満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

JOHN COLTRANE QUINTET  『THE 1961 HELSINKI CONCERT』

2008-01-25 | 新規投稿
   
中古レコード店に行くとジョンコルトレーンだけは初めて見るジャケットのものはブートも含めて無条件に買う。聴けば大体は知ってる音源のジャケ違いだったり、どこかの国の編集物の場合が多く、後でがっかりする事も多いのだが、先日、『黒真珠』という見た事も聴いた事もなかったLPをみつけた。れっきとした国内盤である。発売は65年だが内容はプレスティッジ期である58年頃の録音らしく、音楽的にはあまり好みではない。しかし私はこのLPの裏ジャケに記された立花実という人の解説に収録されたオーソドックスな音楽以上の感銘を受けた。この文章が載っているだけで僅か30分ばかりの演奏が収められたこの『黒真珠』を買って良かったと思ったのだった。
ネットで検索すると立花実氏は1933年生まれで68年に急逝したジャズ評論家である事が判明。その活動期間はわずか3年あまりだったという事で、遺稿集『ジャズへの愛着』(70)があるようだ。勿論今では絶版である。

彼の批評主旨はブルース概念の拡大、普遍化であるようだ。曰く
「ジョンコルトレーンの成長の歴史はひとえにブルースメロディの拡大化、豊饒化の過程であった。(略)ジョンは芸術家の義務としてブルースを共同体へ、すなわち世界(ザ・ファミリー・オブ・マン)へと戻したのである。戻したとは献納したと言い換えてもよい。」

「民衆の生活から生まれたブルース(略)それは基本的な、そして普遍的な生活感情、あるいは世界観の無垢な反映、それも全き肯定による反映なのだ。それ故にわれわれはコルトレーンもレイチャールズもオーネットコールマンもライトニンホプキンスもつまるところ同じ音楽なのだと強烈に実感できるのである(略)それなのにわれわれは何としばしばコルトレーンとライトニンホプキンスの間に強いて違いを見出さないと気が済まないのだろう。」

「(略)ニグロの音楽は形において違いはあっても、ブルースという共有財産をエッセンスとして発光させているが、そのブルースも、もとを正せば、さまざまな民族遺産の混合から発酵したものである。とすればブルースピープルはワールズピープルなのであり、(略)世界にはブルースと呼ばれることがなくても、ブルースに酷似した音楽が存在しているに違いない」

「(略)ジョンはこの世界の全ての物は動かしがたき相互関係を持っていることを痛感させられたのであった。そしてジョンはひたすら吹いた。(略)この時、ブルースメロディは激しく自由な方向へと動き始めたのであった。そして聴衆はブルースメロディが本質的に<自由>なものなのであり、<世界>と階調を保ちながら絶え間なく生成していくものなのだという事を知ったのである。ジョンのサウンドする(原文ママ)あの叫びは本質的に<世界>への肯定的賛歌なのである。」

細分化したアフロアメリカンのあらゆる音楽ジャンルがすべからくブルースを源に発生しているという一般常識をより徹底認識し、表現やそれにまつわる批評や好みの問題に大きく立ちはだかるセクト性を乗り越える指向性が感じられる。これは根源的、且つ現在的なテーマでもあろう。確かにコルトレーンのファンでライトニンホプキンスを聴く者は少ないかもしれない。更に私のようにコルトレーンをアトランティック以前と以降に明確に区別して(差別して)聴いている‘原理主義者’も結構、多いと思う。立花実氏の批判はそうゆう諸々の‘狭さ’に向けられているのだと思われる。

表現、批評、嗜好とは小異を追う事で成立するものでもある。オリジナリティというテーマに係わる限りでは。しかし大同に向かう表現、批評、嗜好こそが質実に富む方向を約束するものである事も忘れるべきでないだろう。分かってはいるのだが、理論や概念と等しく、私達は感性の領域までもひどく固定される傾向にある。深く愛し、接するほど、意識は‘点’に向かい先鋭化し、大きな輪ではなく、小さな円を形成する同類項を求めてゆく。
革める手立てはないのか。音楽やあらゆる表現物に対し深く立ち入らず、情報を処理するが如き、軽く接するという方法はしかし本末転倒だろう。言うまでもない。

おそらくその答えは‘根源’に対する嗅覚、‘奥底’に向かって感じ入る力を磨く事以外にはないような気がする。細分化されたものにそれぞれの価値を認め、最低限の排他性を脱し、尚、表現に芯となる柱を打ち建てる。そんな底辺を保持できれば、一見、異なるもの同士の共振が多く生まれ、より根源を意識し安くなるのではないか。
立花実氏がコルトレーンとコールマン、ホプキンスを同列に感知しているとすれば、それはブルースという源を音楽スタイルの一種として共有する意識以上に、演奏者がブルースを奏する行為の奥にある感情レベル、そんな内面に関する最大公約数的な‘共通事情’を三者に対し嗅ぎとっているからではないか。確かにそんな聴き方ができれば、自らのセクト性やあふれる情報による洗脳からも脱する事が可能になるかもしれない。

私は以前、拙著『満月に聴く音楽』(06)でこのように書いた。
「コルトレーンは形態的にはジャズを演奏した。しかし彼は音楽そのものを演奏した。
音楽にジャンルがあるという事はそこに断絶があるという事だ。しかしその壁の越境と異なるものの混在のエネルギーを音楽はいつも必要としてきた。音楽は常に越境と混在によって再生してきたのだから。しかし越境と混在とは音楽の形態、表面のテクニックによる様式の事を指す場合が多い。従って越境と混在は決して最終的にはボーダーレスへとは至らず、新たな断絶へと至る。この循環の永続状態であろう音楽のしかし不変要素があるとすれば、それがブルースだ。ソウル、スピリットと言っても良いだろう。いかなる様式を纏ってもその内側に在る中核、それが音楽の善し悪しを示す一つの基準であるブルースの存在なのだ。
コルトレーンはジャズという狭いフィールドでプレイし、音楽のジャンルの越境意識はなかった。しかしジャズファン以外にコルトレーンの音楽に魅了される人が多いのは事実である。それはジャズというジャンルの許容の広さによるものではない。コルトレーンの演奏する<歌>が人間の心の領域にしかベクトルを持っていないからであり、スタイルを味わう快楽以上の深みとそれをもはや不要とするほどのダイレクト性、音→心という直接性を持つからだ。(略)音の核が一つの衣装を纏う事でジャンル化する。そしてその衣装の種類によって私達は好き嫌いを感じる事が多い。しかしコルトレーンの音楽はそんな衣装を切り裂いてこちらへ向かってくる。それを私達は裸の魂で受け止める。コルトレーンの場合、そんな聴き方しか許されないと言えば、言い過ぎか。しかし音楽に人が‘影響を受ける’事とは正にこの瞬間によってのみであろう。」

こんなご大層な事を10年以上も前に、のたまっていたものだが、その私自身が特にジャズに関しては今尚、分厚い党派主義に絡め取られているのは一体、どうした事か。ブルースを強調していた割りには私にはジャズにその様式において明確な好き嫌いが存在する。MJQやホプキンスの音楽には全く興味を示す事はない。ジョニーハートマンと競演したコルトレーンのアルバムを単にレコード会社の要請を受けただけと今の今まで疑っていない。このような意識は自説に相反した態度と言っても言い過ぎではないだろう。

立花実氏の批評は私を少しばかり覚醒してくれた。今日ではおそらくあまり知られていない、無名の批評家と思われるが、その言説は現在、とても有効なような気がする。貴重な考えだ。コルトレーン理解に関し、「<世界>への肯定的賛歌」、「<世界>と階調を保ちながら絶え間なく生成していく」という言葉に氏の神髄があるだろう。理想主義を頭上に掲げるのではなく、底辺でのラディカリズムを経てこそ至る場所と意識する感覚が窺える。最終的なポジティビティこそを表現の始まりと終わりに設定しているのではないか。

ネットで検索したら、立花実氏の遺稿集だという『ジャズへの愛着』(70)の一部が掲載されており、そこにこんな一節もあった。
<(略)「音楽は宇宙の姿を映し出したもの」だからである。音楽家は楽器をもってそれを、生き生きと映し出さなければならない。それは世界及び他者と、自己を分離せしめる自己主張によっては成しえない。>

自己主張をもはや、表現の聖域とみなさない、この音楽感性の広大さ。
ジョンコルトレーンを常に黒人闘争史観の中で位置付ける愚を使命のように繰り返す有名な<世界的コルトレーン研究家>もいるが、この論者の考えなどは立花氏の言説の前では何とも了見が狭く感じてしまう。限りなく狭い。

『ジャズへの愛着』を古本屋で捜したくなった。
著書のタイトルに‘愛着’という語を選んだ立花実氏。
分かった。この人は音楽がめちゃくちゃ好きなのだ。その<好き度指数>が半端じゃない事がかような、突き抜けた感性をもたらしているのだ。しかし35才で亡くなったとは。

写真のCDはLP『黒真珠』をフォーエバーで買った同日、ナカで買ったブート新譜CD。『黒真珠』より先に聴く。1961年のフィンランド公演。メンバーはエルビン、マッコイにベースはワークマン。ゲストにエリックドルフィ。最強の布陣。演奏も最高。音質はまあまあ。しかもこれは初出の可能性あり。よく調べてないが。恐らく。
しかしボーナストラックとして何故か時を遡ったビバップ期のデュッセルドルフでの演奏が3曲収録されている。この構成のアンバランスさがいかにもブートなのだが、まあいいかといった態度で一回目を聴く。やはり面白くない。ウィントンケリー(p)、ポールチェンバース(b)、ジミーコブ(ds)とのクァルテットだが、曲目を見る限り、おそらくマイルスグループでのマイルス抜き(何かしらの事情で)の演奏記録だと思われるが、ちょっと不明。いずれにしてもこのあたりのコルトレーンが私は普段、全く聴かないゾーン。このCDでもボーナストラックに入るや私のテンションは途端にトーンダウンし、聴く態度すら変わってくる。家のチビ娘が持ってたサッポロポテトを「パパにもちょうだい」と言ってバリバリ食べたり。ナメてんのか。しかし『黒真珠』の立花氏の解説の読後、二回目のリスニングで私は膝を正した。コルトレーンのサックスに集中する。
浅はかな私が気がつかない美しい歌をそこに発見できた。
全く聞こえなかった歌=ブルースを。

2008.1.25



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3 コメント

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初めまして (ラムブラー)
2009-04-10 15:15:17
ふと 立花実が気になり携帯で休憩時間に検索し辿り着いた者です 今 平岡正明の 昭和マンガ家伝説 という新書を読んでいます で平岡氏の著書で立花実が自殺したのは克明に記録したノートを電車に忘れたからだと いう部分を思い出したからです 六十年代の終わりからジャズに興味を持ち父の会社の息子さんからスイングジャーナルの六十年代のバックナンバーをどっさりもらい立花実の文は読んでいました で死亡した記事もあったと記憶しています 文学青年であったのでしょう 生真面目方であることは当時中学に入りたての私も覚えております 訳あってレコードをすべて手放し手元にはコルトレーンの音源はまったくありません が 頭のなかでいつでも演奏はスタートさせることが可能です その後ジャズから遠く離れた私ですが あの四人を忘れることはしぬまで無いのです
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コメントありがとうございました (宮本)
2009-04-14 10:20:51
立花実氏の死が自殺とは知りませんでした。平岡正明はコルトレーンについての著作もありますね。今度、読みたいと思います。コメントありがとうございました。
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返信ありがとうございます (ラムブラー)
2009-04-24 09:10:15
その後 じっくりと最初から読ませていただいてます 著書は一般の書店にも置かれているのですか ビック映劇と出て来てまた思い出しました 大晦日にウッドストックをやっていて映画の最後にラインアップの紹介場面?の時にテンイヤーズアフターが映ってて何回見ても出てこなく寝てしまって見落としたのかと結局一日居座っておりましたが 完全版 あるなら見て見たいものです ジミヘンがみたかったのですが カットされてるようでしたし と今思い出した次第 ではまた
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