が東京に住んだ85年から90年、高円寺などでは昼間から何もせず、路上に転がってるだけのパンクスが多くいた。世界中の都市部に見られる一風俗的風景であり、パンクスとはある時期、社会における確かな一つの現象だった。サッチャーによる人頭税が導入された時のロンドンでの大騒ぎを思い出す。テレビに映るデモ隊に多数のパンクスが混じり、石を投げたり、自動車の窓を割ったりしている。自堕落で働かない奴らが騒乱を起こすという理不尽が本来の社会的弱者の主張とごちゃまぜになり、アンチの現象そのものを低レベル化させる事に‘貢献’していた。サッチャー改革の本質があの時点で理解できなかった私でも、もはやパンクスのアナキストぶりにその徹底されたアウトの精神を見、怠惰な人間の多くがパンクという鎧を手に入れたのだなと思った。長く続いた労働党政権による高度福祉社会は人間の勤労意欲や向上心を減退させ、それはイギリスの国力の低下、ひいては国民の経済観念や活性化を結果的には阻害してきたようだ。この時期、イギリスでは失業者とは仕事がない人間の事ではなく、仕事をしない人間の事であった、と言えば言い過ぎだが、あの時代の英国のカウンターカルチャーたるロック文化を豊潤なものにした背景に明らかに経済状態があり、その経済状態を背景にした人々のマインドがニヒリズムに直結し易いものだった事は確かだろう。従って体制批判、社会非難だけが蔓延した。ロックは頽廃から生まれる。それを証明するのがパンクーニューウェーブの時代のイギリスだった。サッチャーを嫌うのが‘常識’であったあの時代、多くの英国ミュージシャンの発言の‘偏り’に私が気づくのは奇しくも、ハードコアパンクによる社会的影響が顕在化した時期と一致している。90年代以降、英国がある種の停滞社会を脱し、経済の回復と共に人々のマインドが変化する事で逆にロックが衰弱してゆくのは必然であった。

ハードコアパンクは停滞社会における人々のマインドを怠惰の極限まで押し進め、爛熟したロックカルチャーを生み出したとする私の論はしかし、否定的見解ではない。ディスチャージを生んだもの。それは風潮としてのニヒリズムに抗し、能動的な生をハードコアという手段に託すパーソナルな契機に他ならなかったのだと思う。ボーカリスト、キャルは歌詞カードをライブで観客に配る生真面目なアジテーターだった。そしてその反戦思想の現在的有効性は敢えて問うまい。「state violence state control」と歌ったディスチャージは‘国家暴力、国家支配、国家による戦争’を攻撃したが、宗教絡みの対テロ戦に移行した現在の戦争形態が再び国家間によるものに戻る未来についての警告と解すれば良い。メッセージは未来永劫、有効である。

現在的視点で見ればハードコアパンクを肯定的に見直すキーワードは‘スピリット’、‘精神’という事になろう。しかもオリジナルパンクがメジャー化する事でミュージシャンへと変貌する最中、ハードコアがアンチコマーシャリズムを貫いた事は、D.I.Y精神の裾野を更に拡げる事につながる成果を生んだ。その精神は確実に伝播した。世界中に。誰もがバンドをやり、自分たちでビラを作り、自主制作音源で活動するような形態が当たり前になった現在、そんな‘遊び方’を準備したのは紛れもなくパンクの、しかもハードコアの方法論である。それが当たり前になった。お上や企業が用意する遊具には用はない。何でも自分でできる。そんな行動派をパンクスピリットによるポジティブな精神的発露とする正の見方とし、一方でパンクによる社会性喪失(低次元な‘自分さがし’や単なる悪行まで)を負の見方とするなら、パンクの革命的成果と負の面を含めた大きなパンクという一大現象を総括できる。

ディスチャージを聴いて今、熱くなる。心が燃える。やはり普遍的な良さがある。ロックの最良部分であるスピード、スリルがあり、ハードコアだけが併せ持つ危うさ、無謀さがある。人の知性を疑い、原始性へと引き戻す。理屈抜きの快楽と偏向なメッセージ性が混在し、その混乱具合がパンクにまつわる批評性をもある種、‘低次元な崇高性’へと導く。行為の盲目性を尊いものとし、その継続意志を喚起する。ハードコアのパワーとはそんな次元にあるのではないか。パンク評論家、森脇美貴夫氏は‘ディスチャージが載ってないロック史がもしあったら、そいつは全くでたらめなロック史だ’と当時、書いた。そんな事、言ってるのは氏だけであったが、それは今、本当だと解った。

‘俺はこのレコードを一生、聴き続ける!’と刻んだ二十歳の無謀。
26年も過ぎた私は今、その‘蒼い宣言’を守れると感じている。

2008.12.15




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渋さ知らズ 『巴里渋舞曲』

2008-12-04 | 新規投稿

地底レコード(chitei record)のホームページによると私のバンド、TIME STRINGS TRAVELLERS(時弦旅団)は解散した事になっているが、解散したつもりはなかった。休んでいたのだ。最近、再びやる気になり、半年程前からリハを再開した。埃のかぶった楽器ケースを雑巾で拭いて、ベースを手にしたのが、殆ど7年ぶりだ。パートナーの山口くんがYOUTUBEにバンドの古い映像をアップしたのも、一種の景気付けか。意欲が湧き、月に2回というスローなペースで練習している。いずれ、ライブとレコーディングも再開したいものだ。その時はまた、地底レコード、吉田さんに頼もうかな。

地底レコードと言えば渋さ知らズ。殆どこのバンドだけで収益が成り立っているレーベルなのだ。いや、失礼。同レーベルの看板アーティスト、渋さ知らズの新作『巴里渋舞曲』はパリでのライブ音源。以前の『渋龍』(89)がドイツでのライブだった事からも解るようにこのバンド、ヨーロッパではもはや顔である。『巴里渋舞曲』はCD二枚組+DVDの豪華版。ステッカーまでついている。地底レコード、頑張った。内容もその圧倒的なパフォーマンスを生で捉えたようなドキュメンタリー感覚がある。客席の真ん中あたりでテレコで録ったみたいな音質が素晴らしい。いや、本当にそうしたんじゃないか。録音レベルの低さ(音圧の)、ホール感、微妙につぶれた音。低予算の代物とみたが、いかがか。空気感が充満している。自然のリバーブが心地よい。私はパーラメンツのライブアルバムを思い出した。あの音に近い。

ヨーロッパ、特に独仏に顕著な非―白人文化への一種、偏愛に似た嗜好。エスノイズム、エキゾチズムに対する感性の連続は、ヨーロッパ文化の‘不足’を補う為に必要とされるヨーロッパ自身の再生の滋養であろう。アールヌーヴォーを準備したジャポニズム、ダダ、シュルレアリスムにインプットされた黒人詩や海洋芸術の痕跡。ヨーロッパフリーを用意したのは60年代に渡欧した多くの前衛ジャズメンの活動であり、その多くはアメリカ本国で仕事にあぶれた者だった。ヨーロッパはいつでも異文化を吟味しながら鑑賞する。だから贋物は通じない。
渋さ知らズを目撃した多くの欧州人にかつての寺山修司=天井桟敷の公演の記憶が残っていたかは定かではないが、その祝祭度において、下世話さにおいて、ハチャメチャさにおいて、衝撃度は勝っているだろう。渋さ知らズの前ではもはや知的スノッブは通用しない。‘渋く’なる事を拒否するそのバンド名に倣う表現感覚は何物にも収斂され得ないラディカリズムを具現化する。もうアングラすら意識下にないその爆走感覚は、あらゆる解析をスルーするかのような裸性の固まりと言えようか。総勢30人の一大舞台。‘this is japanese groove’とうそぶきながら「エンヤートット!エンヤートット!」の呼応をフランスの観客に強要するMCはバンドの真骨頂。恥も外聞もないその振る舞いから繰り出される圧倒的な演奏は有無を言わせない開放感を教えているかのようだ。

メジャーからもリリースがあった渋さ知らズだが、地底レコードのリリースは続く。『巴里渋舞曲』はレーベルナンバー、B41F/42F。もう地下42階まできた。これからも地底の奥深く潜行し、いつか地球のマグマまで到達するんだろうな。

2008.12.4

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