満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

大城美佐子  『唄ウムイ』

2008-01-08 | 新規投稿
    
屹立する歌が、既にそこにある。
それはもう何時間も、何年もずっと、そこで鳴り響いている。細く長い声が、糸を引くように澄み渡る。乾いた空気が少しずつ潤い始め、豊饒な歌空間が拡がってゆく。歌われた唄による永い時間の、その一瞬、一瞬をスナップ写真で採集した時軸の破片。

『唄ウムイ』は‘女嘉手苅林晶’ 大城美佐子の10年ぶりのアルバム。全然、久しぶりではない。いつも、そこかしこで歌う人。歌を録る意義よりも、歌う行為の中にこそリアリティを見出す人。定期的に作品を発表するという商業主義的習慣とは無縁の人。言うまでもない。

どこで読んだか忘れたが、大城美佐子に興味深いコメントがあった。
‘今の若い人達は手取り足取り教えてもらっているが、私は先輩の歌を見よう見まねで吸収した。お茶くみや掃除なんかの世話をしながら、その合間に歌うのを後ろからじっと聴いて学んだ’といった内容だったと思う。
徒弟の習わしによる歌の伝承、その深さ、密度を思い知る。伝統芸能に真実は一つしかない。絶対法則に則る芸の深化こそが到達であって、そこにメジャーのバリエーションはない。多角化や異種混合さえ、元より在る中心を外さない事が強度の前提となるだろう。芸のツボ、その秘技の会得とは、パフォーマンスの技術以上に、その心得、いわば世界観の修得を内側から解する心こそを生育しなければならないのだろう。そう言えば大家、糸数カメも八歳で遊郭に預けられ、芸を仕込まれる事で天才となった人だった。芸とその精神を獲得する人生だった筈だ。
大城美佐子もまた、唄者の神髄を極める道程をずっと歩んできた選ばれた人なのだ。

<若い世代が聞ける沖縄民謡のスタンダード>というCDの帯コピー。
なんか違和感がある。
伝統芸能は伝統芸能である。芯は動かない。聴けない者は聴けるようになったら聴けばいいだけの事だ。

CD『唄ウムイ』はしかし、完全にオーソドックスな沖縄民謡作品となった。少し前の登川誠仁の作品にあった若輩世代迎合的な逸脱は全くない。正統の極み。知名定男の弾く琉琴の美しさ。歌の伸びやかさも自然な奥行きに頼り、そこはやはり唄者の力量がミックスを不要とする。歌が引き立てられている。充分に。
傑作だろう。しかしこれは大城美佐子の通常感覚に満ちた‘普通’の歌世界である。それが採集された。制作の力感と大城美佐子のさり気なさが交差する。その並立感にこそ感動する。

CDのジャケットに張られた<耳が洗われました。形容するのがもったいないほど、大傑作だと思います。>というUAという人のコメント。
その通りなんだけど、これも、
なんか違和感がある。

2008.1.8

 
コメント
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