満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

   Hino-Kikuchi Quintet    『Counter Current』

2007-10-11 | 新規投稿
 

音色と響きが進展(グルーブ)と交差する音響世界。
菊池雅章は果たしてジャズアーティストか。いや、彼ほどジャズにこだわりを持つ者はいるまい。芯からのジャズメンが菊池であろう。彼のジャズの強度がその異端性に拍車をかけているのであれば、世の中のジャズとは何なのだ。その正統性、王道とはどこにあるのか。細分化し尽くされ、多様化したジャズが一方でその真摯な実験やグルーブの追求の果てに言わば<先鋭的なるもの>の部屋に閉じられたコミュニティを形成し、一方では<ジャズ的なるもの>の衣装を着たクラブミュージック的大衆認知を目指すのであれば、ジャズと言えども既に一括りにされた共通の音楽言語は喪失された状況に今、置かれている事が浮き彫りになる。それは恐らく長らく続いている<中心の不在>がそうさせているような気がする。マイルスデイビスの死から昨今の状況が始まっているのだろう。菊池雅章は世界のジャズが喪失した<中心>をいつも行き来しているような男だろうか。常にそこにいるわけではないが、いつもそこを往復している。

富樫雅彦が亡くなった。
彼もまた、異端でありながら<中心>をイメージさせるアーティストだった。日本ジャズ創世記からの敏腕ドラマーであり、事故で半身不随の身になってからは、独自のドラムセットで自身の特異な音楽性を追求した演奏家/音楽家であった。
菊池雅章は富樫と同期であり、盟友だっただろう。2枚組アルバム『concerto』(91)ではピアノとパーカッションによる空間芸術の極みを見せてくれた。両者に共通するのは音の響きへの極端なこだわりだろうか。意志に基づいたサウンド、音色を鳴らせる富樫や菊池にとって音の余韻や背景への混ざり具合は全て<演奏>を構成する重要なものだろう。

日野=菊池クインテットの名義でリリースされた『Counter Current』
しかしこれは双頭バンドであった嘗ての日野=菊池クインテットではなく、菊池のコンセプトに日野を招いたというのが実質のよう。ドラムはポールモチアンが配されており、デザートムーンのコンセプトにも近い。しかもデザートムーンでの演奏より全面に出るポールモチアンを聴けば、グループの基軸が菊池=モチアンにあるとも感じられるほど。日野は強力なスパイス。音楽コンセプトはあくまでも菊池にあり、彼を最も理解するモチアンにこそイニシアチブがある。
しかしモチアンのドラムというのはやはり凄い。
こうゆうドラマーを横にしたベーシストは一体、どう弾けばいいのだろう。定格のテンポがない。リズムに合う、合わないという観念が異次元に跳んでしまう。リズムが追いかけ、すぐ逃げる。リズムが歌い、黙る。しばらく。

日野はよく聴いている。よく我慢している。そして出る。俄に。空間に躍り出る。
菊池はよく唸っている。相変わらず。いつも通り。単音メロの応酬、反復が奇声と共に響き渡る。

音の細部への意識が究極に高められた、特別な耳の持ち主であろう菊池雅章。ECMが彼と契約を結ぶ噂も流れているが、どうであろう。確かにECMの空間至上主義と独自の音響概念を持つ菊池は相性が合う気もする。ただしECMが日本人、菊池の蛮性をイメージパッケージせず、混沌を放置する事を約束すれば、彼の世界がひきたってジャズの<中心>が菊池雅章の定位置になるかもしれない。本作『Counter Current』はさしずめその序章となるのだろうか。

2007.10.11
  
コメント
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