満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

SEUN KUTI 『+FELA’S EGYPT 80』

2008-09-28 | 新規投稿

「私には貧困の仕組みも、それを救う方法も考えられない」
曽野綾子著『貧困の光景』には最初のページで結論めいた事が記されている。もっとも著作の主旨が‘実態の記録’である以上、貧困地区への具体的な支援方法や処方箋の探求といった政策上の筋道を喚起させる言論を期待するものではない。ただ、その‘結論’は著者だけの感慨ではなく、もはや‘普遍的な結論’であるという事を作家は暗に示唆したのではないか。記述全体が醸し出すクールな視点や現状了解的な感覚から、援助に長年、関わった著者の実体験からくる、その如何ともしがたい変化への不可能性の実感があり、安易なヒューマニズムや理想主義を排する意味で、本書は真摯なドキュメントであると言えよう。

親父と全く同じスタイルを踏襲するシューンクティだが、決して親の七光りではない。そもそも子供が一体、何十人いたか定かでないフェラクティ。息子である事がもはや特別でない。シューンクティは独自に目覚め、アルトサックスをマスターし、強いボイスを獲得した。そして社会への問題意識を表現の契機とした。その姿はむしろ自発的、内発的なものだろう。

変わらぬ現実がある限り、変わらぬ歌が歌われる。メッセージソングとはもはや伝統芸能だ。シューンクティのアルバムは全編、アフリカの諸問題を扱う社会派のメッセージに溢れ、変革への熱い想い、怒りの表現が放たれる。その真摯な姿勢は英詞にも音楽にも顕れているが、一方で、この手の歌を一体、今までどれほど、聴いているだろう、という思いも同時にある。変革の不可能性という背景が変革への喚起を醸す歌を作る。その歌い手が時代によって入れ替わる。そんな循環システムの中で歌が内容的に進化する。シューンクティの歌の生命力に典型的なレベルミュージックを聴いた。

「african problems」という曲では‘I must try teach the people a new mentality’と歌われる。アフリカの諸問題の要因、それ即ちアフリカ人なりというメッセージを内側から貫く新展開をここにみる。フェラクティの戦闘が黒人解放、植民地主義、権力の腐敗というキーワードで表されるラディカリズムであったならシューンクティはアフリカ人の内面的病巣をより問題化し、その変化こそを変革の契機と位置付けているように感じる。外部転嫁を指弾するその視点に『貧困の光景』に通じる説得力を感じた。

EGYPT 80を襲名したアフロビートの新星.
圧倒的なグルーブを誇り、その伝統芸能を伝播する。同じくフェラクティの息子であるフェミクティがアメリカナイズされた感があったので、もはやそれを超える存在感をここに示した。と思ったらフェミクティも近々、ニューリリースがあるという。

2008.9.28





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Evgeny Mravinsky 『live selection 1972,1982』

2008-09-19 | 新規投稿

<冷たいまでに鋭く研ぎ澄まされた演奏は‘凄絶’の一言に尽きます。旧ソ連のあまり状態のよくない録音でしかうかがい知る事のできなかった彼等の凄さがダイレクトに伝わる衝撃の一枚です>
レニングラード・フィルを率いてイギリスに初登場したムラヴィンスキーの1960年の録音作品、『BBC LEGENDS交響曲第8番ハ短調』は私にとってのショスタコーヴィチとの出会いであり、そのCDの帯に書かれたコピー通りのインパクトを私にもたらした。
正しく凄絶。その音楽には戦慄的な美の構築と破壊のスリルがあり、冷酷なまでのリアリズムを感じたものだ。地の奥底から鳴り響く悪魔的な大音響。マイナートーンに貫かれた絶唱のような合奏。しかし、それは悲愴の表現ではない。夢や歓喜、幸福感をも裡に含んだ‘凄絶’さの暴露のようであり、ましてや嘗てソビエトでアーティスト達が半ば強制された社会主義リアリズムやプロレタリアート賛歌などの‘現実描写’とは程遠いものだ。ショスタコーヴィチの音楽とはむしろ深遠なる夢幻世界としてのリアリズム、それは超現実主義世界の表現と言って良いかもしれない。

そのダークで鋭角な音に響きから必然的にショスタコーヴィチとムラヴィンスキーの物語に関心が向かう。芸術が政治や国家の下僕として位置した旧ソビエトにおける彼等の魂の物語に。自由な表現が規制され、抑圧的な管理下に置かれる状況だからこそ生まれる表現の深み。そこには苦悩という感性のベースがまずひかれ、あらゆる感情や物語、夢さえも、苦悩の裏返しとして重複性の形が顕れるだろう。ショスタコーヴィチの神髄にそんな対立する命題の一体化、楽典上の対位法ならぬ感性の対位法を伺い知る事ができる。共産党一党独裁社会での偏向した芸術批評に翻弄され、体制迎合的な作風と自己主張の狭間の中でアンチの刃を突きつける、そんな炎を曲中に隠し持ったショスタコーヴィチの音楽思想は、しかし私達が想起する国家に抗った反体制芸術という解りやすいものではない。先日逝去した『収容所群島』の作家ソルジェニーツェンを見ればわかるが、ソ連の作家とは実に愛国精神の具現者である事が実に多い。体制批判とナショナリズムは根源的には矛盾しない。双方を併せ持つ精神の培養が彼の地の土壌にあり、乖離する理想と現実に個人の内面は引き裂かれ、時には現実的迫害も迫る。内面の苦悩は常に肉体的抑圧への延長の可能性を持ち、恐怖と希望の再生のリピート運動は果てしなく展開する。

指揮台を‘処刑台’と言ったムラヴィンスキー。
「指揮者として最も困難な事はショスタコーヴィチの交響曲初演を準備した時の‘産みの苦しみ’、障害そして抵抗」と語り、苦しみ、抵抗という言葉がその作曲家に対する特別な関係性を示唆している。音楽エリート、ムラヴィンスキーが懸命に理解しようとする作曲家の内面。スターリンによって‘不道徳’‘人民の敵’の汚名を着せられ、冷遇されたショスタコーヴィチが粛正の危険を感じて創作した‘名誉挽回’の作品だった「交響曲第5番ニ短調」の初演を指揮したムラヴィンスキーとショスタコーヴィチは共闘する同志的関係となる。

『live selection 1972,1982』はムラヴィンスキーによるショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、チャイコフスキー作品のオムニバス。ショスタコーヴィチ作品は命運を賭けた『第5番』が収録されている。「部長刑事」のテーマでお馴染みの第四楽章、ティンパニの嵐が強烈。しかも凄い速いテンポで怒濤のように打ち鳴らされる。色々聴いて解ったのは、このテンポはムラヴィンスキー特有のもの。他の指揮者、オーケストラより断然、高速である。超高速の「部長刑事」。超絶技巧の金管と弦楽が叩きつけるような重いビートを刻む。

共産党機関誌「プラウダ」に<社会主義リアリズムに則った傑作>と絶賛されたショスタコーヴィチの「交響曲第5番(革命)」。その表現の魂は偏狭な解釈を超え、普遍世界へと至る。それはもはや万民の歌。図らずも‘共産’という理想世界の具現たりえたようだ。

2008.9.19




















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     美空ひばり   『ひばりとシャープ 虹の彼方』         

2008-09-04 | 新規投稿

私は最近のロックやポップスのCDの音圧の高さに対し、常々、違和感を感じている。
昨今、録音される多くの音源ときたら、ボリュームを少し上げるだけで、ものすごい大きな音になる。もはやアンプの大きなつまみは不要となった。しかもその音圧の高さが音楽リスニングに良い影響を及ぼしているかと思えば、そうではない。むしろ逆である。
定位の高い音圧で聴かされる事で耳が疲れやすくなり、長時間リスニングに耐えられない。アナログ時代はLP10枚以上を連続して聴くのは当たり前だったが、今のCDではそうはいかない。‘長く聴けない’というリスニング環境は実は深刻な事態なのだ。なぜならそれは人々の音楽離れにつながるから。と言えば大げさか。いや、大げさでもない。


なぜこのような大音量の録音がまかり通るのか。それはファーストインパクト至上主義と言える昨今のセールス環境の要請によるものだと思われる。しょぼい音量の音源がオンエアやプロモーションに於いてまず劣敗として差別化される現状の性急さが、金太郎飴のような同じ物の大量生産に至り、歯止めが掛けられなくなった。過剰音圧が音質の技術進化とすり替えられ、表面的な迫力が第一義とされる。

それにしても高音域のボリュームレベルの異常な高さは、音楽のダイナミクスを損なう。そして弱拍の拡がりが消え、ミドルレンジのかたまりが壁のように存在する。この壁が実に平坦で直線的なのだ。このような環境に聴覚が慣らされると、音楽制作や演奏に於いて、音の間や微音から立ち上がる音の上昇感、下降感という感覚が失われていくのではないか。音圧が一定し、デジタル音によるシャカシャカした音楽の一律化は、聴感覚の固定化の顕れと断じる。そう言えば昨年リリースされたチャカカーンの素晴らしい新譜に対して‘音抜けが悪く、聴き辛い。エッジの効いた録音にするべきだった’との評があり、やはり私には意外であった。あのモコっとした重量感こそがソウル / ファンクなのに。

美空ひばりの『民謡お国めぐり』を初めて聴いた時の衝撃。
原信夫とシャープス&フラッツの豪快且つ繊細な演奏に驚きを禁じ得なかった。ダイナミクスの極地たる音楽の上下感と前後感をそこに発見し、演奏の中にこめる指や息の強弱や振幅の精緻を思い知らされる。そして美空ひばりの歌に至っては、一つの言葉、フレーズの中にいくつもの音階とキーがあるようで、もはや記譜不可能な細かい音の段階が混在する発声の美学を見た。正しくとんでもないレベルの音楽がそこにあった。幸いCDでもアナログの音質を限りなく再現し、その、音が急に出たり引っ込んだりするようなダイナミクスは損なわれてはいない。

私は以前、当ブログで美空ひばりのコロムビア時代のアルバムを順番にCD再発して欲しいと訴えたが、その後、僅か3アイテムだが、何とLPの限定再発があり、音楽を愛し、理解した制作だと私は感心した。今回、その中の『ひばりとシャープ 虹の彼方』がボーナス付きでCD再発され、またも買う羽目に。これも枚数限定という。

『ひばりとシャープ 虹の彼方』は1961年の作品。歌、演奏、録音、その全てが完璧。驚くべきは一発録音。しかも公会堂を借りての中継録音方式だったという。最高レベルの歌と演奏だから可能な離れ業。‘ひばりとシャープ’というタイトルが示す通り、原信夫とシャープス&フラッツは単なる歌のバックに終わってはいない。むしろここでは対等の関係が築かれている。シャープス&フラッツの演奏にある歌心は美空ひばりの歌に対抗し、両者が絡み合いながら歌世界は上昇する。そこにメロディのグルーブとも言うべき艶やかな疾走感を感じる。そして曲目はジャズのスタンダード集だが、それを感じさせない独自性を誇る。お馴染みのスタンダードがまるで日本の歌、美空ひばりの持ち歌と勘違いしそうになるほど、ここでの美空ひばりは外来の歌を自らのものとしている。和訳された歌詞がこれほど自然に感じられる例が以後、日本のジャズにあっただろうか。おそらくない。綾戸智恵でもここまでの独自性を築いているとは言えないだろう。

単純に‘ジャズを歌いたい’と希望した美空ひばりの念願のアルバム制作だったと言うが、ここでの音楽は結果的にジャズ色が希薄であるとも感じられる。『ひばりとシャープ 虹の彼方』は我々の固定観念にあるジャズアルバムとは大いに違っている。多分、それは以降の日本のジャズボーカルが、あるムードを前提に創作されたものが大半で、結果的に‘ジャズというジャンル’を歌い、演奏する事の枠をはみ出ることがないものに終始しているからだ。
美空ひばりとシャープス&フラッツが『民謡お国めぐり』に於いてハードバップ形式による日本民謡の強力な表現をなし得た事を思い返す。彼等にとって歌と演奏の形式は彼等自身の側にある。従ってジャズスタンダードを取り上げる感覚もそれはジャズという形式やジャンルではなく、あくまでも一曲、一曲を単独のソングとして対応しているのであった。いや、それはモチーフ、きっかけとすら言ってもいい。‘一小節のフレーズがあれば、そこから何時間でも演奏できる’と言ったマイルスデイビスの表現の境地に通じる感覚がこの時代、既に美空ひばりとシャープス&フラッツには備わっていたと私は解釈する。
『ひばりとシャープ 虹の彼方』にジャズ色が希薄だとする逆説めいた感想は、その後の日本の翻訳ジャズの形式主義に耳が慣らされた私の固定観念から顧みられるオリジナリティの発見によるものだった。むしろこの作品で美空ひばりとシャープス&フラッツが現した音楽こそが本来のジャズである。ジャズの本質であるアドリブ性とは即興概念のみならず、その表現拠点の強固さを問うとこらから発せられるだろう。従って『ひばりとシャープ 虹の彼方』は結果的に世界に拮抗する日本ジャズを体現する事となり、それは欧米にはない独自のジャズである。

LPに収録されなかったボーナストラックの2曲「just one of those things」、「mack the knife(匕首マック)」がまた、すごい。その演奏のド迫力に負けそうになり、思わずボリュームを気にする自分がいる。録音作品とはこうでないといけない。音が小さいピアニッシモの場面ではつまみを右へ、ドカーンと爆発して音量が上がり、大きすぎれば左へ回して下げる。音楽の聴き方は本来、こういう手作業を要するものなのだ。高音圧でパッケージされたしょぼい音楽の偽りのインパクトとは違う生きたダイナミクス。
美空ひばりとシャープス&フラッツ。絶品であろう。

2008.9.4
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