満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

JOHN COLTRANE QUINTET  『THE 1961 HELSINKI CONCERT』

2008-01-25 | 新規投稿
   
中古レコード店に行くとジョンコルトレーンだけは初めて見るジャケットのものはブートも含めて無条件に買う。聴けば大体は知ってる音源のジャケ違いだったり、どこかの国の編集物の場合が多く、後でがっかりする事も多いのだが、先日、『黒真珠』という見た事も聴いた事もなかったLPをみつけた。れっきとした国内盤である。発売は65年だが内容はプレスティッジ期である58年頃の録音らしく、音楽的にはあまり好みではない。しかし私はこのLPの裏ジャケに記された立花実という人の解説に収録されたオーソドックスな音楽以上の感銘を受けた。この文章が載っているだけで僅か30分ばかりの演奏が収められたこの『黒真珠』を買って良かったと思ったのだった。
ネットで検索すると立花実氏は1933年生まれで68年に急逝したジャズ評論家である事が判明。その活動期間はわずか3年あまりだったという事で、遺稿集『ジャズへの愛着』(70)があるようだ。勿論今では絶版である。

彼の批評主旨はブルース概念の拡大、普遍化であるようだ。曰く
「ジョンコルトレーンの成長の歴史はひとえにブルースメロディの拡大化、豊饒化の過程であった。(略)ジョンは芸術家の義務としてブルースを共同体へ、すなわち世界(ザ・ファミリー・オブ・マン)へと戻したのである。戻したとは献納したと言い換えてもよい。」

「民衆の生活から生まれたブルース(略)それは基本的な、そして普遍的な生活感情、あるいは世界観の無垢な反映、それも全き肯定による反映なのだ。それ故にわれわれはコルトレーンもレイチャールズもオーネットコールマンもライトニンホプキンスもつまるところ同じ音楽なのだと強烈に実感できるのである(略)それなのにわれわれは何としばしばコルトレーンとライトニンホプキンスの間に強いて違いを見出さないと気が済まないのだろう。」

「(略)ニグロの音楽は形において違いはあっても、ブルースという共有財産をエッセンスとして発光させているが、そのブルースも、もとを正せば、さまざまな民族遺産の混合から発酵したものである。とすればブルースピープルはワールズピープルなのであり、(略)世界にはブルースと呼ばれることがなくても、ブルースに酷似した音楽が存在しているに違いない」

「(略)ジョンはこの世界の全ての物は動かしがたき相互関係を持っていることを痛感させられたのであった。そしてジョンはひたすら吹いた。(略)この時、ブルースメロディは激しく自由な方向へと動き始めたのであった。そして聴衆はブルースメロディが本質的に<自由>なものなのであり、<世界>と階調を保ちながら絶え間なく生成していくものなのだという事を知ったのである。ジョンのサウンドする(原文ママ)あの叫びは本質的に<世界>への肯定的賛歌なのである。」

細分化したアフロアメリカンのあらゆる音楽ジャンルがすべからくブルースを源に発生しているという一般常識をより徹底認識し、表現やそれにまつわる批評や好みの問題に大きく立ちはだかるセクト性を乗り越える指向性が感じられる。これは根源的、且つ現在的なテーマでもあろう。確かにコルトレーンのファンでライトニンホプキンスを聴く者は少ないかもしれない。更に私のようにコルトレーンをアトランティック以前と以降に明確に区別して(差別して)聴いている‘原理主義者’も結構、多いと思う。立花実氏の批判はそうゆう諸々の‘狭さ’に向けられているのだと思われる。

表現、批評、嗜好とは小異を追う事で成立するものでもある。オリジナリティというテーマに係わる限りでは。しかし大同に向かう表現、批評、嗜好こそが質実に富む方向を約束するものである事も忘れるべきでないだろう。分かってはいるのだが、理論や概念と等しく、私達は感性の領域までもひどく固定される傾向にある。深く愛し、接するほど、意識は‘点’に向かい先鋭化し、大きな輪ではなく、小さな円を形成する同類項を求めてゆく。
革める手立てはないのか。音楽やあらゆる表現物に対し深く立ち入らず、情報を処理するが如き、軽く接するという方法はしかし本末転倒だろう。言うまでもない。

おそらくその答えは‘根源’に対する嗅覚、‘奥底’に向かって感じ入る力を磨く事以外にはないような気がする。細分化されたものにそれぞれの価値を認め、最低限の排他性を脱し、尚、表現に芯となる柱を打ち建てる。そんな底辺を保持できれば、一見、異なるもの同士の共振が多く生まれ、より根源を意識し安くなるのではないか。
立花実氏がコルトレーンとコールマン、ホプキンスを同列に感知しているとすれば、それはブルースという源を音楽スタイルの一種として共有する意識以上に、演奏者がブルースを奏する行為の奥にある感情レベル、そんな内面に関する最大公約数的な‘共通事情’を三者に対し嗅ぎとっているからではないか。確かにそんな聴き方ができれば、自らのセクト性やあふれる情報による洗脳からも脱する事が可能になるかもしれない。

私は以前、拙著『満月に聴く音楽』(06)でこのように書いた。
「コルトレーンは形態的にはジャズを演奏した。しかし彼は音楽そのものを演奏した。
音楽にジャンルがあるという事はそこに断絶があるという事だ。しかしその壁の越境と異なるものの混在のエネルギーを音楽はいつも必要としてきた。音楽は常に越境と混在によって再生してきたのだから。しかし越境と混在とは音楽の形態、表面のテクニックによる様式の事を指す場合が多い。従って越境と混在は決して最終的にはボーダーレスへとは至らず、新たな断絶へと至る。この循環の永続状態であろう音楽のしかし不変要素があるとすれば、それがブルースだ。ソウル、スピリットと言っても良いだろう。いかなる様式を纏ってもその内側に在る中核、それが音楽の善し悪しを示す一つの基準であるブルースの存在なのだ。
コルトレーンはジャズという狭いフィールドでプレイし、音楽のジャンルの越境意識はなかった。しかしジャズファン以外にコルトレーンの音楽に魅了される人が多いのは事実である。それはジャズというジャンルの許容の広さによるものではない。コルトレーンの演奏する<歌>が人間の心の領域にしかベクトルを持っていないからであり、スタイルを味わう快楽以上の深みとそれをもはや不要とするほどのダイレクト性、音→心という直接性を持つからだ。(略)音の核が一つの衣装を纏う事でジャンル化する。そしてその衣装の種類によって私達は好き嫌いを感じる事が多い。しかしコルトレーンの音楽はそんな衣装を切り裂いてこちらへ向かってくる。それを私達は裸の魂で受け止める。コルトレーンの場合、そんな聴き方しか許されないと言えば、言い過ぎか。しかし音楽に人が‘影響を受ける’事とは正にこの瞬間によってのみであろう。」

こんなご大層な事を10年以上も前に、のたまっていたものだが、その私自身が特にジャズに関しては今尚、分厚い党派主義に絡め取られているのは一体、どうした事か。ブルースを強調していた割りには私にはジャズにその様式において明確な好き嫌いが存在する。MJQやホプキンスの音楽には全く興味を示す事はない。ジョニーハートマンと競演したコルトレーンのアルバムを単にレコード会社の要請を受けただけと今の今まで疑っていない。このような意識は自説に相反した態度と言っても言い過ぎではないだろう。

立花実氏の批評は私を少しばかり覚醒してくれた。今日ではおそらくあまり知られていない、無名の批評家と思われるが、その言説は現在、とても有効なような気がする。貴重な考えだ。コルトレーン理解に関し、「<世界>への肯定的賛歌」、「<世界>と階調を保ちながら絶え間なく生成していく」という言葉に氏の神髄があるだろう。理想主義を頭上に掲げるのではなく、底辺でのラディカリズムを経てこそ至る場所と意識する感覚が窺える。最終的なポジティビティこそを表現の始まりと終わりに設定しているのではないか。

ネットで検索したら、立花実氏の遺稿集だという『ジャズへの愛着』(70)の一部が掲載されており、そこにこんな一節もあった。
<(略)「音楽は宇宙の姿を映し出したもの」だからである。音楽家は楽器をもってそれを、生き生きと映し出さなければならない。それは世界及び他者と、自己を分離せしめる自己主張によっては成しえない。>

自己主張をもはや、表現の聖域とみなさない、この音楽感性の広大さ。
ジョンコルトレーンを常に黒人闘争史観の中で位置付ける愚を使命のように繰り返す有名な<世界的コルトレーン研究家>もいるが、この論者の考えなどは立花氏の言説の前では何とも了見が狭く感じてしまう。限りなく狭い。

『ジャズへの愛着』を古本屋で捜したくなった。
著書のタイトルに‘愛着’という語を選んだ立花実氏。
分かった。この人は音楽がめちゃくちゃ好きなのだ。その<好き度指数>が半端じゃない事がかような、突き抜けた感性をもたらしているのだ。しかし35才で亡くなったとは。

写真のCDはLP『黒真珠』をフォーエバーで買った同日、ナカで買ったブート新譜CD。『黒真珠』より先に聴く。1961年のフィンランド公演。メンバーはエルビン、マッコイにベースはワークマン。ゲストにエリックドルフィ。最強の布陣。演奏も最高。音質はまあまあ。しかもこれは初出の可能性あり。よく調べてないが。恐らく。
しかしボーナストラックとして何故か時を遡ったビバップ期のデュッセルドルフでの演奏が3曲収録されている。この構成のアンバランスさがいかにもブートなのだが、まあいいかといった態度で一回目を聴く。やはり面白くない。ウィントンケリー(p)、ポールチェンバース(b)、ジミーコブ(ds)とのクァルテットだが、曲目を見る限り、おそらくマイルスグループでのマイルス抜き(何かしらの事情で)の演奏記録だと思われるが、ちょっと不明。いずれにしてもこのあたりのコルトレーンが私は普段、全く聴かないゾーン。このCDでもボーナストラックに入るや私のテンションは途端にトーンダウンし、聴く態度すら変わってくる。家のチビ娘が持ってたサッポロポテトを「パパにもちょうだい」と言ってバリバリ食べたり。ナメてんのか。しかし『黒真珠』の立花氏の解説の読後、二回目のリスニングで私は膝を正した。コルトレーンのサックスに集中する。
浅はかな私が気がつかない美しい歌をそこに発見できた。
全く聞こえなかった歌=ブルースを。

2008.1.25


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RADIOHEAD  『In Rainbows』(CDR)

2008-01-22 | 新規投稿
    

マガジンの曲のフレーズを借りて変形させた2曲目。この安易な楽曲がこのバンドの本質を象徴している。いい曲が書けないバンドなのだ。

好みではないが「creep」には芯となるメロディ=歌があった。以降、作曲能力の限界と共に音響に走るというスタイルを貫いているのがこのバンドの姿なのだと思う。
『In Rainbows』は以前のエレクトロニカ路線から一見、‘歌’へ回帰したような曲が並ぶが、核となるメロディがない。一つ一つのフレーズやリズムパターンに瞬間的に引き寄せられる緊張感がないわけではないが、それも極めて稀少。
音色の変化による劇的な場面転換も原曲の平坦さを補うに至らず、精神の暗部を振り絞るような様相を見せるボーカルや、大仰なストリングスアレンジも<核なきメロディ>を過剰に装飾する技法のような感触がある。楽曲の様式より多分に'内面重視'派と自覚する私でも許容範囲を超えた<わざとらしさ>がある。いい歌は全くない。音響操作という過剰な‘アレンジ’があるだけ。絶望感や深刻度がもはや足らないのか。それが命のバンドだ。

問題意識の深化がアーティストの原形をつくり、技巧をものともしない表現の爆発性を生む事がロックではよくあり、そこにそこロックの醍醐味はあった。音楽至上主義はロックを希薄にさせる。むしろロックとは精神と同義であり、もはや音楽の範疇で捉えることができない事が永いロックへのシンパシーの要因である事は間違いない。
しかし同時に音楽性の昇華の中には内面性というコンセプトは不要と実感させるものが多くあるのも事実。楽曲そのものの中に多弁な思惟や哲学、感情、問題意識が内包されたもの。アーティストが語らずとも音の中で表現し得る‘精神’こそに、よりリアリティを感じる事が多い。そんな時、翻ってロックアーティスト特有の多弁は胡散臭く感じられるものだ。

ポストプロダクションとはある意味、創意の溶解と表裏一体なのだ。それが時代と言えばそれまでだが、確実にミュージシャンを弱体化させ、アーティスト気質の過剰評価を生んだ。プロデューサー、ナイジェルゴッドリッチはレディオヘッドの本質=限界を理解した上でサウンド構築を施しているのだろう。

全曲ダウンロード発信なんて、どうでも良いこと。話題作りじゃないのか。(その後、CD出してるやん。)むしろ流通などに関心が向かう、その拡散する意識にロック的シンパシーを感じない。

2008.1.22


 
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TIKEN JAH FAKOLY 『THE AFRICAN』

2008-01-16 | 新規投稿
   

‘西アフリカのボブマーリー’と称されるティケンジャーファコリーの新作。レゲエがレベルミュージックとして機能する背景を嫌がおうにも多大に残すアフリカ。ラッキーデューベ射殺のニュースを知った前後、このCDを買った。

レゲエが世界音楽たりえたのは、ルーツレゲエの‘レベルandポップ’性やダブの音響技法全体への影響力にこそあるのであって、あの下らない当世流行りのダンスホールレゲエの人気にその要因があるのではない。言うまでもない。ティケンジャーファコリーはサウンドやメッセージ、大衆性においてもピータートッシュ直系のレベルミュージックそのもの。新作『THE AFRICAN』はポピュラーミュージック仕様だが骨太さは不変。怒濤のように前進する重いサウンド。しかもポップ。こんなレゲエしか聴きたくはない。最高。

『THE AFRICAN』は汎アフリカ意識を前面に出した作品だ。しかし、そこに対立概念は感じられない。音楽的に成熟し、完成されてるせいか、メッセージソングが闘争ではなく調和を志向する気配がある。従って音楽が閉じず、広範囲に届く条件を満たすものとなっているようだ。とにかく曲がいい。演奏、アレンジ、音質、それらが全部いい。大事な事だ。反抗ロックでコンセプト倒れなのや自意識無限大のメッセージソングに‘勘違い’を感じる事が多いのは肝心の音楽が陳腐な時だ。‘表現したい事’が音楽性より肥大してはならないのだ。音楽はまず、音楽性ありき。当然だ。

反共政策の一環として特権的貿易関係を享受できたフランスの旧植民地、コートディボアールは東西冷戦の終結と共に、旧宗主国フランスから保護政策を打ち切られる。その後の混迷は図らずも多くの人々が民族意識を高めるきっかけになったのだろう。
ティケンジャーファコリーは自国の足下のテーマを歌う。しかし曲名を見る限り、その表現意識はもっと遠くを見ているようだ。2曲目「国境を開けろ」ではおそらく、問題意識が絶望感を生み、そこから更に思考を発展させた形での全アフリカ的連帯への夢想、戦いへと至っている。7曲目「割礼はダメ」は旧習と人権意識の狭間の問題が提起され、それは全アフリカの現代性を問うものだろう。

CDのライナーは田中勝則氏による丁寧な解説。しかしフランス語歌詞の訳詞は載せて欲しかった。言葉の力を発声レベルで体感しながら聴き、踊りたい音楽だ。
民族楽器を程よくスパイスとした『THE AFRICAN』。ホーンアレンジも最高。ソングライティングの能力が並でないのでヒットシングルが出る可能性もあるね。しかし今後、もっとサウンド的にアフロ色が出る事を期待する。フェラクティのような長大な反復演奏も聴いてみたい。何でもできるバンドだ。最高で最強。銃を持つメンバーのジャケットも最強。

2008.1.16

 
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藤井郷子クァルテット  『Bacchus』

2008-01-15 | 新規投稿


意外な人(ベーシスト早川岳晴)を意外なところ(自転車雑誌「ファンライド」)で見つけたのは5年くらい前の事。私自身もロードバイクにハマッた頃でもあり、「そうか、あの超合金ベースプレイはやっぱり自転車の有酸素運動の賜であったか。」と感心したが、ホームページを見てその本格的レーサーぶりに更にびっくり。週末のレース参戦、心拍トレーニングやレースリザルトなどが克明に記録され、体調の自己管理意識、勝負に対する準備の感覚はもはやプロ級。特にヒルクライムに強いようで、更に尊敬。

タフネス早川岳晴の演奏の力強さに象徴される藤井郷子(p)クァルテットは彼女の数あるプロジェクトの中でも最も外向的エナジーの強いユニット。何せドラムがあの吉田達也(ds)。早川との超ヘビイ級リズムセクションはもはやメタル感覚の気持ちよさ。『zephyros』(03)は全ての音楽ファンが聴くべきパワーミュージックだった。

新作『Bacchus』も嵐のように吹き荒れる変拍子プログレジャズが展開される。
ただ、これまで以上にピアニッシモが随所にあり、ダイナミクスが増している。音の強弱感が楽曲に深みをもたらしている。また、四人のソロが強調され、曲のメインテーマ意識の拡散に向かっているようにも感じる。元々、リフやリズムパターンの強度のみで楽曲を組み立て、ジャズらしきテーマを設定せずとも、濃厚なテーマを感じさせる力量が藤井郷子オリジナルの特徴だったわけだが、それが今回、より顕著になった。

藤井郷子にとってテーマとは決して明確なメロディのみを指すものではない。印象的なフレーズと同等にリズムパターンや音の間さえも何らかの‘想い’から発せられる彼女の<歌>であると感じる。

藤井郷子の内側から生み出される歌。その指先から発せられる多様な歌がリズムセクションの響きの末端まで浸透し、リード楽器による歌とリズムセクションによる歌が本当の不可分なものとして存在するようなインタープレイが繰り広げられる。今回、吉田達也のドラムがいつになくジャズ的スウィング感を醸し出す場面が多い事も四つのパートの‘均等性’をもたらした要因かもしれない。藤井郷子クァルテットは4等分化したパートの均等的合体感を実現した。

藤井郷子はオリジナルしか演奏しない。カバーやスタンダードを演奏する藤井郷子を私はイメージできない。この人の演奏に楽曲と戯れるような意識は皆無だろう。ある‘想い’をぶつけるようなスタイル、そんなロック的、衝動的なものを感じる。内面的なのだ。リリシズムも、ある意味、ルサンチマンもある。怒りさえも。そんな多様な精神状況を反映させながら、そこに音楽至上主義的な構築意識を徹底させる。初期衝動というロック的感性を保持しながら、音楽の外形的完成度こそを目指すのだ。
このクァルテットの緻密なアンサンブルはもはや複雑でもある。しかしこれは決して音符の遊びではない。<必然的>な音楽だ。それを強く感じる。このような難易度の高い楽曲を作る藤井郷子の内面とは果たして。

早川岳晴は自身のホームペイジで、このグループを以下のように紹介している。<ワールドワイドに活動するめおとFreeJazzコンビにルインズの吉田の衝撃ドラミング。曲がムズカシイのが悩みの種。ええい、ディストーション踏んじまえ! >

体力と技術を要する名人のみが演奏が可能な藤井郷子作品。彼女の内面世界の深さと欲が、それを要求する。早川岳晴レベルでも決して手を抜けない。彼はロードバイクでひたすら鍛え続けなければなるまい。

2008.1.14
 
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レッドツェッペリン 『永遠の詩(狂熱のライブ)~最強盤』

2008-01-11 | 新規投稿
 
三ノ宮のビック映劇に向かって自転車をこぐ30年前の自分を思い出す。『狂熱のライブ』と題されたレッドツェッペリンの映画が封切られたのは77年。パンフレットは今も持っている。動くツェッペリン。その衝撃たるや。一般にはファンタジーシーンの挿入が不評だったと記憶するが、中三で坊主頭の私にとってそんな事は全く問題ではなかった。四人のカッコ良さ。神々しさ。演奏の凄まじさ。映像の美しさと巨大な音にただただ、慄然とするしかなかった。「熱狂」じゃなくて「狂熱」。よく分からなかったが正にそんな感じだった。

しかし中学・高校時代、私の悩みは深かった。何が?
セックスピストルズとツェッペリンを何故、同次元に聴いてはいけないのか。いや、誰も駄目とは言わない。ただそんな奴はいなかった事が私を孤立させていたのだ。アーカイブ時代である現在、今でこそロックファンの多くはジャンルを隔たりなく聴いている。何もかも一緒くたに無節操にジャンルを越境している。ポリシーがないのは今のやつらの特徴だが、広く聴くのは良いことだ。しかし当時はそうではなかった。パンクファンは絶対、オールドウェーブは聴かない。そしてその逆も同様であった。頑なにポリシーを貫いていた。ディスヒートが登場した時、‘キングクリムゾンとセックスピストルズの断絶を埋めるバンド’と評された。しかし私にとって両者は<断絶>などしていなかった。両方好きな私はおかしかったのか。ポリシーがない奴だったのか。

「そんなしょうもないのしか聴かへんの?」
トーキングヘッズやB-52sが好きな奴が教室でフロイドやジェネシスのLPを持っていた私にこう言った事を覚えている。私がヘッズも大好きだと応えると、そいつは‘あり得ない’という顔をした。
「ツェッペリン!?保守党支持のバンドじゃないですか!」
こう言い放ったのはクラッシュ命の年下の奴。おまえは英国民か。
かと思えば、ジェフベック、リッチーなど好きな奴は、私が貸したダムドを「なんでこんなヘタなん、聴くの?」と言う始末。あのなあ。

ロックが現在進行形の時代だったのだ。
そこには必然的な歴史があり、‘唯物史観’による進化がある。セクトが生まれ、主義、主張はぶつかり、闘争しながら発展してゆく。多くのロックファンはセクショナリズムに拘泥されていた。ある物語が信じられ、一つのバンドを好きになる事とは一つの個人主張であり、態度表明だった。そんな大げさな。いや本当だ。

ニューウェーブ勢はオールドウェーブを毛嫌いし、攻撃した。過去を否定する事を使命と考え、それがアイデンティティーの確立であったわけだ。しかし、様子が少しずつ変わり始めるのを私は見逃さなかった。ポジティブパンクと称されたサザンディスカルトがディスカルト、更にカルトと改名し、「ツェッペリンがずっと好きだった」と表明した頃から、シーンの空気が変わる。「いや、実は俺も・・・」というアーティストが多く現れたのである。あの時代、「ツェッペリンが好きだ」と公言するには勇気が必要だった。マンチェスタームーブメントの頃からオールドウェイブ再発見が始まったと思う。長髪も増えた。

90年代にロックはアーカイブの時代に入った。
ロックの創造が停止し、遺産配分による制作時代に移ったのだろう。ジャーナリズムも根拠を失い、やたらカタログ雑誌が増えたのはこの頃からだ。若いリスナーは今では77年に起こった断絶を実感できるはずもない。パンク以前と以降の風景の違いは絶対的だった。その相違を感じる事ができない幸運が、逆に偏見なしでその前後の音楽を分け隔てなく聴ける要因になっているのだ。良いことだ。今の‘カテゴライズ’とは表面的なもので、ある‘主張’ではない。従って観念の邪魔によって感性の領域が固定される事がない。無節操な聴き方と裏腹に、それは感覚の拡大を可能にするはずである。

ポリシーなきリスニング時代。それはロックがアーカイブの時代に入った証明でもあろう。全てが相対化され、平坦なものの上にある。懐古の対象となったロック達にそれぞれの位置付けが与えられ、他人事のように評価され、鑑賞される。よく言えば客観的という事。思い入れは削除され、今のものと過去のものが並列に享受される時代に入っているのだろう。

しかしだ。くどいが、
詰め襟学生服時代の私の悩みは深かった。本当に。ツェッペリンに感電していた私は、それをパンク、ニューウェーブという現在起こっている事態に結びつけようとしていた。お節介にも両者を仲介しようとしていた。どちらにも感電していた。節操がなかった。多分、私はある種の‘感激屋’だったのだろう。今でもそうだ。純粋なんだ。ああ。だから音楽だけは飽きた事がないのだ。めでたい奴だ。
私はツェッペリンとパンク、ニューウェーブとの関連性、連続性にこそ関心がある。あれから30年。今こそそれが探られていい時代になった。当時、少なくとも『狂熱のライブ』の映像に『ラストワルツ』に感じたような古さ、ダサさを私は感じなかった。長髪、ベルボトム。その違和感は音楽のエネルギーと四人のこれ以上ないという色気、オーラが打ち消していた。ツェッペリンだけは有無を言わせない存在だった。別格であっただろう。

拙著『満月に聴く音楽』で私はツェッペリンをキングクリムゾンと並列に論じた。エネルギーが質量共に同等であるという私見によるものである。ツェッペリン派とパープル派の論争も今は昔話。その無意味さは今日、歴史が実証済み。私はむしろツェッペリンのニューウェーブとの関連性、連続性にこそ関心がある。
あの深い断絶の背後にエネルギーの相互関係があったと思っている。初期衝動においてではない。その音楽構築の密度の影響においてである。

パンク、ニューウェーブを大雑把に分類すると以下になる。(マンチェ以前)
初期衝動短命型 ピストルズ、イーター、ホットロッズなど
英雄主義延命型 ジャム、クラッシュなど
大道芸的継続型 フォール、シャム69、ラモーンズ、ダムドなど
音楽解体深化型 PIL、ポップグループ、ディスヒート、ワイアーなど
幻影追求深刻型 バンシーズ、ジョイディビジョン、バウハウスなど
大衆娯楽進化型 キュアー、ウルトラボックス、バニーメン、U2など
原始律動舞踏型 Kジョーク、サーティンレシオ、RR&P、ON-U、など
叙情主義内面型 ドュルッティコラム、ヤングマーブルジャイアンツ、など
前衛電子実験型 TG、キャブス、Fリザーズ、クロックDVA、など
音楽構築完成型 ストラングラーズ、マガジン、XTC、ダムドなど

私は最終的に音楽構築完成型に分類されるバンドがニューウェーブの進化の形と見る。つまり過去否定のイデオロギーが支配した中で、むしろ先達の古典から連なる意識と音楽性そのものを追求するその完成度を志向するものである。初期衝動を基底に持ちながら、ノンミュージシャンがミュージシャンへ変貌する音楽群。ツェッペリンがニューウェーブとエネルギーの共通共有できるのは、ここにある。ストラングラーズのパンク、ニューウェーブシーンの中での誤解のされ方も、ツェッペリンが70‘sハードロックシーンの中で位置付けられた過ちと共通するものだ。
ツェッペリンとストラングラーズ。両者の祖、カテゴリーはどこにあるか。私はそれをブリティッシュポップミュージックという大枠であると考えている。従ってその祖先はビートルズにある。(ブルースの基盤とその溶解という意味でも)それに連なるものとしてのツェッペリンがあり、同時代的類型としてクイーン、クリムゾン、ロキシー、10CC,などがある。そして更にそれに連なるものとしてのストラングラーズ、マガジン、XTCがある。
ツェッペリンはパープルは勿論、他のヘビメタ、ハードロックバンドとも何の共通点もない。強いて言えばハードロック的陶酔が一つの要素としてツェッペリンの音楽性の中にあるというだけの事。その意味でジミヘンとは共通する。

レッドツェッペリンの万華鏡的音楽性、その音楽構築度はニューウェーブの音楽進化、完成型の在り方と共振する。私が坊主頭時代に感得したものはその‘作品性’としての共通項だった気がする。ツェッペリンの楽曲を改めて一つ一つ聴くがよい。その緻密な構成や行き届いたアレンジ、旋律美とブルースやトラッドを基盤にした奥深さ、それらを総じてのポピュラリティにこそ魅力があり、演奏の強度と楽曲の輝きが両立している事が分かる。
そんな娯楽作品性がある。そしてストラングラーズの『black&white』(77)、『aural sculpture(音響彫刻)』(85)という二大傑作、マガジンの歴史的名盤『secondhand daylight』(79)等の音楽的完成度はツェッペリンの建築的美学に共通するエネルギーであると理解する。

『永遠の詩(狂熱のライブ)~最強盤』は未収録の6曲を加えたリマスター盤。既存のナンバーも微妙にトラックが差し替えられており、あの擦り切れるほど聴いたLPも様々な編集が緻密にされていたのだなと今になって発覚する。マイルスデイビスと一緒だ。即興パートの多いライブでのツェッペリンは編集を施して最終的に完成する。作品第一主義をツェッペリンの面目躍如と見なすべきだろう。「ocean」でのジョンボーナムの雄叫びとクレバーな音楽建築が織りなす最高音楽。正に最強だ。


<追記>   LED ZEPPELIN  2007.12.10再結成コンサート音源(CDR)


ジョンボーナムは16でジェイソンボーナムは8なのだな。
この差が実は、めちゃめちゃ大きい。復活ツェッペリンはやはり、レッドツェッペリンたりえない。しかし。
確かにショーにしては凄い演奏だ。今のロックが慢性エネルギー不足なのを考えると、ここで繰り広げられる音楽のなんと独創的な事か。こんな音楽、今のどこにもない。異端性すら感じる。圧倒的だ。遂にやってくれたな、ジミーペイジは。過去、何度かあった中途半端な再結成やつまらないソロやデュオやらの無惨をここで晴らしている。多分、ジョンポールジョーンズがキーだったのだ。彼が従来のグルーブを取り戻し、ジェイソンのリズムタイムを理解した。ペイジ、プラントは安心して乗っかっている。何とかバンドの形になった。

しかし。
聴けば聴くほど、ジョンボーナムの偉大さを想起するのは致し方ない事か。親父のドラムを忠実になぞる息子。内的リズムに決定的相違がある。親父は手で8を鳴らしながら体は16を刻んでいたんだ。時には4すらも。対し息子は明確な8でしかない。ここにドライブ感覚に百万光年の差異が生まれる。一介のスタジオミュージシャンのジミーペイジがすごい楽曲を完成し、<音楽家>たり得たのは、ジョンボーナムがいたからという理由以外にない。ジョンボーナムの位置はバンドの指揮者だった。

ジェイソンボーナムが親父離れして、独自のグルーブを創出した時、レッドツェッペリンは奇跡の第二幕を自力で開けるのではないか。可能性はあると思う。私はここで演奏される「nobody’s fault but mine」の凄まじさに涙腺がゆるんだ。なんだこれは。すごいドラムのパワーだ。バスドラとベースのシンクロもすごい。力だけは親父譲りなんだな。やってくれ、ジェイソンボーナム。ジョンポールジョーンズと二人でスタジオで特訓するんだ。親父の幻影を振り払うオリジナルリズムを作ってくれ。

ペイジもプラントもツェッペリンの影を振り払う苦難の旅の無意味さに気づいた筈だ。ツェッペリンやるしかないのだよ。ハードロッカーでもないのにハードロックをやり、モロッコ好きだからといってワールドミュージックやる無惨な姿を晒す無自覚に終止符を打つ時がきた。ツェッペリン時代からマイペースで無頓着なジョンポールもアンビエントや映画音楽なんかもう、終わりにしよう。充分だ。世界一のベースを眠らせるんじゃないよ。三人とも、レッドツェッペリンやるしかないのだよ。それが宿命なのだ。次はセルフカバーじゃなくて、新曲だよ。絶対できる。ここでの演奏、こんな強烈なエネルギーを発しているのなら、その可能性を誰もが感じるはず。やってくれ。そして第2の『presence』を作って来日し、36年前の大阪での伝説の4時間ライブをもう一回、やってくれって・・・
これじゃあ、まるで「dazed and confused」だね。でもあり得るかも。

2008.1.10

 
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