満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

Miroslav Vitous Group 『Remembering Weather Report』

2009-09-29 | 新規投稿

タイトルとは裏腹に、その音楽にウェザーリポートの一般的イメージを想起させるものは全くない。ここにある音楽、特にコンポジションに於いて、ミロスラフ ヴィトウスはウェザーを懐かしむ思い出に感情を寄せるのではなく、むしろ、初期のウェザーリポートに於けるコンセプトメーカーはジョーザヴィヌルならぬ自分であったと主張するが如き独自性を誇示している。やはり、ヴィトウスとジョーザヴィヌルの溝は深い。

ジョー ザヴィヌル、ウェイン ショーター、ミロスラフ ヴィトウスによる初期の三頭政治体制が崩れ、リーダーシップがザヴィヌルに移る際の鍵となったのは音楽のポップ/ファンク化を巡るヴィトウスの非―対応だったとされるが、それ以上にザヴィヌルのコマーシャリズムへの上昇志向に対するヴィトウスの拒否反応が大きかったのではないかと以前、私は拙著『満月に聴く音楽』で書いた事がある。それを裏付けるかのようなヴィトウスの「そもそもウェザーリポートは自分とショーターのアイデアにザヴィヌルが割り込んできたものだった」という極端な発言もあった。逆に「あいつは我々の変化について来れず辞めた」と公言するザウィヌルはウェザーヒストリーたる性格を持つライブ音源集『live and unreleased』(02)に於いてヴィトウス時代のものを意識的に消去した。それはまるでグループに初期があたかも存在しなかったかのように、ヴィトウスの痕跡を消し去ったのだ。結局、ヴィトウスとザウィヌルの感情的な確執は根深い。

『Remembering Weather Report』にはウェザーを想起させるものはないと書いた。
しかし、それはヴィトウス脱退以降のウェザーリポートのカラーとは異なる世界であるという方がより、正確な言い方だろう。その外向性、メジャー感覚という中期以降のウェザーが持ち得た特質を私達はグループの一般的なカラーであると認識し、一方、その初期に於ける重層的なインタープレイや即興のエネルギーはその後、メジャー化するグループの重要な布石であったと理解している。初期の音楽性を通過、清算する事で、中期以降の黄金時代があったというストーリーを暗黙のうちに了解事項としているのではないか。しかし、ヴィトウスの脱退は脱ジャズを図ったグループの上昇の契機でありながら、そして同時に音楽的損失でもあったという事も強く認識すべきなのではないか。

『Remembering Weather Report』を改めて聴きなおすにつれ、ウェザーリポートの初期の音楽性が浮かび上がる。90年代以降、主だった活動を停止していたヴィトウスの復帰作であった『universal syncopations』(03)の典型的な‘ECMジャズ’とはどこか異なるダークでインナーな世界。集団即興を軸にファンクグループとの適度なブレンドを果たした初期のウェザーにやはり、近いものを感じる。大きなテーマがホーンで奏でられ、リズムが無軌道に展開する。ビートの形こそ、入り組んだ無定形なポリリズム主体で、ウェザーのような明快さがないが、室内楽的でいて、外向的パワーに溢れているのは、ヴィトウス時代のウェザーを彷彿とさせるに充分だろう。

同時に想起するのが、ヴィトウスがウェザーリポートが結成される前に制作した傑作ソロアルバム『purple』(70)である。ザウィヌルも参加したこのアルバムはエレクトリックジャズ創生期における即興とビートミュージックの絶妙のバランスを誇るアルバムだと私は認識している。つまり、当時、マイルスが推し進めたジャズの電気化(=ファンク化)は得てしてエレベによるミニマルファンクを志向し、重層的に連なるドラム、パーカッションの反復ビートを支える形がベースに要求された。一方、即興シーンはフリージャズというノンビート主義を貫いて、内面や政治性の発露に傾倒するアンチグルーブ性こそを中心に据えただろう。そこでのベースは自己主張の限りを尽くすホーンソリストの脇役であり、あくまでも与えられたスペースに於いてソロを展開するのみであった。ヴィトウスが『purple』で実現したのは、いわばこの両者の中間的バランスを試みた理想のジャズの新形態だったのだ。主役のインプロヴァイザーを補佐するリズム陣という対位的関係がなくなり、集団即興の中心に位置するベースが全面に出るソリストとしてのボイシングを獲得している。しかもミニマルなビートに於けるアッパーなバッキングをも同時にこなし、その強さはウッドベースによるルエレベ以上のファンクベースの可能性を示唆していた。なるほど、ウェーリポート初期でヴィトウスが展開した天才的な閃きは、ソロとバッキング、4ビートのランニングと16のグルーヴ、はたまた8の縦ノリの刻み・・・等等のあらゆる奏法の境界線を無尽に往来するテクニックによるものだったのだろう。ずばぬけた技巧者だったという訳だ。

ミロスラフ ヴィトウスが70年に制作した『purple』
既に40年近く、今まで一度もCD化されてないこの重要作は恐らく、将来、『in a silent way』(69)(マイルスのアルバムだが、ザウィヌルの作品という事でウェザーの前身的音楽に位置付けられている)を凌ぐ真のプレ・ウェザーリポートのコンセプトアルバムとして再評価されるだろう。発足時のウェザーのコンセプトは自分が作ったと豪語するヴィトウスの確信は確かにこのアルバムを聴けば、納得せざるを得ないのも確かだ。

『Remembering Weather Report』の一曲目「variations on W.Shorter」でベースのアルコ弾きによるエッジの効いたリードが始まった瞬間、このアルバムのエネルギーを予感する思いに駆られるだろう。この切り裂くような鋭い音色。『purple』で聴かれたソロ、全く主役と化したベースによるジャズの最先端を表現したあの音楽の延長がここにあるじゃないか。二曲目は何とオーネットコールマンの「lonely woman」ときた。フリーなリズムの坩堝の中からあのホーンによるテーマが流れてきた時、一瞬、「この作品のどこがリメンバリング ウェザーリポートやねん」と誰しもが思うだろう。アルバム全体に漂う室内楽的な即興の応酬、暗い音像、ホーンによるテーマの浮遊感、そのズレ方など、まるでポールモチアンのバンドのようだ。いやいや、しかし、最高だ。この感覚が中期以降のメジャー化したウェザーリポートに加味していれば、正しく巨大なスーパーグループとなり、80年代後半以降の新伝承派による主流の変更がおこったジャズシーンにおける、もう一つのメインストリームを形成したかもしれない。ウェインショーターの方向性にも影響を及ぼしたのではないか。いや、それは無駄な妄想だ。

ミロスラフヴィトウスが確信犯的に創造した『Remembering Weather Report』。
それはヴィトウス時代を無きものとして葬ろうとしたジョーザウィヌルによるウェザーリポート正史の書き変えを迫る強力な音楽であった。

2009.9.28

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