満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

       DAM-FUNK 『 toeachizown 』

2010-01-30 | 新規投稿

アナログレコードショップのCiscoが店舗を閉めた時、すぐ想った事は店舗コミュニケーションの喪失に対する懸念だった。私はクラブミュージックを随時、追いかけていたわけではないが、それでも時々訪れる同店で小ロット瞬間消費の12インチの流れの一端でも掴もうと店員に質問しながら、主にダブ系のアナログをチョイスしたものだ。また、店員とやりとりするおそらくDJであろう客の様子を見て、そこに購買のヒントやプレイする方向性等を客と店の双方が影響し合う現場を垣間見てきた。そこには単なる情報交換以上の‘生成’の現場があったような気がする。私などはその会話を横で聴きながら、店内でプレイされる音をチェックしたりしていた。従って店舗を閉めてオンラインショップに移行したCiscoがその後、まもなく倒産してしまったのは、店舗コミュニケーションがいかにアナログショップで大きなウェイトを占めていたのかを確信できた出来事でもあった。確かにサイトでも試聴はできるが、それでは‘生成’につながらない。クラブミュージックがそもそも人をつなぐコミュニケーションを前提にしている以上、その担い手たるDJとショップは相互依存の関係で成り立っていたのだろう。

アナログショップはクラブミュージックの発展と共にあったが、DJ御用達という特殊性を超えて‘最新’を探す音楽ファンには必要なものでもあった。実際、今でもクラブミュージック以外のジャンルに於いてもCDやオンラインではなく、アナログを最初のリリースにするアーティストは欧米に多く、私が日常、聴く多くの音源もCDで買う半年ほど前にアナログで先行リリースされていたものが多いのも事実なのだ。

DAM-FUNKの『 toeachizown 』は二枚組のデビューCDだが、この人も以前からアナログでのリリースをしており、知る人ぞ知るアーティストだった。私はこのCDで初めて知ったが、もしCiscoなどが存在すればもっと多くの人が予め知る事になっていたかもしれない。

しかしよく考えたら、店で会話することなんて全然、なくなってきたなあと思う。今ではタワーの試聴装置からレジへ持っていくだけだ。ずっと以前なら東通りの奥にあったLPコーナーで1階にいる双子の親父に在庫など尋ねようものなら、忽ち「これの方がいいで」等と要らんのを薦められたり、2階のジャズ売り場のおばちゃんの妙に詳しい解説に感心したりしていた。値段はちょっと高かったけど、買ったLPのジャケットにおせっかいにもラミネートカバーをつけてくれる。また、フォーエバーレコードの博覧強記、東瀬戸さんに貴重なアドバイス受けながら情報収集するのは得難いものだったし、何回も何回も試聴して嫌がられたりもしたワルツ堂も今となっては懐かしい。それとロフトに入ってたWAVEのジャズコーナーは凄かったな。売れ線を無視してフリージャズをメインに並べたその担当者は「僕の趣味でやってるんで」とか言っていた。こんなんで続くんかなと思っていたら、やっぱり潰れてしまった。このように昔はショップに個性があった。店主や担当者が音楽にこだわって客と話をし、うんちく垂れながらコミュニケーションする社交場でもあったのだ。この喪失は実に大きい。

DAM-FUNKの『 toeachizown 』のとてつもなく気持ちイイ音楽は一体、どこから来たのか。この骨太なエレクトロファンクは妙にレトロチックな風合もあって、あたたかいサウンドに満ちている。チルアウトでもレイブのハイ状態でもないテクノファンクのハッピーな感覚が現れた。そしてこの音楽の際立つのはそのジャンルレスな方向性ではないだろうか。私はヒップホップと捉えているが、ショップではハウス、ブレイクビーツのコーナーにあった。この明快でピースフルなインストサウンドがカテゴリーを拒むような外形を持ち、しかもどこか哀愁じみたメロディが散りばめられた歌を有する時、クラブミュージックの最新に新たな支流を生みだす瞬間が現れる。12インチで先行して体験しておれば、ちょっとした自慢になったかも。もっともCiscoだったらすぐ売り切れで、体験できるタイミングは難しかったかもしれないが。

2010.1.30
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 JESSE JOHNSON 『Verbal Penetration Vol. 1 & 2』

2010-01-26 | 新規投稿

ミネアポリスサウンドの特徴はその代表格であるプリンスの音楽絵巻じみた大作志向や複雑怪奇な物語性を剥ぎとったもので、むしろその楽曲をスリムにしたハイセンスでタイトなポップファンクであると思っている。その意味でザ・タイムやそのメンバーであるモーリスデイやジェシージョンソン、ジャム&ルイスの一連のプロデュース作品、或いは少しポップに寄りすぎるがシーラEなどにそのサウンドの特質が求められる。更にミネアポリスサウンドに近い先達としてキャメオや後期アイズレーブラザーズ、また、オハイオプレイヤーズ等のクールファンクは‘プリンス一派’に連なるネオ・ファンクを形成するものとして認識される。これらのアーティストに共通する点はエレクトリックと肉体性の不可分なバランスによってシンプルなリズムが奏でられ、横に流れるグルーブの揺れが垂直なビートに収束されるような独特の音の間を確立した事と言えようか。そこに私はファンクからヒップホップに移行する過渡的な音楽サウンドを見る。同時にそれは80年代というシンセサイザーによるポップミュージック全般への侵食の時期がスタイリッシュ主義へと結びついた特徴とも言えるかもしれない。

そんなミネアポリスサウンドを代表するアーティストであろうジェシージョンソンの13年ぶりの二枚組作品『Verbal Penetration Vol . 1 & 2』はしかし、プリンスに勝るようなその一代音楽絵巻たるコンセプトアルバムであった。クールファンク、ジャズ、アバンギャルド、バラッド等が次々に展開されるその音楽性は正にプリンスを凌駕するほどで、しかもギタリスト、ジェシージョンソンのソロもふんだんに盛り込まれた濃厚な作品となった。いや、すごい。これは。本当に。この構築的に練られた音楽はミネアポリスサウンドから遠く離れた発展形と見るべきか。嘗てミネアポリスサウンドを象徴したザ・タイムは同時に80年代サウンドの象徴でもあったが、ジェシーの進化はそのエッセンスを基盤にしながら独自の成熟を見せた。

今となってはチープさの象徴として軽視されがちな‘80年代サウンド’は電子楽器のポップへの転用の初期段階症状としての過渡期的未成熟とされているようだが、敢えて私はそこにある種のポップミュージックの飽和と完成の時期という側面を見ている。例えばそれまでファンクの特質そのものであっただろうJ・Bの飛び散る汗が象徴した生の動性、肉体性が、80年代にスタジオに進出した電子器楽装置の音楽環境下に於いて、ファンクさえもスタイリッシュの名のもとにリズムの機械的集約が進み、肉体性を徐々に追いやる傾向が現れる。しかし、逆にそれを新たな快楽主義としたのが、ブラックミュージシャン本人達であったのだ。アフリカバンバータが‘クラフトワークはファンクだ’と言った時の違和感はむしろテクノは非―ブラックミュージックフォーマットであるという私達の常識や先入観を打ち砕き、機械のビート感さえ、内側に取り込みながら新しいグルーブを作り出すファンクの進化の兆しであったのだろう。思えばプリンスが度々、試みたクリックに同期させる生音ドラムを微妙にずらしながらドラムマシーンと同時に鳴らす方法は肉体性と電子リズムの不協和音的合致という‘現実的’ビートの生成であったような気もするし、現代人の生活に浸透し始めた電子環境の反映の萌芽とも回想できる。

同時に‘80年代サウンド’の一見、チープなシンセビートは一方で、メロディの創造の余地を残す最後の環境でもあった。以後、電子化が進むことで、より濃密で高度なテクノが進展する90年代以降に消滅した‘歌作り’の最後の期間が80年代だったのではないか。‘歌心’をも重視したミネアポリスサウンドはソングライティングの終焉期に開花した徒花であったか。しかし、ジェシージョンソンの『Verbal Penetration Vol . 1 & 2』はミネアポリスの直系サウンドの進化形として現れた。そこにあるのは90年代エレクトロニクスを通過した練り込まれたテクノビート音響と肉体性の高濃度な合致としの確信性である。それは歌メロの作り込まれ方にも顕著で、ニューソウルを下敷きにした多彩な歌声を聴かせ、味わい深い。ここまで作り込まれた作品は同じく昨年度リリースのプリンスの『lotus flow3r』に勝るとも劣らない。その姿勢はもはやマニアのそれだ。

2010.01.26


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       BARRY WHITE  『unlimited』

2010-01-16 | 新規投稿

‘毎年、1月号だけ「MUSIC MAGAZINE」を買うのは年間ベストアルバム企画があるからだ’と一年前に書き、やはり今年も買ったが、そんな選出作品への関心が今年は更に薄くなっているような気もする。年間ベストより先に例の中村とうようのコラムを読んで自虐的快感に浸っているのだから世話がない。今回の中村とうようは民主党政権による事業仕分けを絶賛して、その正義感を充足させ、デフレスパイラル状況について‘経済縮小不可避論’なんてよくある‘新しい生き方’指南めいた事言って庶民離れした余裕をかましてみたり、‘他に用事がなかったら何となく見た’という(ホントかね?)テレビの全共闘ドラマに自らの青春をダブらせて感銘を受けつつもそのタイトルである「父よあなたはえらかった」を戦時の戦意高揚ソング、「父よあなたは強かった」の安易なモジリだ、最悪だ!と今度は一転してマジに怒ってみせる余裕のなさ。「父よあなたは強かった」については‘朝日新聞が読者から歌詞を募って作られた、つまり朝日にとっては戦争協力にシャカリキだった恥ずべき時代のキズ跡というべきしろものなのだ。いまどきこんな歌のタイトルをモジられては迷惑千万だろう’と変に朝日に同情なんかして見せる。こと戦争に関連するとすぐこれだ。一体、何なのか、この御大は。朝日新聞というのは敗戦を分岐点としてま右からま左にひっくり返っただけの今でも充分に‘恥ずべき時代’を継続しているそれこそ‘迷惑千万’な新聞というのが私の個人的見解ならぬ一般常識である。いやいや、やめよう。止めどなく続けそうだ。これでは去年の正月と一緒だ。しかし、中村とうようの言説とはその一言一句にケチをつけたくなる特殊な粘着性を持つのは確かで、その粘着質こそが私のようなアンチさえをも‘快感’に至らせてしまうエンターティメント的要素なのかもしれない。この人の‘解り易さ’もそんなエンターティメントの成せる業なのだ。なんせ、以前はアベとかアホーダローとか言ってたのが今では‘菅さん’だからね。まさか‘小沢さん’とは言わないだろうが。

さて、年間ベストアルバム企画に年々、関心が薄くなってきたという話。いや、本当に以前なら聴いていないアルバムがあると少しは気になっていたのだが、段々、気にしなくなってきた。ロック・イギリス部門1位クリブス。モデストマウス辞めたジョニーマーが入ったバンドだとは知っているが未聴。今度、廣川君に会った時、訊けばいいか。ってな感じで積極的な関心に至らない。温故知新アンド先端把握を信条とする私にとってこの焦りの無さは致命的か。私はポピュラーミュージックがアーカイヴ時代に入ってもう久しいと思っている。ソングライティングも音楽革新も80年代で基本的に終了していると認識する私は以降の音楽にハンディを設定する事で楽しむ術を身につけていると言っていい。つまり、今、以前の音楽を超えるものはない。従って現在の音楽鑑賞に対する基本的態度とは乗り越えられない旧音楽を前提にした快楽指数への評価でしかない。そんな厳然たる事実を踏まえながら、今、生成した音楽と嘗ての音楽をもはや、時代の隔たりを無効化しながら同じ水平上に並列させ鑑賞しているのだと思う。‘最新’という本来なら、それ自体が以前の音楽を彼方へ押しやるに充分な ‘逆のハンディ’が今、通じない。嘗ての音楽の普遍性とはそれほど‘最新’を軽く超越しているのだとも感じる。今年の「MUSIC MAGAZINE」2009年R&B/ソウル部門のベスト10のいかにもその薄味な物足りなさは、このジャンルもロックと同じく、過去音楽に勝るものがないからだ。2008年作のアンソニーハミルトン『the point of it all』(本ブログ09.01.08)が2009年の6位になっているいい加減さも、全体の不作故の確信犯的仕業か。

バリーホワイトの『unlimited』はCD4枚プラスDVDの豪華盤。私ならこれを09年のR&B/ソウル部門、1位に選ぶ。しかし、このアーティスト、日本ではコアなソウルリスナーからはやや、敬遠されているのも事実。その音楽性はマイケルジャクソンに代わる真の‘キングオブポップス’という名に値するもので、それ故かブラックミュージックのカテゴリーをいい意味ではみ出すポピュラーミュージックのメジャー感覚を有している。レコードコレクターズ社『ソウル/ファンク100』(09)でも見事に無視されていたその多分に曖昧なポジションはもはや究極の楽曲性を誇るその音楽だけが全てを語る唯一無比のアーティストの称号とも言えるのであるが。

『unlimited』は今もって乱発される安易なベスト編集ものとは訳が違う。全くこのあたりのアーティストによくあるベリーベストだのスーパーベストだのベストオブベストだの判で押したように同じようなアルバムの多さに辟易させられることは多いが、今回はオリジナルの別バージョンや12インチテイクとそのB面曲等で占められた充実作と言える。そして過去のオリジナルアルバムのリマスターよりも音質が良く、聴きやすさも魅力の一つだろう。DVDは80年代後半以降のプロモクリップ集でそのワンパターンなセクシー路線を14曲も連発される執拗さにゲップが出るが、これも何回かに分けて観るとやはり、いいですね。

バリーホワイトが自らの重低音バリトンボイスで甘い囁きを歌いあげる時、そこにマーヴィンゲイのファルセットやジミヘンドリックスの歪むギターと同様の官能的音響がこだまする。そして、バリーミュージックの中に様々な対比の要素が見出され、それが上質なポピュラーミュージックの王道たる安定感を醸し出す。即ち、バリトンボイスに対するストリングスの高音アレンジ、ホーンセクションのリフに対するファンクリズムの応酬などに音楽構築の立体感を常に意識するバリーの美学を感じるのである。つまり、この言わば‘四隅’のバランスこそがバリーミュージックの神髄であった。実際、『unlimited』に多く収録された12インチテイクから感じられるのは、美メロ作家バリーの思わぬファンクネスであり、高音域で遊泳するストリングスに相対するリズムのグルーブの再発見だっただろう。そしてディスク3の全編を占めるLove Unlimited Orchestra 及びLove Unlimitedの別テイク集の各々のナンバーがオリジナルを上回っていたのは、ディスク1と2を聴き進めた私の予想通りであった。オリジナル『rhapsody in white』(74)で展開したインストナンバーの各曲のコンパクトさが逆にグルーブに至らず、私には消化不良に思えていたのが、『unlimited』でディスコミックス化した別テイクに於いて相応のドライブ感覚が生じ、メロディも逆に際立つ効果を生んでいるのが分かる。元来のスティービーワンダーにも勝るコンパクトソングの作り手たるバリーホワイトの広角な音楽性を一気に表現し得た『unlimited』。洋盤のみの発売だけど、まれに見る傑作に違いない。

究極の名曲「let the music play」の別バージョンに於ける冒頭の語りの長さは声を武器に音楽性を極めたバリーホワイトの本質を表すテイクでもあるだろう。即ちバリーイメージを覆う‘愛のメッセージ’というもはやキャッチコピー化した陳腐さすらも匂わせる文句が実はバリーホワイトの真摯な哲学の主張である事を実感できたのも、私にとっては嬉しいアルバムであったと言えようか。つまり、私は以後、堂々とバリーホワイトをコアなソウルミュージックのフェイバリットとして挙げることができるようになったのだから。

2010.1.15



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