満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

         友川カズキ   『青い水 赤い水』     

2008-11-27 | 新規投稿

『顕信の一撃』(02)で正に一撃を喰らい、その遅すぎた出会いに後悔する次第であった。何故、私は友川かずきをスルーしてきたのか。しかもその盟友、三上寛は常に聴き続けてきたのに。アホであった。思えば私がファンであるマリア観音=木幡東介(一度、対バンした事もあった)がやはり、友川かずきの影響下にあった事を承知していたのにも係わらず、聴こうともせず、観にも行かなかった事も怠惰の極みであったか。
30でミンガスを好きになった時も、40にしてピアソラのファンになった時も、特に後悔の念はなかった。しかし友川かずきだけはこれを今まで聴かなかった事を悔いた。もっと早く知るべきであった。

私が真に求めるもの、心の奥底で希求していた音楽がそこにあった。
長い間、音楽の趣味を拡げる事を使命のようにしていた。現実には叶わぬとしても、意識の上では日常を音楽で埋め尽くそうと目論む私にとって、その趣味を拡げ、必然的にその聴き方をも多様化させる事は、自然の成り行きであった。対座して音楽に向かい、その全てを腹の中に貯め込むような聴き方から音楽を耳に擦らせて心地よさに酔う聴き方まで。私はもはや音楽を日常生活のスパイスならぬバランサーとし、生に欠かせぬものとしていた。しかし、その際限無さはいつしか私の感性の中核を隠し、本質を見えにくくしていた筈だ。思い出すようにジョンコルトレーンを聴くのも、拡散する音楽リスニングの中に核心を思い起こす為であったと思う。嘗ては主食であったコルトレーンを今では他の‘イージーリスニング’の合間に聴いている。そんな私の前に友川かずきは‘コルトレーン的な中核’として顕れた。

灰野敬二、ハイライズといった極北系アーティストをリリースするP.S.Fレコードが友川カズキ(かずき改め)の7年ぶりのアルバム『花々の過失』をリリースするのが93年。メジャーレーベルに嫌気がさした友川かずきの要望だったと言う。思い起こせば私が、そのP.S.F、生悦住氏に「アレアとかジャズロックは好きじゃない」と言われたのが、その頃だ。自分のバンドのデモテープを送り、聴いていただいた感想に絡む発言であった訳だが、当然の反応であったか。生悦住氏は音楽の‘構成’や‘形’、いや、もはや‘アレンジ’という観念すら嫌悪するかのような音楽の中核のみに関心が向かっているように感じた。P.S.Fアーティストに共通する、装飾を全て剥ぎ取った魂のかたまりだけを提示するような音楽性は正に友川かずきが持つ本質そのものでもあっただろう。その意味でP.S.Fは彼にとって出会うべきにして出会ったレーベルであった。

闘病生活から復帰した友川カズキの新作『青い水 赤い水』をアマゾンで注文したが、在庫切れの返事。タワー行っても置いていない。どこにもない。これが現状か。仕方なく取り寄せを依頼し、一週間で届くが。ちゃんと品揃えせえと言いたくなる。

さて、アルバムの内容について書かねばならないが、音楽を聴けば聴くほど、書く気が失せる。相変わらず、圧倒的だ。こんな音楽を前に一体、何が書けるのか。
強烈な肉声が時には低く、或いは高らかに突き刺さる。これをアルトー的、中也的、コルトレーン的な<叫び>と同一視するのは容易いが、やはり、音楽的な完成度にまず、感心する。‘形’をものともしない‘叫び’、‘魂’が赤裸々に放射される友川ミュージックの中に、むしろ音楽的様式美を感じる。それは音楽の‘形’が楽曲形成によってなし得るのではなく、友川カズキの発声される言葉から導かれる必然的な音のピラミッドのように成り立つ、まぎれもない‘形式’のような感触である。

その様式美を私はある‘余裕’の顕れと見る。その‘余裕’はメジャー時代の初期活動期と比べれば明らかだ。初期衝動的表現から音楽的成熟に向かったという‘余裕’の事ではない。P.S.F以降の友川ミュージックに歌が音に取り囲まれる最良の形を成す事によってより、激しく、衝動的になるというマジックを見るのである。

バックの演奏過剰、アレンジ過剰が目立ったメジャー時代、そんな制作側が用いた手法の失敗を友川かずきの歌と声が相殺してみせる瞬間が多くあった。しかしその相殺は友川かずきの‘過剰’を手段とした意図的表現によるものであり、それを意図せざるを得ない友川かずき自身のフラストレーションは想像に難くない。従って、友川かずきは自然体に導かれた激越さこそを、目指すようになったのではないか。その時、歌を巡る演奏の形とはどのようなものになるのか。自分の歌にはいかなるバック演奏も合わない。ただ、石塚俊明(ds,per)のみが単独の語り手として自らの歌に対峙し、二人で一つの世界を作り得る事を認識したのだろうか。かくしてP.S.F以降の形態は歌一本、あるいは+リズムというシンプルなものに行き着き、その基盤から最低限のパートを加える形式が採られていく。

『青い水 赤い水』に於いて、言葉がその音楽の中心に在り、既に言葉だけで音楽になっている。従ってその様式とは言葉をフォローするサウンドの集合ではなく、運動性の高い言葉というボールを四方八方からはね返し合うような音達が絶えず動きながら全体を創り続けているようなものと映る。友川ミュージックに不可分な要素である石塚俊明(ds,per)、永畑雅人(g)は友川の言葉をはじき飛ばすような演奏をしている。そんな動性こそが、友川ミュージックのどっしりした骨格感、立体的な様式美を実現しているようだ。


脳味噌もカラダも脆弱ときた
運気の兆しもさっぱりだ
さなり一番 でたとこ勝負だ

ケムリもアルコールも打っちゃって
酔いなき ざれ者の句読点
君よ貧しき使者よ とっとと来やがれ

        「続・ボーする日」


眠ったように死んでいるのか
死んだように眠っているのか
ままあること げに空おそろしき
まっすぐ転落する魂に
投げた花は届くのか
私の声のスピードは足りるのか
昏酔然 昏酔然

         「昏酔然」


闘病生活が過酷だったせいか、歌詞は幾分、内省的に。発声は幾分、柔和に。なったか。いや、皮相な感想だ。そんなのではない。取り消そう。友川カズキの再生が私達に伝えるもの。ピュアである事、激越である事の‘聖’こそを提示するリーダーであろう。表現者が私的な根拠に独り立ち、その外部への影響を放置する時、打算なき本当の音楽的繋がりは生まれる筈だ。それはメッセージでも何でもなく、空中に放たれた表現物の掴み合いなのだ。誰もがそれをキャッチできる。共感する内的資質が少しでもあれば。友川カズキの歌に‘身に覚え’がある。そんな想いを持つ者、点在する同志が散らばって、一つになる。そして今度は、その各々が発信を開始しなければなるまい。

2008.11.27






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MEAT BEAT MANIFESTO  『AUTOIMMUNE』

2008-11-18 | 新規投稿

相変わらずめちゃくちゃカッコいい。
このカッコ良さは、クスリ的快楽と音楽的感動のバランスの上に成り立つミートビートマニフェスト特有の個性だと思っている。音楽の‘感動’が時代と共に‘快楽’にシフトしてきて、その享受のスタイルが多様化する中、ミートビートマニフェストはあらゆるリスニング環境に耐えうる音楽を創造してきた。そして快楽原則の質的多様化に対応するその基底にあるのが、私は初期から貫かれるヒップホップの精神だと感じているが、その音楽創作には単なるミニマルではなく‘楽曲’へ向かう基本姿勢が強く認められるだろう。初めにビートトラックありきというテクノの定番方法ではなく、あくまでも歌や演奏を基底に音響構築(解体)する意志に貫かれた制作はアレンジや場面転換に於ける凝縮されたアイデアを盛り込む‘凝り’を感じさせるに充分な音楽性を保持している。だからカッコいい。その意味で同時期のアメリカに存在を示したパブリックエナミーとの類似性が濃厚にあり、その音楽性に対抗するイギリスのヒップホップグループという私の認識は今も変わらない。

80年代後期に登場した時は‘エレクトロニックボディミュージック’というジャンルの中核とされていたミートビートマニフェストだが、今や‘ブレイクビーツ’や‘フューチャーテクノ’、‘ビッグビート’、‘ミニマルクリック’等々と紹介され(もう、ネーミング増えすぎ)、最近では影響を受け合っている‘ダブステップ’としてDJイングされるケースも多い。しかし、その本質は正真正銘の‘ヒップホップ’なのだ。私の言う‘ヒップホップ’とは‘楽曲性’を残存する鑑賞音楽としての核をギリギリの位置で留めたクスリ的快楽志向の音響形態の事である。

ミートビートマニフェストを聴くといつも私は音楽の快楽の一過性について感じ、考える。
音楽をまるで肉体に投与するクスリのように対処する‘現代的’リスニングはもはや音楽を聴覚任せにするのではない‘体感’に移行した人間の新しい快楽の摂取法だと感じるが、その時に快楽の一過性を真逃れない‘非―普遍性’に対しどうするのかという問いが常に発せられるだろう。いや、もはやそんな問いすら無効な感覚が蔓延している。音楽を文学作品のような一生モノとして購買、鑑賞、留意、再再生、保持、検証というサイクルに置き、自らの思惟や精神に影響という形でその質実を裡に貯め込んでいくような志向が昨今の音楽に期待できるのか。否、12インチEP等、多品種少量生産、瞬間消費というクラブミュージックの流通は無記名音楽のオリジナルをめぐる革命であった事は確かだし、その音響に含蓄ある快楽を見出し、既成の音楽的完成度なる普遍性を無にするような瞬間的刺激で勝る感覚が大量のゴミの中に見つけた宝のように存在する事もある。しかも瞬間消費財としてのテクノ/クラブミュージックの一過性とは実はマスになることで、それは一つの物語と化す。私は過去、ブリティッシュレゲエの愛好からON-Uを経過し、ルーツレゲエ、ダブのマニアと化した者だが、ダブステップと呼ばれるダブの変形たる一群のもはや、一片のアレンジさえ残存しないシンプリファイズドされ尽くした純粋機械音には正直、なじめずにいる。あまり好きではない。正にこれこそが、記録不要、所有不要な‘音響メディシン’だろう。ダブステップのCDや12インチはもはや買う必要のない音楽であり、それは一度‘体験’さえすれば事足りる。しかし一過性の単品を大量体験する事で見えてくる物語を私は否定しない。その快楽の重要度についても何となく感知し得るものだ。一体、この快楽の正体や意義は何か。
それは感性の変革を外部から促す強制性に対する免疫の強化なのだろう。
私が‘いい’と感じる音楽の範囲はたかが知れている。その保守性を内側から打破したい時、音楽に一体化すべき‘理解’に努める場合と、ひたすら感覚を広角に拡げていく‘触手’を志向する時もあるだろう。そんな時、‘ダブステップ’のような‘反―音楽’的物質は私が受容する音楽の概念を溶解しながら、ひたすら‘これも気持ちいいぞ’と迫ってくる。

さて、そんな‘音響メディシン’の効用を認めつつも私が長年、ミートビートマニフェストに別格性を認め続けてきたのは、初期のヒップホップモードにおける楽曲主義が次第にミニマル、音響系へと移行しながらも、尚、その音楽に骨格感を失わないバランス故である。全く、このグループのミュージシャンシップは凄い。確かに長き活動において音楽性を変化させ、私などは『dog star man』(88)、『storm the studio』(89)の衝撃とその永遠の輝きにヒップホップの最良質部分を見ている。いや、むしろ実感するのはミートビートマニフェストはポピュラーミュージックのメジャーシーンに立脚すべきトータルな音楽性を持ち、その意識においてポップクリエイターと変わらぬ時代要請感を継続してきた事だ。従って‘ダブステップ’要素が増した近作でも、どこか王道な響きを持つ鑑賞音楽として成立している。意味性の排除としての反復音響への批判的視点を持った構築的音響。それはもはや意味性への新たな追求とも受け取れる快楽の濃度を誇る未来音楽の姿だろうか。
ミートビートマニフェスト。何年たとうが、常に現在進行形のカッコよさを体現できるベテランユニット。20年後が楽しみだ。

2008.11.18






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John Zorn 『Zaebos』by Medeski, Martin & Wood

2008-11-07 | 新規投稿

昔、六本木を歩いていたらWAVEの方からヘンな音がする。近づいたら何とジョンゾーンとエリオットシャープがデュオで路上ライブをやっていた。シャープの不思議な自作楽器は低音弦楽器でベースに近いが、ドラムのようにヘヴィーなリズムも刻んでいた。ゾーンはあらゆる‘吹きもの’を吹いていた。立ち止まる通行人は少なかったが、私は何と贅沢なコンサートだと感激し、二人に見入っていた。いつもお金を払って観てるアーティストが道路でやっている。いい時代だった。確か86年だったと思う。

現在に連なる‘音楽のフラット化’現象に対するジョンゾーンの‘越境’による貢献度は小さくないはずだ。彼によって即興音楽はその特権性が溶解され、その事で逆に袋小路からの脱出も可能になった。即興音楽はジャンルとしでではなく、一要素として、あるいは音楽の中の一局面、音響的効果として、より先鋭なものと大衆なものへ振幅が拡がった。それを可能にしたのはゾーンの音への物質的、快楽的信仰と言える反形而上的な資質(ビルラズウェルと同質の)だったかもしれない。ゾーンがアンソニーブラクストンの影響下にあった事もその初期活動期において無関係ではないだろう。アンソニーブラクストンやオーネットコールマンの理知的(反理知的と同義)な方法論をゾーンは拡大し、エモーションの記号論的放射でノイズとポップを同時に横断した。80年代以降の即興音楽シーンの形成は、革新運動を止めたロック/ニューウェーブに代わる新たな刺激物たる音楽群だったと回想できる。そしてその音楽カラーは国籍も人種もジャンルも技術も方法論も楽器も、もう何もかもを無化する越境精神に綾取られていただろう。その中心に紛れもなくジョンゾーンはいた。

そんな稀代の越境者、インプロヴァイザーであるジョンゾーンが近年、没頭しているのが実は作曲である。しかもその作風は彼のルーツであるユダヤの民俗旋律風の作風が多数を占め、彼の表現拠点の変化が見て取れる。その変化を自身のレーベル、tzadikを組織した頃に認める向きもあるだろう。レギュラーグループ、masadaにおいても特異なユダヤ感覚を前面に押し出し、そのルックスもメガネとボサボサ短髪のオタクスタイリッシュだった昔と違い、ヒッピー風長髪のラビスタイルへと変化した。もうすぐあごひげ生やすんじゃないか。

ゾーンの連作であるmasada book2(the book of angels)volume11のタイトル‘ZAEBOS’をメデイスキ、マーテイン&ウッドが受け持った。ゾーン楽曲の何とも中毒的な味わい深さ、どこか単調で、しかし染み渡るような不思議な旋律をメデイスキ、マーテイン&ウッドの奇天烈な演奏で再現するが、おそらくはスコアに忠実で即興パートなないと思われる。クレジットによるとアレンジはグループ自身が行っており、独特のギクシャクしたグルーブは健在だ。

ニューヨークのニッティングファクトリーの即興シーンが生んだジャズ界の異端、メデイスキ、マーテイン&ウッドのアルバムはずっと聴いてきた。キーボード、ベース、ドラムのトリオだがヘビーでノイジーなオルガンを中心とするかなりアバンギャルドな音楽性を有し、しかもバカテクなので様々な語法をちりばめながら、多様なフレージングをノイズで包み、疾走させるような演奏の特徴がある。以前、ピアノトリオになり、旧フリージャズ(変な言い方だが)っぽい作品を作ったと思えば、ジャムバンドシーンの範疇に押し込められる事もあり、はたまた意外にもジョンスコフィールド(g)を交えた、それなりにストレードアヘッドなスリルジャズをも披露した。つまりこのバンド、傾向を一定するのが困難なほどの自由な音楽姿勢を持つ。いきなりポップスをやっても驚かない。そんなグループだ。ある意味、ジョンゾーンミュージックを演奏するに相応しいグループであろう。

メデイスキ、マーテイン&ウッドの音楽感性に独自の混沌への偏愛、そのオリジナルな快楽ゾーンへ三位一体で向かうグループシップを感じる。その意味で、このバンド、メンバーの代替えは不可能であろう。つまり、メデイスキ、マーテイン&ウッドはジャズカテゴリーに入りながら、実はロック的感覚のグループサウンズだと私は感じている。その姿勢は‘独自の混沌’=カオスへ至る過程を演奏で楽しむエピキュリアンか。
その演奏スタイルはどのような過程で獲得したのか、いや、私には嘗てのヘタウマニューウェーブの持っていたアイデア一発による独自性にも通じる束縛無き自発性をイメージする。
ハイテクニシャンがコンセプトやアイデアを先行させ、いったん、テクニックを放棄した上で‘個性’という建造物を建てるに至ったのか。それともテクニックの運動を無限に、無秩序に拡大したあげく、たどり着いたカオスの世界なのか。
いずれにしてもメデイスキ、マーテイン&ウッドは自分達の個的な快楽ゾーンに向かう。
私はこのグループにずっとMats & Morganをオーバ-ラップさせていた。双方はその感性において共通していると思う。その感性とはいわば、意味性が喪失された地平で繰り広げられる快楽の濃度の追求だ。今や全てが出尽くした時代。コンセプトも、目新しさも、演奏技術も。そこでは快楽手段の一つとしての‘高度な演奏技術の獲得’があり、リミックスやDJがあるだろう。それらが同一のレベルで誇られ、ある意味で笑える時代にもなった。

越境からルーツアイデンティティへの変貌をとげるジョンゾーンミュージックが新たな越境者、メデイスキ、マーテイン&ウッドによって再現される。その音楽は快楽の濃度を増し、私の御託を粉砕する。アルバムトップ「zagzagel」のベースラインで最早、クラクラする強烈なアシッド感。聴き終わったあとはヘロヘロです。

2008.11.7
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