満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

JOHN McLAUGHLIN 『The Essential』

2007-12-18 | 新規投稿
   
この人のCDを 一体どれだけ買って、どれだけ売っただろう。
トップクラス級に好きなミュージシャン故、出る音源は全て買う。しかしその大半を売っぱらうというのは、そのアルバム各々が私にとってこれほど好き嫌いの落差が激しすぎるミュージシャンもいるまい。

私はジョンマクラフリンをギタリストなどとは思ったこともなかった。その音楽には妖気、あるいは霊気が充満しており、彼の楽曲、演奏からはシャーマンのようなトータルアーティスト、マイルスやコルトレーン、ディランに共通する霊媒師的資質こそを感じていた。
80年代以降のマクラフリンは霊気が消え失せ、単なるギタリストになってしまったと言えば、ファンに怒られるだろうか。私はマクラフリンの早弾きやギターテクには何の興味もない。もっともマクラフリンには<早弾きの為の楽曲>などは辛うじて存在しない。だから興味を失わず聴き続けるのだが、私の好みで言えば、80年代以降、その音楽フォーマットが陳腐なものになっていった。どんなスタイルを構えようが、その演奏意識が結局、<ギタリスト>を越えなかった。私が想起する以上にマクラフリンの本質はギタリストだったのだろう。エレクトリックとアコースティックを恣意的に使い分け、そこに別の表現形態をコンセプトにするのも、マクラフリンがギターという物体に捕らわれたミュージシャンだった事を強くイメージさせるに充分であろう。

しかし70年代マハヴィシュヌオーケストラやシャクティに於いて彼はそれぞれをエレクトリック、アコースティックという形態の違いで意識していたであろうか。私はしていなかったと思う。マハヴィシュヌとシャクティは様式の違いを超えた<音楽>で彼の中で一体であった筈だ。70年代、マクラフリンはギタリストではなく、音楽家だった

本来的なギタリストがシャーマニックな音楽家に変貌していた70年代。スリチンモイに師事し、インドに傾倒する時期と重なるのは偶然ではない。
私はもはや、時代性にこそ関心がある。あの時代の何が、多くのミュージシャンをスピリチュアルな存在へ導いていたのか。ミュージシャンが内部から精神性へ至るのでなく、私には時代のマグマ、エネルギーが作用して楽器演奏者に精神のオーラを与え、際立つ光を放っていたようにイメージする。単なる楽曲に妖気が立ちこめ、霊感がビンビン響く。そんな音楽性を可能にした時代だったのだ。
マクラフリン以外にもジョージハリスン、サンタナ、スティーブヒレッジ等、あの<3分>マークのインドかぶれのアーティスト達は皆、その時代が過ぎると、垢が抜けたように普通のミュージシャンに戻り、世俗化している。

初期マハヴィシュヌやマイルス時代、ライフタイム、シャクティ、それらはマクラフリンにとっての神憑り的時代だった。それは一時の夢であったか。

2枚組CD『The Essential』はジョンマクラフリンの歩みを辿る入門編。それは彼の揺れる魂の変遷、彷徨の赤裸々な記録であり、内面の正直な変化、俗化への無惨な、しかし幸福な変貌への物語だと感じる。

2007.12.18


  
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あがた森魚  『コンサート 永遠の遠国at 渋谷ジャンジャン』 

2007-12-11 | 新規投稿
 
「赤色エレジー」を幾分、クールに歌うあがた森魚をテレビで見つけたのは去年だった。以前の‘震えるような泣き節’を緩和させたような歌い方は、原曲の情念を残しながらも、湿っぽさをせき止めるような意識を感じさせ、イメージの一元化を許さない多彩さを併せ持っていたように思う。‘垢抜けた’とは言わないが、古典を客観視するような醒めた感覚が新鮮であった。

ヴァージンVS(81~87)はあがた森魚の<泣歌の時代>の終わりを意味していたのか。そうじゃないと思うのはヴァージンVSの原型と言える『乗物図鑑』(79)の中に収められた一曲「黄昏ワルツ」の強烈な叙情パワーの衝撃による実感だった。当時、<情の世界>を排し、<プラスティック>なる精神を説いた阿木譲=「ロックマガジン」誌のレーベル‘vanity’からリリースされたニューウェーブアルバム『乗物図鑑』においても、あがた森魚は叙情を封印せず、全開の泣き節をたった一曲に籠めた。当時、確かプロデューサー阿木譲は「方向性に行き詰まり悩んでいたあがた森魚に対して道を示した」と語っていたと記憶するが、あがた森魚当人は『乗物図鑑』以降、叙情を脱したのではなく、クールネスとのバランスを獲得していったのだろう。「黄昏ワルツ」はあがた森魚の譲られない意地だったであろうか。
「方向性に行き詰まり悩んでいた」のは77年から着手した大作『永遠の遠国』制作の資金難にも絡んでの苦悩だったようだが、その自主制作3枚組LPの完成が8年後の85年。私はこの渾身の力作を2000年のCDリイシューで初めて聴き、感動した。そこにはあらゆる物語が万華鏡のように展開され、もはや叙情、泣き節がSFと共存するような自然界的音楽の境地のように思えた。しかもスピードとリズムがある。『永遠の遠国』が『乗物図鑑』やヴァージンVSを挟んで長期に渡る制作になったのは、あがた森魚の終わりのないイマジネーションの拡散が作品の早期完結を不可能にしていたと見るべきではなかろうか。故にそこには『乗物図鑑』のプラスティック、ニューウェーブ感覚も「赤色エレジー」の日本浪漫、叙情も隔たりなく同化する全方位感覚とバランスがあった。

『永遠の遠国』を聴いて私はあがた森魚を順番に聴き始めた。
感じる事はこの人の終始一貫したバランス感覚だ。
フォークからニューウェーブ、後のワールドミュージックへの接近という表面上の変化、流れは一見、時流を後追いする姿にも映るが、肝心なのはその立ち位置が微妙にズレている事だろう。時流に合わせるのではなく、意識的にズレながら進行し、常にオリジナルを確立する。その時々に創作したものが、同時代性を越えたものになっているのは全く素晴らしい事だと感じる。フォークと括られた「赤色エレジー」や『ああ無情』(74)の脱ジャンル性、歌の普遍性は疑う余地なきものだし、チープニューウェーブらしからぬヴァージンVSの宇宙感覚も80年代当時、正しく評価されていたとは思えない。少なくとも私には当時、全く理解できず、正直、嫌いだった。(「ロックマガジン」誌の付録ソノシートで聴いた「恋のラジオシティ」も「しょうもな」と一蹴した事を覚えている)

あがた森魚の歌声の魅力、歌の上手さがその音楽性の重みを保証しているような気がする。
歌のうまさ、ずば抜けた表現力が、あらゆるスタイルを彼の構成力の一端としての客体に位置付け、様式の軽さを排除している。始めにイメージありき、そして物語を構築する。その基本を上手い歌で支え、貫く事で、時流を越える作品を生み出しているのだろう。
私は特に初期のアルバムを愛聴しているが、そのすすり泣きから号泣まで、幅が広い泣き節にはぐいぐい引き込まれてしまう。

『コンサート 永遠の遠国at 渋谷ジャンジャン』は大作『永遠の遠国』制作期間中、78年に行われたライブの発掘音源である。理想郷を静的に並べる作品性が、生身のライブ感覚で一旦、地面まで降ろされる。泥まみれになった歌達が運動し、洗われてゆく。あがた森魚の歌の力は、物語の濃厚さをその歌う行為の重さそのもので越えてしまう。あがた自身の物語こそが聴く者の眼前に現れ、迫り来るようだ。
威厳性を醸し出す歌。それこそ子供のように「びえーん」と泣いてるような歌。そのどれもがとてつもなく美しい。
<遠国>は‘おんごく’ではなく‘えんごく’と読む。理想郷への憧憬、その距離感を強調するものだと思われる。

2007.12.11

  
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STEVE HILLAGE   『GREEN』

2007-12-04 | 新規投稿
      
LP で持っているものをCDで買い直す習慣は私にはない、と以前書いた。が、System7の新譜を買ったついでに手を出してしまったのは学生時代に聴き狂った大好きなLPのデジタルリマスターCD。ボーナス付きだし、LPは実家だしと自分に言い訳をする。紙ジャケ商売に荷担した己を悔いつつ久々に聴いたが、やはりSystem7よりインパクト強し。ああ。

70年代プログレ勢の中で90年代以降のシーンの中で特別な存在を示す事になったのはクリムゾンやマグマ、アレアではなく、GONGとCANだった。CANはパンク、ニューウェーブを経てクラウトロック、ポストロック等と称されるものを含んだ全ての先端的とされる音楽群に影を落とし、GONG はテクノやスペイシーな音響もの等の先祖と言うより、シーンの中核として現役の影響力を発信し続ける存在ですらある。
GONGの代表作『YOU』(74)を色んなテクノアーティストがリミックスした『you remixed』(97)から更に10年が経過し、レイブカルチャーはダンスからチルアウト、室内鑑賞エレクトロニカ、アンビエントへと拡散している。そこには確実に70年代プログレ、サイケデリックから連なる者としての意識があり、相変わらずGONGはその筆頭で崇拝を受けているようだ。<宇宙音響>を奏でた事でグループの未来は約束された。回顧の対象ではない普遍性を獲得したのだろう。その意味でGONGは今も現役である

GONGでその<宇宙音響>を担当したのは後にSystem7を始めるスティーブ・ヒレッジとミケット・ジローディではなくティムブレイク(synthesizer)だった。が、70年代中期以降、ヒレッジはソロ活動を活発化させ、『GREEN』(78)も一連のソロワークに位置される。これはSystem7によるテクノ期以前のプログレフォーマットでの活動期であり、ジャズロックやファンクの要素にギターシンセによる音響リフ、そしてティムブレイクの演奏の影響下にあると思われる<宇宙音響>を加味した作風であった。
ただ、ヒレッジ、ジローディのコンビが90年代以降の世代からリスペクトされる要因は、その<宇宙音響>の音楽技術的手法によるものではなく、人そのものが自由精神を備えた本物のサイケデリックカルチャーの持続的体現者である匂いを感知された本質が大きいと感じられる。ヒレッジはGONGのリーダー、デヴィッドアレン、ジリスミス(spacewhisper)に類似するアーティストだった。宇宙というイメージを表現するのではなく、存在自体が宇宙人のようであった。

<宇宙>を奏でる資質とは放浪精神やあらゆる引力に抗う自由の体現者だろうか。確かにデヴィッドアレンなどは故国を出てから無国籍の放浪者として世界を旅し、その徹底した自由主義を貫いている。アレンにあって音楽表現は瞑想に代わる自由獲得への秘儀であり、他者との連帯、友愛のシェアだ。サイケデリックは権力機構を拒み、或いはヒーピーイズムの敗北で現実には体制に組み込まれながらも、生活意識としての世界性、宇宙性が国籍や政府への帰属意識を勝ってはいるだろう。闘争ではなく時間軸への流浪を生き様にした旧ヒッピーの精神的自由度はその後のレイブカルチャーやインターネット時代になり、図らずも横の連帯志向として発露し、ゆっくりと社会変容へとつながっていると言えなくもない。<宇宙>を奏でる事は確かな変革、変容を用意したのだろう。
そこではやはり、強度が必要だ。本物が必要だ。アレンやヒレッジが演奏する<宇宙>はいわば内的宇宙と外的宇宙の合一性の表現だった。そこが安物SFまがいのプログレや疑似宇宙テクノなどとの違いだろう。

スティーブ・ヒレッジは『GREEN』でGONG時代の傑作『master builder(創造主)』をインストで再現している。これが素晴らしい。ジャズロックの熱さと現代的な中枢神経直結型の刺激快楽も既にある。テクノ感は充満していたのだ。早くから。サイケデリックの快楽を直角的なリズムと意識を攪乱させるような刺激音響、そしてフラワー思想溢れるメロディアスな優しさの均等的世界に求めていたのだろう。この時期、ヒレッジは見事なバランスなのではないか。

現在、ダンスのSystem7、チルアウトのMirror Systemとフォーマットを使い分け、もはやギターは70年代的象徴の遺物としか捉えないような姿勢のヒレッジ。と言えば悪く言い過ぎか。そんな事を考えてしまうほど、『GREEN』は懐かしく、しかも現在的な刺激、快楽に満ちていた。内袋も忠実に再現。ただしオリジナルLPには確か『緑反射』という意味不明だが、見事な邦題がついていた。それがこのCDではジャケ帯に『グリーン』と記されている。何とも味気ない。『緑反射』という奇妙なタイトルのサイケ感覚の方が音楽性を言い得て妙なのに。

2007.12.3

  
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