満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

   森進一   『森進一物語 ある歌手の限りなき道』

2007-10-27 | 新規投稿
     
<ビクター流行歌 名盤・貴重盤コレクション>第二期のリリースが始まった。昭和期の森進一はその目玉。私は既に持っているLP以外はこのシリーズで購入しようと決めているので、第二期は待望の発売。待っていたのだ。『森進一物語 ある歌手の限りなき道』は1973年の作品。この時代によくあったナレーション挿入がアルバム中に4回もあり赤面するが、曲の良さ、歌の重さにやはり、圧倒される。

もう15年以上も前だが、仕事で何度か中国へ行く機会があり、そこでしばしば見た日本とは異質な風景は女性同士が腕を組んで歩く光景と、男性が一人でよく歌を歌いながら歩く姿であった。人目も憚らず大きな声で。自転車に乗りながら歌ってる奴もいた。私は<歌う人間>を町で度々、見かけて面白いなと思っていた。昼間から外で歌ってる奴など日本にはいない。中国人は控えめにではなく、高唱していた。場所によっては迷惑だ。しかし彼らの歌う顔が真顔であった事も印象として記憶している。
歌が人に密着していると感じた。普段の生活感を歌う、感情を歌う。怒りを、不甲斐なさを、喜びを、本気で歌っていた。歌は道具がなくても誰にでもできる遊び、娯楽だ。
娯楽環境が過剰に整った日本では<歌う>比重は決して大きくはあるまい。かつて日本にもあっただろう歌う喜びが中国では残っていたのだと思った。
<農村的社会から近代に移る過程で、その矛盾が集約的に露出する時に小説も映画も輝きを持ち、日本ではその移行は1970年頃に終わっている>と言ったのは有名な批評家だ。歌にもそれが当てはまるだろうか。

当時、歌謡曲は<流行歌>と呼ばれた。歌う者は<歌手>だった。今のようにアーティストと言ったり<作品>等とはいわない。<流行歌>という呼称に私は高踏を排し、庶民感覚に添う意志を感じる。人の心情の移ろい、流れと一致する歌という意味が<流行歌>にあると思う。人の中に棲み、伝承を繰り返す。<歌手>もそうだ。目線が低い感じがある。人々の側に立つ意識。人の内面、その心情に寄り添う方向性が感じられる。そしてその<人>とは日本人の事であり、昨今のナショナリティを喪失した無国籍人種の事ではない。日本的情を体現する和ブルースの感覚者と言っていいだろう。そんな者が当時の一般的日本人だった。

演歌に<悲>のイメージが多いのは、時代が<悲>であり、人が餓えていたからだ。お金に、食べ物に、物に、成功に、幸せに。経済成長の過程で日本人全員がハングリーだった。敗戦以降、第二の<坂の上の雲>を目指して、<欲しがりません、勝つまでは>の根性であらゆる方向に頑張ってきたのが戦後の日本人だった。そしてハングリー故の物語、強い歌が量産された。

LP『影を慕いて』(68)の録音中、「人生の並木道」の歌詞が自分の生い立ちとオーバーラップして、歌いながら泣き崩れてしまった森進一。この歌手は人生が歌と密着しすぎた程の人だろうか。<薄幸>や<悲>が例えレコード会社のイメージ戦略に基づくものであり、例の<ナレーション>が多少、わざとらしく感じられるものであったとしても、森進一の<悲>の体質、感性があの歌の振動(バイブレーション)を体現せしめているのは間違いない事だ。
CD『森進一物語 ある歌手の限りなき道』の収められた三上寛の「ものな子守歌」と岡林信康の「山谷ブルース」のド迫力は完全にオリジナルを凌駕している。

  星をみてみろ
  あんなにキレイに光っている
  だけど星は
  銭子にゃならねえものな

  「ものな子守歌」

森進一は日本歌謡曲の第一人者と認められる大歌手だろう。彼は長く日本人の<悲>に同調し、連動した。歌を共有し人の生活に定着した。やがて日本はモダンを超克し、ハングリー精神は過去のものとなった。しかし彼の歌を必要とする時代は続いているとも思う。歌が軽くなったからこそ、森進一の声をブルブル震わせるブルースの違和感が逆に存在感を増す。
そして離婚や家族問題、歌詞改竄の訴訟トラブルなど、森進一本人の<悲>だけがずっと続いている現状が彼の現在進行形の表現で更なる<悲>を強調する事で、これから第二のインパクトを放っていく予感がする。

2007.10.26


  






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