満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

PORTA CHIUSA with Misaki Motofuji & E-Da Kazuhisa

2023-05-30 | 新規投稿
5/24 PORTA CHIUSA with Misaki Motofuji & E-Da Kazuhisa
OPENING ACT: H. WAKABAYASHI . 平田キト
先日zero gaugeにて行われたPORTA CHIUSA with Misaki Motofuji & E-Da Kazuhisaのライブに足を運んだのはフライヤーに認めた’微分音microtonal'の文字故だった。元々、微分音楽にそれ程強い興味があった訳ではないが、目覚めは3月に来日し一緒に演奏した若いピアニスト、Darius Heidが「so good」と言って1枚のCDをくれたのが最初のきっかけです。ライブの際、お互いの音源を交換する事多いので、てっきり自分が参加している作品と思いきや家で確認すると彼のクレジットはなくJoe Maneriと言うsax奏者の quartetによる「coming down the mountain」と言う作品である。私にとって未聴のアーティストだったがこれにハマった。ジャズのフォーマットではあるが、音の抽象度が際立ち、その起伏無き音階の進行は最初、十二音階かと思われ、如何にも取っ付き難い。しかしこの 咀嚼し難い浮遊的音響が快楽に変わるのに時間はかからなかった。ホットでもクールでも無く、ホットでもクールでもある。これはある意味、純音の極みか。saxという感情移入しやすい楽器を楽理的解釈のみで演奏しているようにも感じる。果たしてこのJoe Maneriなる演奏者、Wikipediaには〈微分音を用いた音楽について独自の理論を構築し、オクターブを72に分割した72平均律で5オクターブの音域をもつ鍵盤楽器を開発した〉とある。さもありなん。やはりこの不思議感覚のフレーズの応酬に研究体質型演奏家をイメージした私は、他の作品も聴きたくなり、CDを多数買い求めるに至る。更にそのプロフィールにはこうもあり、私の納得度は増した。則ち活動初期に〈アルバン・ベルクの弟子であったヨーゼフ・シュミットに学び、十二音技法による作曲に取り組んだ〉なるほど。私がJoe Maneriにまず感知した十二音技法的な非ー安定感は微分音によってキャリアの中で乗り越えられていったのだろうが、楽理に通じぬ一般リスナーの私にとってコンセプト過剰な十二音音楽の観念性を微分音による快楽的要素に変換させていったものに映る。
そう言えば私はいつ頃からか、十二音音楽を我がものにしようと(好きになろうと)、音源各種聴き込んだ時期があり、シェーンベルクを如何に好きになるかが、現代音楽鑑賞の幅を拡げる1つの鍵と思い込んでいた。しかしながら結果、シェーンベルクはロックでのArt Bears、特にダグマークラウゼの汎欧州的詩世界の反芻と聴けば、響くものがあり、蓋しその弟子であるウェーベルン、アルバン・ベルクの方が純音的であり、聴く事、聴き流す事ができ私は好んで聴いている。対しシェーンベルクはそれが容易でないのは恐らくユダヤ-キリスト教的観念性が濃厚過ぎるのだと思っている。抽象音楽の快楽性をそのアンビエント要素、聴き流せる自由度に求めるところ、大きければシェーンベルクは聴き流すにはあまりにも濃厚な血を有する音楽と言えようか。
さて、その意味でJoe Maneriの非観念性の音楽実験、その表現にアメリカ人故のプラクマティズムを見ること可能だが、リスナー感覚で言うと何ものも侵犯せず、ただ、そこに在る即物的音楽の雄弁な一面と無視しても構わぬアンビエント要素があり、病み付きになる快楽性は貴重であろう。
Joe Maneriを愛好し始めたタイミングで目にした’微分音microtonal'のフライヤー。私は当然のように出向いたのである。しかも知人の微分音楽研究家、WAKABAYASHI氏がフロントアクトで登場する事も注目であった。
ライブはH. WAKABAYASHI feat. 平田キトの演奏、歌で始まった。
微分音楽の理論家にて数少ない実践者でもあるWAKABAYASHI氏の穏やかなキーボードとシンガー平田キトのコラボ。インドの歌曲カバー、ジョニーBグッドの微分音楽アレンジ(これは私の企画ライブでもやった。彼の十八番かな)素晴らしい。yesterday、蘇州夜曲でしっとり聴かせると思いきや急に軽快なディスコビートがラップトップから漏れ出るハプニングもご愛嬌。しかしWAKABAYASHI氏の演奏の常である音の良さには改めて感服。音階の不思議感をその音響の良さでクローズアップさせる術も氏の持ち味なのか。微分音楽の響きを難解さを解きながらポップスに昇華させるテクニックに脱帽。
PORTA CHIUSA with Misaki Motofuji & E-Da Kazuhisa は静かに立ち上がる微分アンサンブルでスタート。
4管の棲み分け。タンギングの生音、ホーンの筒内を通り抜ける音、ボイスリバーブの反復、ドラムのエスニックな効果音、電子音と管楽器のクロスオーバー。音階的には微分音楽なのだろうが、電子音響エレクトロ・アコースティックと括り、開放的なクラブサウンドと化す。やがてノイズグルーヴの洪水の中へ。クラリネットのエフェクトによる変調とリバーブの残音。エクスペリメンタルと言うよりサイケデリック色濃厚で微分音を器楽演奏でそのまま形にするのではなく、ノイズと言う現代的切り口を援用。やはり、"今の音楽”です。
5管のみの単音持続音アンサンブルからバンドサウンドへ変化する以降、べースの持続音が常に背景にあり、消えない。そこにバンド的立体性をキープできる鍵があるようで全体が快楽的な装置になる。かなり、気持ち良い演奏です。好みですね。
このセッションを導いておられたバリトンサックス奏者Misaki Motofujiさんのソロアルバムも中々興味深い内容で微音の音響で始まり、フィールドレコのSEと即興の反復を経て、単音に歪みや倍音を重ねたフルボリュームなノイズ空間に至ります。まるで中村としまる氏を彷彿とさせる循環する音の束のようで、菅と筒、内部と金属といった音が高速で通り抜けるその都度の場所、場所に聴く者が立ち合うような体験的な音楽がありました。
ACT: Kevin Sommer(clarinet, electronics), Michael Thieke(clarinet), Paed Conca(clarinet, electronics), Misaki Motofuji (clarinet, bariton sax, electronics), E-Da Kazuhisa(drums ex: Boreboms)
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ナスノミツル氏はmugamichill(ナスノミツル、中村弘二、中村達也)を〈アート・ロックユニット〉と名付けている。

2023-05-17 | 新規投稿
ナスノミツル氏はmugamichill(ナスノミツル、中村弘二、中村達也)を〈アート・ロックユニット〉と名付けている。嘗て60年代に登場したピンク・フロイドやヴェルベット・アンダーグラウンドが光と映像を音に融合させる試みをライブで行ったオリジナルを指す'古語’と言っても良い〈アート・ロック〉を堂々、名乗る潔さにバンドコンセプトの本気を伺う事ができ、言葉本来のアート性を追求する志向は今回のライブでのVJアーティスト、heaurexの起用で明確になった。
元来、ナスノ氏はProtoと言う映像作家ササキヒデアキをメンバーとするユニットを組む程、ビジュアルアートを重視する演奏家だが、それは音によって可視化できるイメージを、想像の中に収めるのでは無く、具体的に呈示する事で、ナスノ氏自身の表現の完成と成す方向を示すものであろう。彼はどこまてもイメージの住人であり、音楽表現とは内部イメージと言う抽象物の表出だと思われる。従って音列の組み合わせで成り立つ音楽のシンプリファイズ=単純化を図り、音階のバリエを最小限に抑えながら、寧ろ音色の多彩化と映像の融合による新しいビジュアル・ミュージックとでも言うべき境地を実現した。
事実、heaurexのビジュアルワークは色彩をモノトーンに抑え、イブ・タンギーの抽象画のような未知のイメージ溢れる一つ一つの形が変化、生成してゆく運動を映し出すもので、それはmugamichillのシンプルな形、契機を音階を抑えながら拡大して演奏する様式にぴったり符合するものであった。
聞けば、予めバンドの音は聴かず、曲のタイトルだけを把握して臨んだとの事で、ナスノ氏のビションの再生では無く、相互のコラボレーションであった事も即興性をも重視するバンドのカラーが現れた一面であった。
heaurexは私が企画したナスノ氏のソロライブでVJを担当し、その際、ナスノ氏の好感があり、今回のオファーとなった。今後も機会あれば、コラボして頂きたいと思う。
私は物販でmugamichillのLPを購入。
ライブで演奏した新曲を収録した新譜アナログです。4枚組CDも良かったけど、このバンドのアンビエンスの深い奥行きはアナログが相応しい。聴いて納得。やはりと言う感じです。
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