満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

DISCHARGE    『NEVER AGAIN』

2008-12-16 | 新規投稿

新風社という出版社が詐欺罪で訴訟されたあげく倒産したニュースを見たのはちょっと前だったが、私は嘗て、本を自費出版しようと思い立った際、広告を見て、この会社を訪れた事がある。担当者の口にした法外な制作費(確か200万だか)に対し、瞬時に「CD作るのにもそんなにかからへんで、ぼったくりの騙しやな」と応答した。この時、私の中にパンク的な心性があった事を思い出す。パンクで培われたD.I.Y精神をなめてはいけない。しかし沢山の人間が騙されたていたようだ。本が売れない時代である今、息絶え絶えな出版業界が、作家志望者の夢につけ込んで金をむしり取る詐欺商法が横行しているのを後で知ったが、その出版社で感じた‘じわっとした’怒りを覚えている。激怒ではないが、違和を感じた。パンクがあった。私の心底に。

ディスチャージの『NEVER AGAIN』は1984年のLP。
音質の異なる初期ナンバーと中期ナンバーをごちゃまぜにした編集物特有のバラバラさが目立つLPだったが、その初期ナンバーのみをremix versionsとした今回のボーナス付きCDでもやっぱりバラバラだった。しかも4曲のボーナスもミニアルバムやシングルでの既存曲だから新鮮味もない。いや、それは最初から解っていた事だった。そもそもディスチャージなどというバンドに音質だのリマスターだの、期待する事自体がお門違いというものだ。
じゃあ、何故、私は今頃、こんなCDを衝動買いしたのか。急に聴きたくなったのだろう。大ファンだった。嘗て。シングルもアルバムも全部、持っている。実家のレコード棚にあるLP『hear nothing see nothing say nothing』(82)の見開きジャケには‘俺はこのレコードを一生、聴き続ける!’とカッターで切り刻んだ二十歳の自分がいる。若い、若い。危ない、危ない。

来日公演が決まった直後に解散。代役で来日したG.B.Hをツバキハウスで観たのが85年。再結成後のメタル路線は好きじゃなく、ディスチャージを追う事はおろか、そのままハードコアパンクというジャンルとも縁遠くなった私だが、その後の音楽シーンの中でハードコアパンクの意義を感じる事がままあったのは事実。ハードコアラップ、ミニマル、ノイズ、ボアダムズ、ペインキラー等を愛好する私の中に常にディスチャージという基点を想起させる部分があった。ポエトリーパンクとも言うべき「decontrol」のラップ的先駆性や「anger burning」にある確かな楽曲性は今更ながら感心せざるを得ない。また、「protest and survive」に見られるノイジーリフの反復演奏にはミニマルスラッシュとも言うべき、以後のグランジ等に伝播した広汎な影響をも感じている。反―音楽的コンテキストを疾走し、政治性、メッセージ先行を特徴としたディスチャージが実は音楽的影響度という意味で重要なグループだったと今では認識されて間違いないだろう。

オリジナルパンクの終焉とニューウェーブのメジャー化と入れ替わるように拡がった第二次パンクの波。それはハードコアが主導した音楽的な更なる純化(単純化)による低品質大量生産と風俗的画一化に顕れ、世間によるパンクの異端的認知に役立った。この時点でもはやパンクはロックファンやオリジナルパンクからも‘意味無し’の烙印を押され、鋲打ち革ジャンにモヒカンやクジャク頭といった風俗が蔑みの眼で見られる真のアンダーグラウンドの称号を‘勝ち取った’と言えよう。(時代遅れな)パンクファッションからクールスタイリッシュな装いに変貌したクラッシュが象徴する‘音楽寄り’を保守パンクと否定しながらハードコアは反批評的スタンスを生きた。そう、真の重要性はその‘生き様’の方であっただろう。ディスチャージが創出したハードコアパンクの影響度は先述した音楽的観点以上に、ライフスタイルの創造という点にこそあった。

そのライフスタイルとはヒッピー以来であろうコミューン生活を究極の形としながら(クラスに象徴される)、社会の隅々までそのエッセンスを浸透させる病原菌として顕在化した。ハードコアへの中毒的愛好が社会生活に支障をきたすブロウクンな人間を多数、生み出し、あらゆるドロップアウトやサボタージュが進行した。それらは総じてアナーキスト的感性を実生活で実現する態度であったと思う。バンドをやるかやらないかは問われなかった。生活自体が反社会的である事の方が重要だったのではないか。

ウィルスは日本にも伝播した。
私が東京に住んだ85年から90年、高円寺などでは昼間から何もせず、路上に転がってるだけのパンクスが多くいた。世界中の都市部に見られる一風俗的風景であり、パンクスとはある時期、社会における確かな一つの現象だった。サッチャーによる人頭税が導入された時のロンドンでの大騒ぎを思い出す。テレビに映るデモ隊に多数のパンクスが混じり、石を投げたり、自動車の窓を割ったりしている。自堕落で働かない奴らが騒乱を起こすという理不尽が本来の社会的弱者の主張とごちゃまぜになり、アンチの現象そのものを低レベル化させる事に‘貢献’していた。サッチャー改革の本質があの時点で理解できなかった私でも、もはやパンクスのアナキストぶりにその徹底されたアウトの精神を見、怠惰な人間の多くがパンクという鎧を手に入れたのだなと思った。長く続いた労働党政権による高度福祉社会は人間の勤労意欲や向上心を減退させ、それはイギリスの国力の低下、ひいては国民の経済観念や活性化を結果的には阻害してきたようだ。この時期、イギリスでは失業者とは仕事がない人間の事ではなく、仕事をしない人間の事であった、と言えば言い過ぎだが、あの時代の英国のカウンターカルチャーたるロック文化を豊潤なものにした背景に明らかに経済状態があり、その経済状態を背景にした人々のマインドがニヒリズムに直結し易いものだった事は確かだろう。従って体制批判、社会非難だけが蔓延した。ロックは頽廃から生まれる。それを証明するのがパンクーニューウェーブの時代のイギリスだった。サッチャーを嫌うのが‘常識’であったあの時代、多くの英国ミュージシャンの発言の‘偏り’に私が気づくのは奇しくも、ハードコアパンクによる社会的影響が顕在化した時期と一致している。90年代以降、英国がある種の停滞社会を脱し、経済の回復と共に人々のマインドが変化する事で逆にロックが衰弱してゆくのは必然であった。

ハードコアパンクは停滞社会における人々のマインドを怠惰の極限まで押し進め、爛熟したロックカルチャーを生み出したとする私の論はしかし、否定的見解ではない。ディスチャージを生んだもの。それは風潮としてのニヒリズムに抗し、能動的な生をハードコアという手段に託すパーソナルな契機に他ならなかったのだと思う。ボーカリスト、キャルは歌詞カードをライブで観客に配る生真面目なアジテーターだった。そしてその反戦思想の現在的有効性は敢えて問うまい。「state violence state control」と歌ったディスチャージは‘国家暴力、国家支配、国家による戦争’を攻撃したが、宗教絡みの対テロ戦に移行した現在の戦争形態が再び国家間によるものに戻る未来についての警告と解すれば良い。メッセージは未来永劫、有効である。

現在的視点で見ればハードコアパンクを肯定的に見直すキーワードは‘スピリット’、‘精神’という事になろう。しかもオリジナルパンクがメジャー化する事でミュージシャンへと変貌する最中、ハードコアがアンチコマーシャリズムを貫いた事は、D.I.Y精神の裾野を更に拡げる事につながる成果を生んだ。その精神は確実に伝播した。世界中に。誰もがバンドをやり、自分たちでビラを作り、自主制作音源で活動するような形態が当たり前になった現在、そんな‘遊び方’を準備したのは紛れもなくパンクの、しかもハードコアの方法論である。それが当たり前になった。お上や企業が用意する遊具には用はない。何でも自分でできる。そんな行動派をパンクスピリットによるポジティブな精神的発露とする正の見方とし、一方でパンクによる社会性喪失(低次元な‘自分さがし’や単なる悪行まで)を負の見方とするなら、パンクの革命的成果と負の面を含めた大きなパンクという一大現象を総括できる。

ディスチャージを聴いて今、熱くなる。心が燃える。やはり普遍的な良さがある。ロックの最良部分であるスピード、スリルがあり、ハードコアだけが併せ持つ危うさ、無謀さがある。人の知性を疑い、原始性へと引き戻す。理屈抜きの快楽と偏向なメッセージ性が混在し、その混乱具合がパンクにまつわる批評性をもある種、‘低次元な崇高性’へと導く。行為の盲目性を尊いものとし、その継続意志を喚起する。ハードコアのパワーとはそんな次元にあるのではないか。パンク評論家、森脇美貴夫氏は‘ディスチャージが載ってないロック史がもしあったら、そいつは全くでたらめなロック史だ’と当時、書いた。そんな事、言ってるのは氏だけであったが、それは今、本当だと解った。

‘俺はこのレコードを一生、聴き続ける!’と刻んだ二十歳の無謀。
26年も過ぎた私は今、その‘蒼い宣言’を守れると感じている。

2008.12.15





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