満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

 ニールヤング&クレイジーホース   『ライブアットザフィルモアイースト』

2007-08-14 | 新規投稿
     

NEIL YOUNG & CRAZY HORSE 『LIVE AT THE FILLMORE EAST』

未発表のライブ音源をリリースする企画である<アーカイブシリーズ>の第一弾である本作は1970年のニールヤング&クレイジーホースである。
現在のクレイジーホースのバンドカラーは75年の『ZUMA』、『LIVE RUST』以降に完成され、その継続状態にあると感じているが、今回の発掘音源はそれ以前の初期サウンドのライブ記録であり、その音楽性の原点を確認できる。
オールマンブラザーズバンドやグレイトフルデッドとの共通点が多いと感じる。長大なギターソロのなだらかな起伏で進行する高揚なきダラダラ感、そのドラッギーな反復に70年代初期の匂いが充満する。ブルースをベースにミニマルなトリップミュージックを作り出したのがオールマンやデッドであり、クレイジーホースはそれをカントリーをベースにやった。ありそうでないスタイルだったのだろう。ニールはこの時点でまだファズにディレイをかます必殺のギターエフェクターは手に入れてない。あれは道具と言うより一つの思想なのだが、70年の時点ではアコギの延長としてのエレキ演奏を当然の事とし、その潔さと控えめな音量による演奏力だけを頼りにする真のグルーブを作り出していた。でかい音でごまかしても本物のグルーブは生まれない。そんなバンドが多いのも事実だ。『LIVE AT THE FILLMORE EAST』でのクレイジーホースは一見、素朴で初々しいが、やはりグルグル回るローリングミュージックを演奏している。その点では現在と同質の演奏。このじわじわ感覚の果ての長い絶頂はやはり時代性か。それともクスリのせいか。オールドロックとは誠に人を酔わすサウンドを有している。

酩酊状態の中の覚醒。狂気。ギターの音はやはり鋭い。青い炎が立っている。幻覚者の表現行為。裏側の世界を垣間見た者がリアル世界に対する報告をしている。自然世界やヒューマニズムの視野を含みながらも個人の内部へと向かう旅。内面の狂気を基点とした世界に対する意見表明。クレイジーホースが表した世界とは例えばヴェルヴェットアンダーグラウンドなど、先端都市音楽のみの特許と思われたダークで詩的なロック世界をカントリーサイドで実現したものだろう。70年代にウェストコーストロックは随分、レイドバックした軽音楽を量産したが、C,S,N&Yやバッファロースプリングフィールド、クレイジーホースなどのスタイルや本質の正確な継承があったらもっと違うシーンがメジャーで生まれていたのではないか。言うまでもなく彼らを継承したのはパンクやリアルロックのほうであった。

余談だが付属のDVDはCDの至福時間を台無しにする無用のもの。ビデオではなく、音をバックにモノクロームの写真を(それも同じものばかりを)写すという詐欺まがいの代物だ。こんなものを付けて姑息にも値段をつり上げている。プロデュースにニールはからんでないようだが、こんなバカな仕事は却下するべきものだ。古いオープンリールレコーダーの演出もわざとらしい。古いものを古き良きものとしか捉えない懐古趣味程度の価値しか認めていないかのようだ。この貧困な発想。ここでの音楽はむしろ今の音として聴かなきゃいけないのだ。そして実際、今こそ、この演奏が有効なのに。ロッククラシックなどという言葉も撤廃すべきだ。現代に直結するテーマを持つものは全てリアルナウロックと称すべきで、クレイジーホースの演奏は例えば、ジャムを目的化した勘違いが前提にあるような現在の<ジャムバンド>シーンなどの間違いを正確に指摘する際に最も有効な音源だろう。『LIVE AT THE FILLMORE EAST』のCDジャケットに奇しくも同じ日の出演がマイルスデイビスグループだった事を示す看板があるが、37年前、両者のこの類型は違和感なきものだった。両者に共通するトリップの大海原の中にある覚醒意識。これは長尺なインプロやソロに溺れるだけのジャムバンドのテーマなき脆弱さとは異質なものである。クレイジーホースはマイルスと等しく今尚、先端的な音楽である。

2007.8.13



 




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