満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

 アメリータ・バルタール  『白い自転車』

2007-08-11 | 新規投稿
   

Amelita Baltar 『La bicicleta blanca』

古い映画を観ると、人間の言葉や行動様式に現在と違う感覚があり、違和感を持つ事がたまにある。今だったらそうゆう言い方はしないだろう、そんな時にそれはしないだろう。過去の物語に対しそんな違和を感じる事が多いという事は人間の感性や感情の在り方が時代によって変容している証左だろうか。しかしそんな古い映画にしか存在しない快楽の泉が確かにあり、そこにひたる私達は現在の感性を引っさげて古い様式に還っていく意義を感じる事になる。その時、古典が蘇生し、現代的感覚として再生される。
南米音楽マニアやタンゴ愛好家の間でのみ神格化されていたアストルピアソラが死後、全ての音楽ファンに大ブームとなった蘇生のドラマ。確かにピアソラの生み出した楽曲は現在の誰もが創造し得ないもの。つまり継承者なき絶対的オリジナルという意味でなるほど、それは<古典>であろう。しかしその古さは現代的感性に照らし合わせた<古さ>ではなく、今の時代には生まれようがないものとしての古さなのだ。いわば現在の芸術的後退現象を象徴する<古さ>なのである。従ってピアソラ作品に深く接すると<古さ>への違和感は相殺され、現代的なるものへの懐疑の感性の方がより膨らんでいく。

アメリータ・バルタールの『白い自転車』。
オラシオフェレールの詩作とピアソラの楽曲が合体し、女性歌手アメリータ・バルタールが歌う狂おしいほどの味わいを持つ歌達。余りにも美しく、胸に迫り心に沁み入るメロディ。
読むに値する詩歌。本来的な言葉がここでは語られ、しかるべき意味を持つフレーズと旋律が奏でられる。34分という相応な物語が劇場映画を観るような充実感で迫る。一つとして無駄な箇所がなく、一時として退屈な場面がない。
ここにある含蓄ある音楽は<嘗て>という時代背景やそこに生きた人間模様、その内面を抜きには考えられない。良い音楽を生む土壌、背景が人間にも時代にも社会にもあったという事だろう。困難と希望が表裏に感じられる余地ある時代。ニヒリズム以前の時代という事だろうか。

「まるで火山の中で暮らしているようだった」とピアソラが回想するアメリータ・バルタールとの結婚生活。激しい感情をぶつけ合って愛し合った芸術家同志の苦難的産物。そんな作品がこの『白い自転車』なのだろう。しかし曲の中に時折表れるポップなフィーリング、ノスタルジックなほのぼの感の情緒安定的な味わい深さはどうだ。1970年の物語。劇的な人生そのままの、劇的な時代そのままの奇跡の結晶。言葉、声、音がここで理想的に融合した。

「三つの惹かれ合う魂が描き出す理想の世界」
ジャケット帯の文句が少しも大仰でなく違和感を感じない事は珍しい。オラシオ・フェレール、アストル・ピアソラ、アメリータ・バルタール。確かにこの三人の魂の強さは尋常でない。あまりにも濃厚なブルース。人間賛歌。
これはもう過去のものなのだ。いまの音楽には無いものなのだ。人間がどんどん変容しようとも、行動様式や喜怒哀楽の基準が変化しようとも、変わらぬ普遍性に対する触覚、嗅覚を喚起させ、その鍛錬を促進する。劇薬のような音楽。

2007.8.10





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Modest Mouse 『生命の大航海』

2007-08-07 | 新規投稿

Modest Mouse 『We Were Dead Before The Ship Even Sank』

現実が猛烈な速度で物語を追い越したのはいつ頃からか。全てのドラマが胡散臭く感じられ、色褪せ始めた時期があった。おそらくそれは日本で言えば経済状況の飽和点を見た80年代後期だろう。それ以前は個人も社会も国も、明日は今日より良くなるという無邪気なフィクションを信仰していた。それは終わらない物語にも似た盲目の不文律だった。やがて高速の現実は壁にぶち当たり、四方に弾け飛んだ時、取り残された物語は溶解し始め、断片的な記号と戯れる人間たちの姿があった。<大きな物語>の夢から醒めた時、廃墟で繰り広げられる虚無の遊戯があったのだろう。物語が瓦解し、日常も溶解した。続くIT革命以降の世界は人間中心主義への批判哲学としてのポストモダンさえ瞬時に追い越した末期(まつご)の到来。そこでは物語の有効性は個人の内側に内在化され、現実との往来不能な秘儀的娯楽としての地位に落ちたのだろう。

物語の時代は過ぎたのか。いや、人はまだ物語を欲している。共同幻想が崩壊した後の個的な物語を。濃縮還元された短編こそが今の時代には合うかもしれない。長編は要らない。プルーストやジョイスを読む人間は減っている。カフカさえも。ジェネシスやヴァンダーグラフジェネレーターを聴く者も減っているだろう。キングクリムゾンさえも。それよりコンパクトで深い物語が欲しい。どこにあるのか。

モデストマウスだ。傑作『Good News For People Who Love bad News』に続く新作である。ジョニーマー参加によるギターの比重増大によって前作のような曲調のバリエーション、サウンドアレンジの多彩さはやや後退しているが、それを補って余るのがボーカリスト、アイザックブロックの天才的パフォーマンスだろうか。発声された瞬間に物語の場面を変えられるような快楽。紙芝居をめくりながら、見る者を大声で惹きつけていくような圧倒的な力、表現力。七変化の声。入れ替わる人格。濃厚な演劇性、それもビートに先導される高速の野外劇。
アイザックブロックは現代の語り部だろうか。
しかしストーリーテラーたる彼の中に理想主義を語る夢想家は見えない。それより泥んこの道端で語られるロウワーな視線やリアルな欲望、失望の物語が見える。嘗てのイギリスの2トーンやOiが持っていたストリートをジャンプするロック精神。ワーキングクラスが持つ現状打破へのはかない夢。そんな眼前の日常意識を世界認識にまで昇華させる思考的発展のスリリングな力をモデストマウスの音楽世界に感じる。

私はアイザックブロックの必死さに感動を覚える。ニヒリズムを克服し、人生や世間、世界に対する意味性を奪還する真正面な心意気を感じる。構築的で複雑なサウンドアレンジを持つバンドだが、これぞリアルロックだという気がする。このようなインディーズのバンドが1位になるのは快挙だという論評も全く的が外れている。人のマインドが今、ポジティブなものを求めている。そんな要請に応えているのがモデストマウスなのだと思う。しかも音楽の外形を綾取る構成美は前作同様、素晴らしい。メジャーどころかXTCに対抗できる唯一のバンドかなと感じる位だ。緻密なサウンドメイク。構築的で立体的なサウンド。仕掛けをつくりテーマを際だたせる。作曲に特別な才能は感じないが、アレンジがずば抜けているのがこのバンドの特権だろう。しかもみんな上手い。アイザックの物語をメンバー全員で際だたせる。
ジョニーマーはいいバンドに拾われた。モリッシーよりも、マットジョンソンよりも共闘する価値のあるパフォーマー、アイザックブロックと今後も一緒にやって欲しい。

2007.8.3

 

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