満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

木村文彦 Kimura Fumiiko live@水道橋ftarri 2013.2.10

2013-02-20 | 新規投稿
  
鳴りやまぬ拍手。
それは殆ど、スタンディングオベーションと云った様相でもあった。
木村文彦の初の東京公演のソロセクション終了時のオーディエンスの反応は私が目撃した地元、関西での数々の公演の反響を凌ぐ歓喜のようであり、それは感動と驚きの表現であったと感じる。このライブを企画していただいた鈴木学氏は作成したフライヤーの中で私が書いた<東京のオーディエンスは木村ショックを受けることになるだろう>というコピーをそのまま記してくださったが、それは現実のものとなったようだ。

私は今回の東京公演の前、木村から二つの相談を受けた。それはソロを最初にやるか、最後にやるかという事、つまり今回のライブ構成は木村のソロ、秋山徹二(g)、池上秀夫(b)、鈴木学(electronics)の3人の演奏、そして木村を加えた4人の合奏という三部構成だったのである。私の答えは「ファーストインパクトの必要性ゆえ、当然、最初」であった。
もう一つの相談は、「スティックなしで音を出すやり方を最近、多くやっているが、それを東京でもやるべきか」という内容のものであった。それは身体表現に傾斜してゆく最近の木村の表現形態を元の打楽器奏者としての形に東京では戻すべきかどうかという自己問答でもあったと思う。確かに数日前に観たデカルコマリイ(怪人と異名を持つ身体表現者、舞踏家)とのデュオに於いて木村は演奏家というよりも音を出すパフォーマーといった姿を見せていた。風船、新聞紙、鎖、綱などをスティックの代わりに駆使し、元より様々なモノ叩いていた木村が正に<様々なモノを様々なモノで叩く>といった観に変化してきているのだ。。「スティックなしで音を出すやり方でいいかどうか」という木村の自身への問いかけの本質は身体表現と音楽演奏のバランスに関する客観的な評価に関するものだと思った私は、「スティックや素手との時間配分さえきちんとしておれば、何をやってもいいと思います。確かにエリオットや臼井さんとの木村さんの演奏は今の到達点から見ると物足りなく感じるほど音楽的過ぎると言うか、即興音楽というジャンルに収まりすぎていると感じます。シアトリカルな表現世界が昨日は良かったです。照明を暗くしてある雰囲気の中でソロを展開してほしいです。そして私の一番の希望は気品というかある種の高尚さなんです。昨日はそれがありました。だから楽器のセットの視覚整合性の美しさは大事なんです。綱も良かったですね。そこには儀式的な緊張感もありましたし神秘的で良かったです。今回は初めて見る人ばかりなので、最初は神秘や劇的なインバクトが個人的には期待しながら合奏ではテクニカルかつユーモラスな局面も時折ほしいかななどと思っています。」とメールの返信を打った。

さて、その木村の演奏内容であるが、昨年、リリースしたアルバム『キリーク』を評価していただいた批評家の北里義之氏も会場に足を運んでくださり、その精緻なレポートと論評を自身のサイト「nwes ombaroque」で展開されており、私の私情の入った文などより、当然、客観的な批評となっているので、それを読んでいただきたいと思う。

私はむしろ、公演の一端を垣間見ていただきたいと思い、ダイジェストの動画を作成した。北里氏が書いておられる「灰色のボックスのうえに楽器を乗せてたたいたり、ボックスを開けてなかでなにかをしたり、そのあたりをウロウロしながら、手に触れたものを手当り次第にたたいていくといった印象」の「なにかをしたり」が何なのかが、判明します。

2013.2.20
木村文彦 Kimura Fumiiko live@水道橋ftarri 2013.2.10



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