満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

CAETANO VELOSO 『MULTISHOW AO VIVO CE』

2008-01-04 | 新規投稿
  
私が初めて通販で買ったフェルナンデスの安物のベースを、まるで別物のようないい音で演奏した奴がいた。あの時、楽器とはそれを弾く人間によって違った音が出る事を思い知り、下手なくせにいい楽器持つのはカッコ悪いと思った。「俺も上手くなってフェンダージャズ買うぞ」と誓ったのは昔の事。今はBTLのベースを弾いている。上手くなったかどうかは知らないが。

ブラジルには楽器をいい音で鳴らすという基本感覚があるような気がする。
その甘い声が決して好みではなかったカエターノヴェローゾというアーティストに知らぬ間に引き込まれていったのも多くのアルバムで聴ける、その楽器群の音の素晴らしさ故であり、『LIBRO』(97)は私にとってのカエターノ入門であったと同時にブラジル音楽へのパスポートになった。パーカッション群、そのリズム楽器の異常なほどの音の良さ。
この音の良さは本当に何なのだと思った。多くの人にとって楽器が生活に密着した国柄だろう事は容易にイメージできるが、それ以上に弦や皮というものの特質を響きによって理解し、楽器の生命力を体内に同化させようとする意識が染みこんでいるという感じがする。楽器が身体や心から連続してあるものという感触か。ドンカマ万能主義や自然発生的サウンドの欠如という多くの英語圏の商業音楽とは程遠い感性の地平をそこに見る事ができる。楽器という道具をまるで生きたものとして捉える感覚があるのではないか。

<カエターノ版オルタナロックアルバム>という帯コピーに嫌な予感がしたのは『CE』(2006)だったが、聴けばそれは杞憂に終わった。ギター、ベース、ドラムというロック楽器が殆ど生音のまま演奏されるその潔さ。その簡素な音のインストウルメンタルに歓喜したのは、ロックフォーマットにもかかわらずやはりここには紛れもない<ブラジル音楽>があったからだった。<オルタナロック>という文句は間違い。『CE』には轟音による誤魔化しも、音響操作によるドーピング、下手を手直しする厚化粧もなかった。至って単純な<演奏>だけがあった。ギター、ベース、ドラム。全部そのままな音。殆どノンエフェクトな生音だ。私は感嘆した。こんな潔いロックが今時、あるのかと。録音・音響機器の異常発達した欧米に立ち後れているその<後進性>にその理由を求めるのもお門違い。演奏者の感性そのものが音に現れる。<オルタナロック>ならぬ<王道ロック>をカエターノはやった。

『MULTISHOW AO VIVO CE』(セー・ライブ)は『CE』の布陣によるリオデジャネイロでのライブアルバム。独特のタイム感覚によるロックビートにカエターノの詩的世界が融合。ノンエフェクトサウンドによるグルーブが疾走する。カエターノの旧い曲も違和感なくロックされる。観客も大合唱。昨今の欧米ロックシーンが喪失した主旋律=テーマが太く存在する音楽。制作概念が<演奏>に準ずるという嘗てのロックの正統性を感じさせる。

楽器をそのままの形でいい音で鳴らす。
それはジャンルや世代を超えたブラジルミュージシャンの特性だろうか。
このCDの帯も<ライブでさらに衝撃を増した、カエターノのオルタナロック最新形>とある。訂正するべきだ。これこそが王道ロックなのだから。

2008.1.4

   


コメント
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