満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

    Underworld   『Oblivion with Bells』

2007-10-23 | 新規投稿
  

アンダーワールドの持つ冷ややかな感触、メランコリー、マイナートーンはずっと気にはなっていた。ダンスフロアに炸裂する強いビートもその熱さを絶えず冷却しながら持続するその<絶望>の感覚。私はアンダーワールドの表現はインナーな闇にあると思っていた。暗いのだ。アート志向なのでもない。感傷的であり、精神の憂鬱の表現なのだ。
祭典としてのパンクが一段落した80~83年のオルターネイティブ(オルタナじゃない)の時期、冷却したマインドを決して横の連帯に求めず、強度を示し、孤立を表現する潔さを示したイギリスニューウェーブの最も創造的な時期の感性をこのアンダーワールドは有していると感じていた。

クラブムーブメント、ダンスカルチャーは孤立の表現が連帯を志向せず、個のまま乱立した後の共有志向への転位だったのだと思う。ロックアバンギャルドからからハウス、テクノへの流れは音楽様式の変遷ではなく、時代精神の変化だった。マンチェスタームーブメントへの違和感(私は全然、好きじゃなかったから)はロックが確実にコミュニティ志向へ回帰し始め、それはハウスの思想とリンクしていた事の顕れだった。前衛ロックの先鋭は個の生き方をそのままラジカルに誘導するしかなかったのか。もはや時代は耐えきれなくなっていた。孤独のまま屹立する強さではなく、焦燥感や不安を他人で共同に有しながら掘り下げる方向性へシフトしたのだろう。例え幻想でもいい、解り合える瞬時の連帯、それも大きな連動が欲しい。それがレイブやロックフェスの全盛にもつながった。

クラブで踊る時、忘我状態(トランス)と脱力(チルアウト)の次に来る状態がある。メランコリー(憂鬱)だ。これを含むダンスミュージックこそ快楽が深化するものだ。踊りながら絶望しビートに体を軋ませていく。その果てに幸福感が待っている。確かな悟りと明日への希望があるのはそんな音響だった。ハッピービートだけじゃ薄いのだ。クラブへ通った時期、私と友人達は孤独で、来てる奴もみんなそうだった。何かを共有していた。

アンダーワールドのアッパーなダンスミュージックの背後にある暗さ。夜の都市の寂寥感、満たされる事のない憂鬱感覚。これはあっけらかんとしたロックハウスのケミカルブラザーズや安物SFまがいのオーブにはない<ひっかかるもの>を感じさせずにはおれないグループの特質だった。

ただ感性に共感する事と音楽的に大好きかどうかは別で、このグループの<チープで重厚>なシンセ音(わかってくれると思う)は家で聴く鑑賞の対象としては決して好きにはなれない要素。それはこの新作でも変わっていない。もうちょっと<濁音>が欲しいのだ。音質がツルツルで音色もクリーンすぎる。私の好みで言えば。

ダンスフロアから映像的世界へ。
アンビエント世界への変化を予想させる要素は昔からあった。恐らくこれがやりたかったのではないか。ハウスムーブメントよりもオルターネイティブの洗礼を先に受けたアンダーワールドならではの深化とも言えるだろう。しかしクラブでオンし続けるにはあまりにもダークかな。それはまるでメランコリー共同体の如く様相だ。しかし仄かな美がある。誰もがそれを見つけるには違いないが。

2007.10.23


  

コメント
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