満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

藤井郷子クァルテット  『Bacchus』

2008-01-15 | 新規投稿


意外な人(ベーシスト早川岳晴)を意外なところ(自転車雑誌「ファンライド」)で見つけたのは5年くらい前の事。私自身もロードバイクにハマッた頃でもあり、「そうか、あの超合金ベースプレイはやっぱり自転車の有酸素運動の賜であったか。」と感心したが、ホームページを見てその本格的レーサーぶりに更にびっくり。週末のレース参戦、心拍トレーニングやレースリザルトなどが克明に記録され、体調の自己管理意識、勝負に対する準備の感覚はもはやプロ級。特にヒルクライムに強いようで、更に尊敬。

タフネス早川岳晴の演奏の力強さに象徴される藤井郷子(p)クァルテットは彼女の数あるプロジェクトの中でも最も外向的エナジーの強いユニット。何せドラムがあの吉田達也(ds)。早川との超ヘビイ級リズムセクションはもはやメタル感覚の気持ちよさ。『zephyros』(03)は全ての音楽ファンが聴くべきパワーミュージックだった。

新作『Bacchus』も嵐のように吹き荒れる変拍子プログレジャズが展開される。
ただ、これまで以上にピアニッシモが随所にあり、ダイナミクスが増している。音の強弱感が楽曲に深みをもたらしている。また、四人のソロが強調され、曲のメインテーマ意識の拡散に向かっているようにも感じる。元々、リフやリズムパターンの強度のみで楽曲を組み立て、ジャズらしきテーマを設定せずとも、濃厚なテーマを感じさせる力量が藤井郷子オリジナルの特徴だったわけだが、それが今回、より顕著になった。

藤井郷子にとってテーマとは決して明確なメロディのみを指すものではない。印象的なフレーズと同等にリズムパターンや音の間さえも何らかの‘想い’から発せられる彼女の<歌>であると感じる。

藤井郷子の内側から生み出される歌。その指先から発せられる多様な歌がリズムセクションの響きの末端まで浸透し、リード楽器による歌とリズムセクションによる歌が本当の不可分なものとして存在するようなインタープレイが繰り広げられる。今回、吉田達也のドラムがいつになくジャズ的スウィング感を醸し出す場面が多い事も四つのパートの‘均等性’をもたらした要因かもしれない。藤井郷子クァルテットは4等分化したパートの均等的合体感を実現した。

藤井郷子はオリジナルしか演奏しない。カバーやスタンダードを演奏する藤井郷子を私はイメージできない。この人の演奏に楽曲と戯れるような意識は皆無だろう。ある‘想い’をぶつけるようなスタイル、そんなロック的、衝動的なものを感じる。内面的なのだ。リリシズムも、ある意味、ルサンチマンもある。怒りさえも。そんな多様な精神状況を反映させながら、そこに音楽至上主義的な構築意識を徹底させる。初期衝動というロック的感性を保持しながら、音楽の外形的完成度こそを目指すのだ。
このクァルテットの緻密なアンサンブルはもはや複雑でもある。しかしこれは決して音符の遊びではない。<必然的>な音楽だ。それを強く感じる。このような難易度の高い楽曲を作る藤井郷子の内面とは果たして。

早川岳晴は自身のホームペイジで、このグループを以下のように紹介している。<ワールドワイドに活動するめおとFreeJazzコンビにルインズの吉田の衝撃ドラミング。曲がムズカシイのが悩みの種。ええい、ディストーション踏んじまえ! >

体力と技術を要する名人のみが演奏が可能な藤井郷子作品。彼女の内面世界の深さと欲が、それを要求する。早川岳晴レベルでも決して手を抜けない。彼はロードバイクでひたすら鍛え続けなければなるまい。

2008.1.14
 

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