満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

         FRICTION with James Chance & Contortions 2010.5.21

2010-05-28 | 新規投稿



フリクション観戦日誌2010.5.21(with James chance & contortions)

さて、毎年恒例‘春のフリクション祭り’の季節がやってきました。今回は何とJames chance & contortionsとのカップリングライブという事で、前売り券を早々に買っての臨戦態勢であります。計一万円支払ってしまった昨年(理由を訊くな!当ブログ09.5.9を読んでくれ)の二の舞を防ぐべく注意しながら(?)私は会場であるDROPという店に入った。思わず「狭っ」と言ってしまったほどのこじんまりしたスペースだが、すし詰め状態で頭グラグラしながら体感するフリクションの音圧を予想し、余計に楽しみである。多分、磔磔状態になるんだろう。これは多分、クタクタになるな。

6月には待望の2枚組ライブアルバムのリリースがインフォメーションされているフリクション。イマイチな内容だった『DEEPERS』(09)に勝る音圧を期待しますが、何れにしろフリクションは生に勝るものはない。それはずっとフリクションを追っかけてきた私の実感です。今日の演奏を楽しんで、瞬間の快楽、一期一会の非日常空間に酔うのがフリクション体感の在り方です。私が壁沿いのシートに腰かけ、立ち仕事の疲れを抜いていた所に大谷が到着し、当日、知り合った写真家、清水さん(何とアートリンゼーやソニックユースを撮っている)と歓談しながら開演を待ちます。よく見ると段々、人で埋まってきた狭い会場に何と子供が二人いる。フリクションのライブ会場に女性客が増えたのは中村達也加入後の特徴だが、ここに至って子供とは。いや、いや、時代は変わる。フリクションキッズが現われた。この不確実性の時代、何があっても驚きません。いかにもロック好きそうな親に連れられた明らかにロックなど知る筈がない小学校低学年の野球帽被ったメガネの少年と少女。「連れてくんなよ」と思うが、まあ、途中で帰るか外で待っとくんだろう。

さて、今晩も定刻に登場したフリクション。髪がますます伸びちゃったレック。中村達也と兄弟みたいになるのだろうか。二人が無造作に楽器を鳴らし、ギュワーン、ドカドカドカと轟音が会場を満たしたところで、レックが「フー!フー!フー!」とマイクテストをして始めた曲は「いつも」だった。ここ最近のロックンロールフリクションの典型ナンバーだが、曲名が何ともかわいい。3/3時代の曲だ。
続く「ikigire(out of breath)」は私のフェイバリットソング。色んなアレンジのバージョンが過去あったが、ここ最近は変則ビートでドライブするロックンロールナンバーとなっている。しかしいつ聴いても気持ちのいい曲だ。リフの変化に境目を感じさせる事なく、すっとワープするような快感を覚えながら、ビートの快楽に溺れてしまう。そして「easy」のミニマルなインストパートのグルーブも最高で、ベースとドラムが塊のように突き進みます。実際、フリクションのライブに於ける反復ビートの長い演奏は「やめないでくれー」と叫びたくなるほどの中毒性というかエクスタシーをもたらすもの。そして中村達也のドラムの荒れ具合というか、リズムのズレや揺れが、2ピースという自らに制限を課したバンドサウンドのリズムに変化やスパイスを加味しながら、サウンドに表情をもたらせているのだ。ここらへんは、以前のフリクションと比較した場合の決定的な違いだと思う。

私がフリクションに魅かれる最大の理由は、その‘整合感’にあった。
その初期から一貫してあり続けたある種の成熟度と言うか、ロックンロールの初期衝動さえどこか‘大人びた’風格や秩序で覆われた‘整合感’こそが他の子供くさいロックと一線を画すフリクションの様相であった。従って無秩序や前衛的なアプローチ、ノイズでさえ、フリクションは常に一つの統制された美学的な枠内の元、整合感へと昇華させてきた。それは活動初期のハイスピードで疾走する変速ロックンロール、80年代中期のホーンを配し、ベースのダブ効果を前面に出した、フリーフォームな時代、2ギターでノイズを軋ませた80年代後半の音楽性など、それぞれの時代に一貫した共通項だった気がする。

中村達也加入後の新生フリクションはそんな‘整合感’が崩れ、逸脱的な無秩序感覚が増したのが特徴だ。中村達也がフリクションの歴代メンバーの中で異端的に映るのも、その無秩序の放流感覚にあると思われる。しかもそれがレックに侵食し、影響を与えてしまっている。あるいはレック自身が欲してきたものを中村達也が持っていたのか。いずれにしても新生フリクションは稀に見る2ピースバンドとしてサウンドの整合感よりも‘動性’、‘揺らぎ’を表現する事で、以前のフリクションよりも、より現場主義を強調する性格のグループとなっている。『DEEPERS』の力感不足もスタジオレコーディングという動性の削除の感覚故だった。その意味でも来月にリリースされるライブ音源による二枚組CDは現在のフリクションを的確に反映したものになりそうな予感はする。

今日のフリクションもやはり、その‘動き回るような’音楽、危うさを伴うような非―整合感的なサウンドが眼前に広がった。それはレックのベースギターがいつにも増してノイジーに響き、リフの残音が不協和音のようにゴワーっと鳴り響く事でコードやらリズムの型が崩壊するような感触が強い事もその要因か。
曲は「deepers」、「cusion」とお馴染みのナンバーが続き、「fire」がきた。アルバム『DEEPERS』に収録されたジミヘンナンバー。CDではいまひとつ好きになれなかったが、ライブではやっぱりいいです。最高です。客も盛り上がって、会場のボルテージが上がってみんなでノリノリしていると壁沿いのシートに立ち上がって体揺らす奴等に混じって、あの野球帽の子供がいる。ずっとおったんか。そして何と「fire」のサビで歌って拳振り上げとるやん!歌詞、知ってんのかよ!俺、知らんのに。君、何者?しかも歌ってからアクビしてるで。もう寝る時間なんやろ、ほんまは。

という訳で今回は‘前座’のフリクション。一時間で終わりのライブでしたが、いつにも増してワイルド&アナーキーなステージは最高でした。

ジェームスチャンスと言うと個人的にはコントーションズに熱中し、ジェームスホワイト&ブラックス名義以降は聴く機会が減り、過去形のアーティストとして現在の活動に積極的に関心は向かなくなった。しかし嘗て『no new york』(78)、『BUY』(79)という傑作に熱中した私にとってチャンスこそは‘エッジ&グルーブ’ミュージックの代表にして、サックスミュージックへ関心を導いた最初のアーティストだったかもしれない。それほど彼のアルトサックスに衝撃を受けていた。そうだった。私はオーネットコールマンよりチャンスを先に聴いた。それが後にフリージャズに傾倒するきっかけにもなっていた筈だ。いや、それどころかチャンスは「I can’t stand myself」や「super bad」によって私のJBやその他ファンクミュージック開眼の入り口を作った恩人でもあったのではないか。しかもそれはルーツミュージック、ブラックミュージックへの大きな入口だった。ゴリゴリのパンクーニューウェーブ小僧だった私をブラックミュージックへ誘導したのが実はジェームスチャンスだったのだ。

チャンスはJBのシャウトスタイルとオーネットコールマンの嘶きサックスを真似してそこにノイズギターとファンクーパンクなリズムセクションを配したとんでもなく奇天烈ヒップなバンド、コントーションズを作り上げた。NO NEW YORKシーンで当時から浮いていたのはそのミュージシャンシップだった。アイデア一発で音楽シーンに登場した多くのアヴァンギャルディスト達とは毛色の異なるルーツ派でもあっただろう。そんなチャンスと70年代後半にニューヨークで活動を共にしたのがレックとチコヒゲだった訳だが、帰国後に結成するフリクションのNO WAVE感覚はニューヨークシーンの影響と共に、レック、ヒゲが元来、持ったミュージシャン気質の共存という形を醸し出したのは当然の筋道であったか。元来の‘グルーブマスター’レックはニューヨークでNO WAVEに遭遇し、そのアンチグルーブな要素を持ち帰る。‘レックがアートリンゼーにギターのチューニングを教えた’という話や‘チコヒゲは初期コントーションズで唯一のミュージシャンらしいテクを持っていた’ 等の逸話は二人が一定のキャリアでシーンに認められ、音楽を支えていた事をイメージさせるが、フリクションにあるどこか内側に軋むような音の感覚は、解放感覚オンリーのロックンローラーに付加された‘精神性’なるものを喚起させ、NO WAVEの影響の沈殿と見る。
そしてNO WAVEが『NO NEW YORK』というMars、 DNA、Lydia lunchなどの初期衝動型アバンギャルドパンクたる様相からやがて、ビルラズウェル、アントンフィア、ジョンゾーン等が主導するムーブメントに移行する事によって音楽的完成感が増していくように、フリクションも初期の一直線的なハイエナジー放出型ビートロックから、ホーンやダブ音響を試みた空間立体型の音楽構築へ至る変化に私は同様の軌跡のように感じていた。

さて、ジェームスチャンスを過去形のアーティストと断じてしまった私は大した期待感を抱く事なくその開演を待ったんですが、始まってびっくり。昔のまんまのチャンスの声、サックス、バンドサウンドだったのだから。しかも音の間が素晴らしくイイ。カッコいい。最高!フリクションのギョワーーンというドローンサウンドの洪水の後に聴く、この縦にビシッバシッと刻まれるサウンドの対比。いや、このカップリングは良かったね。しかしそれにしてもチャンスが衰えず、昔のハードエッジを維持していた事には参った。しかも2曲目は『design to kill』ときた。『BUY』収録の最高のナンバー。私は思わず「ワオオー」と言いながら上下に踊ってしまうのであった。いや、しかしこのサウンド、なつかしいと言うか、私はZEレーベルを思い出した。あの過激でいてスタイリッシュなレーベルを。そうだった。(ついでに『off-white』の裏ジャケのエロい女の写真も思い出した)ゴリゴリの暗~いオルターネイティブ少年だった私に‘もっとオシャレに、カッコよく、強く軽やかに!’と示唆してくれたのもZEだった(あとBEFと)。いやいや、もう古い話はどうでもいい。長い年月が過ぎた。チャンスも老けた。太った。しかし音楽が全く変わっていなかった。味わい深い曲を次々にプレイし、疲れてへたり込むような場面も。このあたり、踊りまくってステージの横でハーハー言ってた老JBと一緒。そして「superbad」もやるやる。しかも全然、カッコいい。‘白いJB’の称号、今からでも遅くないよ。ラストは遂に出た、「contort yourself」だ。曲知ってる奴等が歓声を上げる。私の前の奴、二人がポゴダンスでぶつかり合いを始めた。ヤレヤレ。と思ったらこっちになだれ込んできて、押し返したが止まりゃあしない。

フリクションをメインに観に行った今回のイベント。思わぬ収穫のJames chance & contortions。実家に帰った時、LP持ってこよう。そしてフリクションは来月にレコ初ライブもあるかもしれない。

2010.05.28

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      YOUNG JAZZ REBELS 『 slave riot 』

2010-05-26 | 新規投稿


マッドリブの強い‘ジャズ愛’は彼の感覚と嗅覚を鍛え上げ、そのあくなき偏愛がもたらす創作の数々が結果的にジャズの再生に寄与していると言えばおおげさか。マッドリブは演奏者ではない。彼の本質はリスナーであり、サンプリングアーティスト、ビートメイカーである。ジャズの進化や革新が演奏者のみの手によってなされ、それが一部、批評家との相乗関係で継続されてきた事実がある一方でジャズそのものを袋小路に追い込んできた事の中に演奏第一主義に捉われたまま、時代感覚から乖離した側面を指摘されるケースもあるだろう。演奏を鍛錬し、演奏の革新を意図しても超えられない壁が時代には築かれていた。いつしか私達の耳は‘すごい’演奏でも感心しなくなった。その感覚麻痺の正体こそが、‘音響’による快楽指数という新たな聴覚の座標軸だったのではないか。
マッドリブがサンプリング、リメイクする‘ビバップ’の気持ちよさと今の上手いジャズミュージシャンが演奏するビバップの全く快楽的に響かない、その落差は何か。

『slave riot』はマッドリブによるジャズ音源のニューリリースだが、Yesterday’s universe(2007)の中にYOUNG JAZZ REBELS名義の『slave riot』が収録されていたので、新作と言うよりは、溜めていたトラックをまとめたものだと思われる。CDをセットするといきなり、レコードからサンプリングした溝のノイズがバチバチと響く。そしてこもったドラムやベースのホール感あふれる生演奏のようなローファイな重いジャズがきこえてきた。まるで60年代の漆黒のフリージャズのような重低音空間が拡がる。ブルーノートからビバップ、ソウルジャズ、ジャズボッサ、エレクトリックマイルス等にオマージュを捧げてきたマッドリブの新たな対象はフリージャズだった。この人のもはや‘リスペクトシリーズ’とも言えるジャズ愛溢れる音源の数々からはしかし、他のだれも注意を向けないジャズの内奥に対する嗅覚が感じられるのも確かだ。
Yesterday’s new quintetの音の質感はジャズ本来のチェンバー(室内)感覚を更なる内奥(=屋内)へ誘ったものだったと感じている。マッドリブの構築する音響ジャズには独特のインナースペースのフィーリングに溢れているのだ。かつてはマイルスデイビスがビバップやクールの50年代を経てから独自のスピードジャズを展開した60年代の流れの中で、ジャズクラブという閉鎖性の壁を突破すべく、70年代にエレクトリックへの転換によるジャズの宇宙的外部への開放を企図したのであるが、マッドリブは4ビートジャズの屋内性を逆に、更なる屋内へと滑り込ませたような神秘的なジャズ音楽を構築する事で、インナーな宇宙を実現したような感触を私は持った。私はそんな彼の視点に関心が向かう。マッドリブのジャズの聴き方は明らかに大方のそれとは違う。

「ジョンコルトレ~ン!」と聴衆に向かって叫びながらそのレコードをターンテーブルに乗せるマドリブの映像を観た時は、そのあからさまなマニア性に少々、辟易させられたが、そんなダンスフロアの開放感のさなかのDJとしての姿と部屋にこもってトラック制作に集中する時の顔は少しばかり違うのかもしれない。いや、むしろマッドリブは音楽の快楽にあらゆる局面を束ねるような方向性を持っているのだとイメージする。

元来、ジャズに在った演奏という肉体性と批評という思考性を相反するものではなく同一のカテゴリーに収めながら、聴覚を入口とする‘体感性’に新たな方向性を求めるマッドリブの精神を感じる。この‘体感性’は演奏と批評というアンビバレンツを無効にしながら、新たな快楽を意味性という価値まで高めていく。従って脱批評を体現するリズムの無意味性から発展して、それが鑑賞的味わいを包摂する一つの‘意味性’に至るかのような新しい領域ではないか。

YOUNG JAZZ REBELSの『slave riot』はレコード溝のノイズを曲の切れ目毎に貼り付けたアナログというより最早、作為的なオールド感の逆襲のような衝撃的な音源であった。翻って私は最近、音楽編集ソフトを購入し、慣れない手つきで自分のバンドの過去のライブテープを編集して正規の作品に仕上げるべく悪戦苦闘しているのだが、ここにはあらゆるノイズリダクションの装置があり、いかにノイズを消去するかを音質向上のキーとする現代的発想の典型がある。

ノイズ消去に躍起になっているさ中に聴いたマッドリブのノイズ貼り付け音楽集。
「うーむ」と考えさせられたのも事実である。

2010.5.25


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TIME STRINGS TRAVELLERS(時弦旅団) ライブ日程

2010-05-18 | 新規投稿


私のバンド、TIME STRINGS TRAVELLERS(時弦旅団)は現在、レコーディングを行っており、私の頭はその事で一杯で、ブログの更新もままならない状態なのですが、6月に2本のライブを予定しております。多分、ものすごくオープンでフリーな演奏になりそうな予感がするのはレコーディングの事で支配された心の解放を目論んでいるからでしょうか。やる曲もその場で決めようかな、半分は即興にしようか。そんなイージーな気分で臨もうとしている私たちのライブを是非、御体験下さい。

6/12(土)nu-things jajouka(心斎橋) 共演:NATIVE,JAZZ ACTIVE etc
6/17 (木)コモンカフェ(中崎町) 共演:ZION

多数の御来場をお待ちしております




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