満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

LEVON HELM 『DIRT FARMER』

2008-06-18 | 新規投稿

レヴォンヘルムとロビーロバートソンの確執は性格の相違に端を発した表面上の行き違いではなく、もっと存在論的な問題、表現のコンセプトやアイデンティティーをめぐる本質的な違和感に根ざすものだったのだと思う。端的に言えばそれは暗黒への了解、闇への触手に関するロビーの積極性とレヴォンの消極性が本人達の無意識のまま拡がる事による不幸な相互不信だったに違いない。ザ・バンドの音楽性に最初から極めて本質的なアンビバレンツがあり、しかし、それ故にあの豊饒な希有の音楽を実現するマジックが生まれた。

ユダヤとばかり思っていたロビーが実はユダヤとインディオの混血児だった事を多くの人は、彼の86年以降のソロワークで初めて知る事になり、私はザ・バンドの音楽に潜む無意識の暗黒を想起する事になった。レヴォンという生粋の南部人と4人のカナダ人、その中で一人何となく浮くユダヤ系ロビー。アメリカンルーツミュージクへの愛という一つの結束帯だけで束ねられたバンド。金銭や版権管理という雑務をも含めたバンド運営に熱心なロビーの典型的なユダヤ資質はバンドを常に前に押し進め、それはややもすれば自堕落な他のメンバー達の尻を叩きながら牽引した孤独感と周りの無理解による苦悩をもたらせていたが、この時点では、‘ミスターアメリカン’レヴォンとのタイプの相違という次元で理解ができる。
しかしロビーがインディオとのハーフだったとなれば話は別だ。

ロビーを含めたメンバー全員のレヴォンへの敬慕とは土着アメリカン(ルーツミュージックの豊饒さを熟知した)であるレヴォンが醸し出す‘アメリカそのもの’といった文化的体臭に対する敬意であっただろうし、レヴォン自身の優越感も典型的な南部体質である自らの歌や演奏がルーツに根差すもので、決して借り物でははいという自負によるものであった筈だ。

レヴォンの歌った「the night they drove old Dixie down」は南部への偏見を打ち砕くという意味で当のアメリカ人をも改心させるが如く希有な表現力に満ちた曲だった。多くの‘進歩的’で‘リベラル’なアメリカ人がこの曲の持つ‘アメリカの原風景’にデジャヴ的感慨を覚え、その豊饒な歌世界に魅せられた。映画『ラストワルツ』を観た多くの人、恐らく世界中の人が、この曲の深い感動に‘アメリカ音楽’そのものを無意識に感知したのではないか。事実、私はそうだった。とてつもない名曲だった。
コンポーザーとしてのロビーが夢想するアメリカの原型を体現してみせるレヴォンヘルム。彼は皆が憧れる‘アメリカ’そのものだったのだ。

しかし。
レヴォンヘルムが体現する‘アメリカ’がフロンティスピリットを具体化したインディオ駆逐の犠牲に成り立つ理想郷なら、そこには更に遡るルーツとしての原住民文化、ネイティブアメリカンのエッセンスは消去されているだろう。アメリカンミュージックは連行したアフロアメリカンを起源に持ち白人の感性と混合され成立したが、一方で、インディオは音楽的影響についても微少に留められた。
ロビーロバートソンがザ・バンド解散後の数少ないソロワークで顕在化させたのは、そのインディオ文化の音楽的抽出であり、ザ・バンド時代には制御された表現の形だった。そこに私はレヴォンへの対抗意識が感じられる。つまり、‘真のアメリカのルーツは自分の血にこそある。君ではない。その原アメリカを体現でき得るのも私である’と。

インディオの事を‘ネイティブアメリカン’と言う。
ヨーロッパから渡来した白人や彼等が連れてきた黒人奴隷より先に居住した原アメリカ人なのである。言うまでもなく。インディオとユダヤのハーフであったロビーがその風貌を、ザ・バンド解散以降、年を重ねる毎に変化させ、赤茶けたインディオらしいものになっていった時、彼はルーツ目覚めたのだろうか。ザ・バンド時代、レヴォンと共有したアメリカンルーツミュージックへの愛は、数々の豊饒な音楽を生み出した。そこで共有した音楽には何ら相違点はなかった。それは確かだろう。しかし意識下においてロビーのインディオの血は‘異なるもの’へのアプローチを求めていたのではないか。ロビーは自分でもそれを判別できなかった。ツアーが嫌で早く解散したかったロビーとドサ周りも厭わないレヴォンの性格的相違は表現力の源泉への意識の相違という深い闇にこそ原因があったのだ。

どうりでザ・バンドの音楽に直線的な開放性、数多あるR&B、カントリー、ブルース、ウェストコースト等の音楽の多くに見られる‘容易さ’がなかったわけだ。中学時代の私にとってザ・バンドとはイーグルスのように簡単に味わえる代物ではなかった。
ザ・バンドの陰陽的とも言える奥深い音楽性はオルターネイティブな本質に因るものが大きかったのだ。アメリカンルーツミュージックの集大成的体現であるザ・バンドは実にアメリカンゴシックをも裡に含む神秘音楽だった。光と闇、陽光と暗黒が共存するトータルミュージックのマジック的本質がザ・バンドの味わい尽くせぬ複雑さ、一筋縄ではいかない多面性の源だったのだろう。
それを顕在化させたのが、ロビーによる無意識操作のような‘異物’の注入であったと今、感じる。そう言えば山本精一氏がロビーのギタープレイを‘レイドバックやR&Bという要素だけでは括れない。かなりヘンで変態的なギター’と語っていた。(記憶違いでなければ)たしかにそうだ。そしてそれを証明したのがロビーのソロワークに於けるインディオ志向だった。ロビーはその志向をザ・バンド時代とは違い、今回は意識的に行ったのだ。

しかし。
ソロワークに於ける、その意識的な‘ネイティブアメリカン’志向の試みが音楽的に成功しているのかと言えば、私はそうは思わなかった。そのエスノアプローチは幾分、学術的で、音楽のグルーブに欠ける。何よりもロビーのギターがほぼ封印される音楽性にはザ・バンドのような生命力や躍動感がない。サウンドメイクの斬新さやコンセプトの重さだけが、感覚刺激的な驚異感を醸し出す事はあっても、そこにはアメリカンミュージックの生命線である娯楽性がずっと後退したロビーの孤独性しか感じられなかった。
ロビーは例えインディオ志向の音楽を創造するにしても、その触媒的位置からレヴォンという‘南部アメリカの発信器’が必要だったのではないか。

『contact from the underworld redboy』(98)を最後にアルバム制作から遠ざかる長き沈黙に私はロビーロバートソンの才能の枯渇を感じ、方向性を見失った表現者をイメージする。即ちネイティブアメリカンという自らのルーツさえ、それは彼の表現拠点たり得なかった。一方の血であるユダヤ的性格がその‘彷徨い’を助長するのか。地に足をつける土着性から永久に乖離し続けるロビーにとってザ・バンドの四人は彼の音楽を進展させる為には別れるべきではないメンバーだったのではないか。彼以外の誰も解散を望んでいなかったのだから。

ガースハドソンは‘基本を反復する’マウンテンミュージックの事をずっと以前に言及していた。インディオの儀式としての音響や呪術的サウンドに通じる要素がザ・バンドに元来、あり、そんなゴシック感覚は表面的なバンドサウンドの中に隠し味的に存在していた。ロビーの作る楽曲に無意識にそれらが潜み、楽理に精通したガースだけはそれを嗅ぎとっていたのではないか。従ってガースが施すアレンジはそれを充分、踏まえたものだったのかもしれない。恐らくガースがザ・バンドの曲の潜在性を表面に引き出していたのだろう。

ロビーがネイティブアメリカンを題材にした小難しい制作をしていた80年代以降、レヴォンはRCOオールスターズや数々のソロ活動を続行していた。そしてロビー抜きのザ・バンドは隠し味なきそのストレートな音楽性がエンターティメントを発揮していただろう。彼の周りには常に仲間が集まり、その人柄が他人を惹きつけていた。彼には仲間と音楽を楽しむというスタンス以外の姿勢はない。売れなくなり、嘗ての栄光とは程遠い境遇になっても「昔に戻っただけ。ビール瓶がとんで来ない限り続けるだけさ」と、そのドサ周りの旅に懸念はない。その音楽性は当然、ザ・バンドの深みに及ばないが、彼の無比と言える歌声の魅力はその‘浅さ’を相殺していただろう。

しかし。
喉頭ガンというレヴォンにとって命と言える歌声を封印される事態は彼を幾分、内省的な資質に変えたであろうか。精神の深部との対話があった筈だ。嘗て、長い半生を放蕩と快楽、陽性に生きたレヴォンの静かな生活を想う。リチャードマヌエルの自死。リックダンコの逝去という悲しみを乗り越え、レヴォンは歌ってきた。しかし、ザ・バンドの‘声’は三つ目の死を迎えたのか。

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『DIRT FARMER』はレヴォンの復帰アルバム。喉頭ガンを乗り越え、たどり着いたのはアメリカルーツミュージックの境地と言える重厚な世界であった。先程、私が‘浅さ’と断じたこれまでのレヴォンの諸々のソロワークとは対極にある深みのある作品となった。これは驚くべき事だ。1曲目のイントロを聴いた瞬間にその泥臭いルーツミュージックの鋭さに衝撃が走る。もはや違和感さえ感じるその伝統美。喉頭ガンによる声の制御が逆に歌の深みに影響をもたらし、レヴォンにトラッドの伝道師たる正統の資格を与えたかのようだ。ザ・バンドの高みに何とレヴォンが再び到達した。オルタナカントリーなど、この音楽の前には全滅。嘗てのウィリーネルソンでもここまで濃い音楽を作ったか。
音楽への愛が結実した。その重さの勝利。レヴォンの日常感覚からあふれ出る自然体の音。家族愛や自然、大地、ドメスティックなアメリカの保守志向と生活文化がレヴォンの中に根を張り、一つの信念のように揺るぎない世界を構築している。
ここにアメリカンミュージックのスタンダードが登場した。
伝統を後世に伝え、継承の種を蒔く音楽。

ルーツをめぐる主導権とはコンセプトではなく、音楽への愛の深さによって計られるものである事がここに判明した。ロビーロバートソンはこの作品をどう聴くだろう。

2008.6.18

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