満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

          Six Organs of Admittance & AZUL

2009-10-09 | 新規投稿

私が『holly letter』から得た感動はその強い私性によるものであったと思う。
臼井弘行がL名儀で92年にリリースしたその作品は正しく表現者の内奥から聴く者の内奥へ届けんとする私的通信のような直接的な伝播を試みる内容であった。その音楽の強度はゆったりとした臼井の歌声やポエトリーリディング、また、遠く響くかのような微かに耳を撫でる様々な器楽演奏の空間的な音響の優しさとは裏腹に聴く者をしっかりと捉え、離さない。私はその‘聖なる手紙’をある重大なメッセージを有する私信の不特定少数へ向けた‘叫び’であると感じた。『holly letter』の音楽は静かに現れ、しかし、ゆっくりと体内に浸り、沈殿する。そして知らずのうち、その世界観への共感を私達に問う種類のものではなかったか。

実体のないマスを相手に戦略的に表出される商業音楽。そして自らの狭小な感性によるフィット感の有無のみを尺度とした商業音楽の振り分けを慣習化する私達。そんな共犯関係が続く限り、音楽と個人の距離は果てしなく遠いままだろう。

臼井弘行の表現の根幹にあるのは、恐らく、聴く者を見据えた直接性以外の何物でもない筈だ。いみじくも『holly letter』と題した音楽を投函した彼は、それが無数のマスに選別されるのではなく、確かな個人に熟読される事を意識していた筈であり、共鳴と理解を求め、熱烈なコミュニケーションを志向している。結果、その姿は傷つく事を引き受ける恐れと覚悟、または潔さを醸し出し、私にはそれがいわば‘ぶざまな聖性’と映ったのである。表現者と聴く者が接近する。至近距離で共鳴し、しかし相違点では反駁し、お互いが傷ついてしまう。そんなリスクを厭わない濃厚な交感こそが音楽による可能性に違いない。臼井弘行ほどそんな摂理を思い起こさせる存在はいない。

かつて、ロックドラマーとしてフラムーブメント時代のサイケデリアを通過儀礼のように体現し、やがて歌う行為へと変化していった臼井弘行の個的な旅の果てのパーソナルな表現拠点がこのような私性に至ったのか。それはわからない。しかし、ある種の集団熱狂であった60年代後期~70年代のヒッピーカルチャーへの背離の意識がスタイルの変異を促進したであろう事は推測できる。それにしても臼井弘行の表現世界とは濃厚な音楽だ。

『august born』(05)体験(当ブログ07年6月参照)によって私は『holly letter』に行き着いた。200枚がプレスされ、ライブ会場での発売に限っていたというこの手作りの作品に私は導かれるように辿り着いたのだと思う。このアルバムにショックを受けたのはSix Organs of Admittanceのリーダー、ベンチャスニーである。彼は臼井弘行との邂逅により、ユニット『august born』を結成。日本とアメリカ間での音源交換による多重録音作品であったらしいが、遠距離間だからこそ生じる深淵な表現の交感、魂の交流があのような傑作を生んだのか。二人は会わずして会い、究極のコラボレートを遂行した。

海外メディアのオファーにより再発もされたという『holly letter』。その『holly letter』に吸い寄せられるような出会いを果たしたベンチャスニーとの結晶である『august born』。この両作品はそれを聴く者の誰をも強い印象に導き、驚異の刻印を残すであろう。

LPによる新作『Six Organs of Admittance & AZUL』は臼井弘行とベンチャスニー両者のリーダーグループであるAZULとSix Organs of Admittanceのそれぞれを片面ずつに収めたカップリングアルバムという形となった。限定500枚の発売である。

AZULは臼井弘行の歌、ギター、パーカッションにバイオリン、笛、タブラ等で編成されたフォーキーサウンドなユニット。その音楽性はサイケデリックというよりも民族色が濃く現れ、源日本的風景とも言えるヴィジョンを表出しながら緩やかな時間が流れる自然音楽である。私が想起したのは嘗てツトムヤマシタが創造した‘やまと’の世界でもあったが、AZULによる全くナチュラルヴァイブレーションな音楽性は歌う原点や人が発声する起源にまで遡らんとする一つの‘回帰’のコンセプトすら感じさせるもので、そのイメージはずばり、原始性であった。臼井弘行の歌声が縄文や弥生期の今日、私のいる場所で、流れていても不思議ではないだろう。いや、流れていたと思う。そんな太古の発声、響きが現在性を持ちながら、連綿と続く人の意識の繋がりを表現しているような気がする。昔という古くないもの、今という新しくないもの。そんな時空を飛び越え、一体化した大きな器のような中で鳴る音楽の営みのようだ。

更にAZULの音楽には個性と匿名性の狭間で湧き上がる泉のようなイメージもある。それは屹立と埋没を繰り返すような感覚だ。「詩は万民によって書かれなければならない」というロートレアモンの至言を再認識させ、自らの歌を迫られる引導の力があるかのようだ。限られた司祭者に許された芸能が、その領域を万民に降ろし、広がるのではなく、万民がそれぞれの固有の司祭者として歌い始める事の重要性がイメージされる。そして臼井弘行の歌がそんな万民の雑多な歌の群れに混じって、突出する事なく、響き渡るようだ。

風の中に舞うような歌がきこえる。
が、これを自然と人の融合とか心象風景とは言うまい。確かな力点があり、図らずも対峙を促される歌だ。郷愁感と同時にポジティブな勇気の意識を喚起させる力。
またしても確かなメッセージを受け取った私にとってこのLPはもう一枚の‘holly letter’となった。

2009.10.8


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