満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

MARK STEWART 『EDIT』

2008-06-25 | 新規投稿

若者の初期衝動とは必ずしもストレートなロックに向かうとは限らない。ファンクとレゲエが好きなミドルティーンがパンクムーブメントに出会ったらどうなるか。3コードや8ビートの修得し易さ(比較的)を通り越して無謀にも自らの嗜好へジャンプする精神も尊いだろう。初心者なのでアフタービートなどは勿論、16も弾けない。もしかしたら8ビートもちゃんとは叩けない。しかし一直線のロックはやりたくないし、内面は屈折し世間に意見がある。激情もある。さて、音を出したら凄い事になった。ギクシャクドッタンバッタン、ギャーってな具合に。ビーフハートの再来?初期衝動を素直に出しただけなのさ。なのに、前衛だの社会派だの言われてしまった。餓えたアフリカの子供のキッスのアルバムジャケットの衝撃は新たなメッセンジャー登場との波紋を拡げる。いや、確かに社会問題に目は向いてるけど。まあ、それより内面の混沌をワーー!っと叫んでいるのが本当であって・・・

80年前後、PALMS(なつかしすぎるぜ)に通っていた私にとってポップグループは‘ファンク’だった。そのディスコ(クラブとは言わない)ではPIL 、DAF、ダンスソサエティ、ファンボーイスリー、マラリア、トーキングヘッズ等と一緒にポップグループも頻繁にプレイされていたのだから。その歌詞やグループの姿勢から左翼思想を心棒する‘赤い’奴らという印象も持ったが、その本質は初期衝動がストレートなロックにならず、屈折したヘタウマファンクになった快楽主義にある事をうすうす感じていた。(この点では「fool’s mate」より「rock magazine」が正しかったのかな )

ポップグループ解散後、屈折ファンクをよりグルービーに変化させたリップリグ&パニックやピックバッグ(来日公演、最高だったな。サイモンアンダーウッドのベースにしびれた)と違い、マークスチュワートはアンチグルーブを貫いた。マフィア名義の『learning to cope with cowardice-the director’scut』(83)の‘聴き辛さ’は格別で、その音楽の聴覚刺激的な劇薬性はもう、鑑賞の余裕を超えていた。誰が聴けるかこんなもん、という感じだった。マフィアは後のタックヘッドで、超合金ファンクをプレイする強者だったが、マークスチュワートのバックに回ると、そのマークとエイドリアンシャーウッドによって演奏がズタズタにカットアップされてしまう。グルーブが解体され、編集による音の刺激物と化す。しかし今、思えば、この解体されるグルーブにマークスチュワート琉のファンク様式の異化作業があるが、その中で常に真ん中に在った彼のボイスのリズムこそは、決定的なファンク要素であった事を再認識する。彼の大きく上下するボイスには確かに‘踊れる’要素が充満しているだろう。ポップグループ以来、一貫しているのは、声の抑揚に感じられる内的リズムの起伏の大きさ、その振幅が正に‘ファンク’そのものだという事だ。『metatron』(90)で意外なデジタル感覚を注入し、‘聴きやすく’なってきたが、声のファンク性という核は不変のスタイルだったのだ。

新作『EDIT』でもその印象はボイスの真っ正面な‘ファンク’性に尽きる。そのメロや反復されるリフのようなボイスの中に内面から放射される鼓動そのものがすっ飛んでくるだろう。極めてグルービーな歌としか言いようがない。決して耳にだけ‘くる’刺激音じゃあない。全身全霊、インパクトのかたまり。危険です。
マークスチュワートの相変わらずの社会問題への意識と内面の混沌に根差す過激な音響世界。ニューウェーブ世代の誇れる数少ない‘現役’。
最強。

2008.6.25



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