満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

   Zero 7   『the garden』

2007-10-17 | 新規投稿
  

ジャケット帯に「太陽の光をたっぷり浴びたやわらかい音楽」とあるが、全くそんな感じはしない。どんより曇った空、モノクロームな世界が密室に鳴り響いている。開放感はない。あくまで私の感じ方だが。曲がイマイチなのだ。ただ、ムードがあるだけ。ソウルやソフトロックをダウンテンポに乗せ、ほどよい音響操作で心地よさに溢れる音楽を目指しているみたいだが、とにかく曲が今ひとつ。中途半端。4heroぐらい楽曲に光るものがないと、この手の音楽は苦しい。これが良いと感じるのはムードにヤラレて、それで良しとする人間だけじゃないかなと思う。このzero 7というエンジニア畑のユニットは音の装飾や削除をスタジオで楽しむ人達で、音楽で伝えたい事はないような気がする。だから歌に芯がない。むしろ拙い演奏テクニックや嘘っぽいソウルバラッドのチープさ加減に80年代ヘタウマニューウェーブに近い感性を感じる。それを狙っているのか。

『the garden』というタイトルにジョンフォックスの傑作『garden』(81)を思い出す人間も多いだろう。近未来世界をテクノロックで創造したウルトラボックス脱退後、ジョンフォックスが制作した自然主義回帰的な音楽だった。あの後、エレクトリックポップはOMDやアソシエイツなど少なからず、ヒューマニズム、自然主義へ向かった。室内楽から精神の解放、屋外への放射へシフトしたのだ。テクノがソウルミュージックに進化した瞬間だっただろう。結実点はコクトーツインズの『blue bell knoll』(88)だ。太陽が燦々と降り注ぎ、人の魂のヒダが一つずつ透けて見えるような繊細さと開放感。音に風を感じ、歌に太陽が宿る。究極的な解放性音楽だった。

zero 7の『garden』。CDのライナーには女性ライターが<圧倒的なほどの開放感>と書いている。耳とは人によってこうも違うものだなと思う。

2007.10.17
  
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     Jose Gonzalez  『Veneer』

2007-10-16 | 新規投稿

スウェーデン在住のアルゼンチン人二世であるホセゴンザレスのアルバム。アコギの弾き語りによる静謐な世界。澄んだ声。サウンドの乾き具合。透明感。昨今の音響派全盛時代にジャストタイミングな音楽だと感じられ、スノッブ受けしそうな気配。
しかし私が最も注意したのはギターの異常なグルーブ感だ。このドライブ感は南米の血だろうか。ライナーやネット情報ではニックドレイク、エリオットスミス、ビートルズ、トータス、ジョイディビジョン、ブライアンウィルソン等と比較され語られているが、何なのかと思う。色んな名前を羅列して煙に巻くのは昨今の悪しきクリティックの常套手段。何々風だと安易に断言し、何も知らないリスナーに興味を持たせるだけ。(どうでもいいような歌手にディラン、ヤングの継承者などといとも簡単にのたまう習慣には歯止めが効かないね。批評家がレコード会社の宣伝部隊になっている。みんなで盛り上げないと業界そのものが沈没だから。若いリスナーは簡単に騙されてどうでもいい音楽を聴かされている。)

強烈なギターミュージックだと思う。このリフの応酬やアクセント、強拍の付け方はブルースメンのそれだ。強いて類似性を見出すとすれば私にはベンハーパーが登場した時のギターのグルーブの強調性と同質なものを感じた。このギターは主張している。歌っている。ゴンザレスの声の澄んだトーンや透明感はたまたま本人の持ち物だっただけの事。本人の意識は直球型のソウル、ブルースだろう。完璧にピュアミュージックだ。

曲調は平坦で、起伏無きなだらかな坂道をゆっくり上っていくような感じ。しかし確かな絶頂はある。真摯な歌い方に物語性も強く感じさせる。何度も繰り返し聴けるのは、アクがないからではなく音響への配慮。そこは今風(アルゼンチン音響派との接点はないと思うが)。アンビエント的なたゆたう時の流れが前面にあり、BGMにもなる。只、この一見、お洒落で映像的な音楽の底から響いてくるソウルに誰もが引き込まれる筈だ。いやがおうにも耳をそばだてざるを得ない説得性がある。強い歌だ。今後、アレンジがこなれていくのか。バンド形態に移行するか。それは分からない。しかしこのホセゴンザレスのギタープレイの静かなる激越さが、彼の極めて個性的な音楽性を醸し出す一番の要素となっていく事は予想できる。

2007.10.15
  
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   FEIST   『THE REMINDER』

2007-10-15 | 新規投稿

いい歌が一杯詰まったCDを聴いた。
‘ソングライティングの時代の終焉’と幕引きするにはまだ早いかな。カナダの女性シンガーソングライターFEIST(ファイスト)の新作はポピュラーミュージックの王道を感じさせる既視感あふれる音楽。
メロディが耳にまっすぐ入る。確かな曲調があり、裸の歌がある。こんな音楽、こんなレベルのポップはもうないと勝手に思いこんでいただけに、ある意味、衝撃的。マリーザモンチ(ブラジル)に匹敵する才能だと感じる。

大量に資本投下された場所で作られる作為に満ちたチューインガムミュージック。作曲が音響に従属したムードメイクミュージック。どちらにも用はない。歌が聴きたい。息がきこえる歌、人の旋律そのものの歌が。
嘗て竹中労は「キューバと沖縄にしかもういい歌は残っていない」という極論を言った。そんな事あるかいと思うが、辺境にこそ<源歌>があるのは今となっては確か。私はブラジルこそが今、歌の宝庫だと思っている。欧米、特に英米の自由度、恵まれ度、或いは虚無を愛でる事が可能な精神の余裕度、シニシズム(英国で顕著)が歌を喪失させていると言えば暴論か。ただ、いい歌が生まれる背景的なものは決して無視できないものとしてあるとは思う。
FEISTは強い歌を歌っている。まるでホームパーティーミュージックから生まれ出るアメリカンポップスの黄金期を思わせる親近感や団欒の感覚。例えて言えばカーペンターズが未来に再登場したようなインパクトか。

メジャーなフレーズを哀調で歌ったり、インナーなバラッドを湿っぽくせずにアンビエント風味に仕上げたり(リバーブたっぷりのピアノはゴンザレス。この人、歌ものの方が生きるね)、工夫が随所に見られる。かなり練られたサウンド。完成度が高い。プロデュースの勝利だろう。FEISTの作曲能力が全体の緻密な制作でより浮き彫りになった。

線の細い声を震わせる歌唱法はテクニックではなく自然体の成せる技。けど拡がりも同時にある。彼女のブルースがそうさせているのだろう。等身大の自己表現である事は勿論、他者を感化させずにはおれない特別なものを内に持つ者のみに許された表現。人の資質として鑑賞に堪えうる客体を持つ者の表現がここにある。売れる、売れないは、あずかり知らぬところ。それは結果の事。FEISTの歌の本質、意義は別のところにある。歌の確かな伝播、継承、心への浸透という尊い道がここに開かれ、そこを歩いている。

2007.10.15
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   Hino-Kikuchi Quintet    『Counter Current』

2007-10-11 | 新規投稿
 

音色と響きが進展(グルーブ)と交差する音響世界。
菊池雅章は果たしてジャズアーティストか。いや、彼ほどジャズにこだわりを持つ者はいるまい。芯からのジャズメンが菊池であろう。彼のジャズの強度がその異端性に拍車をかけているのであれば、世の中のジャズとは何なのだ。その正統性、王道とはどこにあるのか。細分化し尽くされ、多様化したジャズが一方でその真摯な実験やグルーブの追求の果てに言わば<先鋭的なるもの>の部屋に閉じられたコミュニティを形成し、一方では<ジャズ的なるもの>の衣装を着たクラブミュージック的大衆認知を目指すのであれば、ジャズと言えども既に一括りにされた共通の音楽言語は喪失された状況に今、置かれている事が浮き彫りになる。それは恐らく長らく続いている<中心の不在>がそうさせているような気がする。マイルスデイビスの死から昨今の状況が始まっているのだろう。菊池雅章は世界のジャズが喪失した<中心>をいつも行き来しているような男だろうか。常にそこにいるわけではないが、いつもそこを往復している。

富樫雅彦が亡くなった。
彼もまた、異端でありながら<中心>をイメージさせるアーティストだった。日本ジャズ創世記からの敏腕ドラマーであり、事故で半身不随の身になってからは、独自のドラムセットで自身の特異な音楽性を追求した演奏家/音楽家であった。
菊池雅章は富樫と同期であり、盟友だっただろう。2枚組アルバム『concerto』(91)ではピアノとパーカッションによる空間芸術の極みを見せてくれた。両者に共通するのは音の響きへの極端なこだわりだろうか。意志に基づいたサウンド、音色を鳴らせる富樫や菊池にとって音の余韻や背景への混ざり具合は全て<演奏>を構成する重要なものだろう。

日野=菊池クインテットの名義でリリースされた『Counter Current』
しかしこれは双頭バンドであった嘗ての日野=菊池クインテットではなく、菊池のコンセプトに日野を招いたというのが実質のよう。ドラムはポールモチアンが配されており、デザートムーンのコンセプトにも近い。しかもデザートムーンでの演奏より全面に出るポールモチアンを聴けば、グループの基軸が菊池=モチアンにあるとも感じられるほど。日野は強力なスパイス。音楽コンセプトはあくまでも菊池にあり、彼を最も理解するモチアンにこそイニシアチブがある。
しかしモチアンのドラムというのはやはり凄い。
こうゆうドラマーを横にしたベーシストは一体、どう弾けばいいのだろう。定格のテンポがない。リズムに合う、合わないという観念が異次元に跳んでしまう。リズムが追いかけ、すぐ逃げる。リズムが歌い、黙る。しばらく。

日野はよく聴いている。よく我慢している。そして出る。俄に。空間に躍り出る。
菊池はよく唸っている。相変わらず。いつも通り。単音メロの応酬、反復が奇声と共に響き渡る。

音の細部への意識が究極に高められた、特別な耳の持ち主であろう菊池雅章。ECMが彼と契約を結ぶ噂も流れているが、どうであろう。確かにECMの空間至上主義と独自の音響概念を持つ菊池は相性が合う気もする。ただしECMが日本人、菊池の蛮性をイメージパッケージせず、混沌を放置する事を約束すれば、彼の世界がひきたってジャズの<中心>が菊池雅章の定位置になるかもしれない。本作『Counter Current』はさしずめその序章となるのだろうか。

2007.10.11
  
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