満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

   ANIMAL COLLECTIVE  『Merriweather Post Pavilion』

2009-07-15 | 新規投稿

多くのロックマニアが『pet sounds』(66)を過大評価しながら、初期のサーフロック時代のビーチボーイズを認めないのは『pet sounds』の内面性やトータルアルバムの構成感、或いは、サイケデリック要素によるトリップ感覚がポピュラーならぬ‘ロック’として峻別される‘高等意識’を喚起させてくれるからではないか。高度なソングライティング能力は実は初期から一貫している。しかしその楽曲の秀逸なる輝きや至高のコーラスは業界による常夏サウンドの象徴という戦略の元、海とビキニの女の子とオープンカーといったフォトイメージで覆い隠された。そもそもサーフィンをするメンバーが一人しかいないのにビーチボーイズを名乗る事が間違いだったか。しかし、その全盛期から既に40年を経過した今、初期ビーチボーイズの歌メロの一つ一つの圧倒的な上質感、普遍性こそを強く認識すべきだろう。『pet sounds』を分岐点にするような初期と後期の音楽性の乖離は少なくともソングライティングを基点にした場合、グループには存在しない。そこに在るのはただ、‘音響’の有無という歌以外の相違点のみなのだ。

ただ、かくゆう私もビートルズを『revolver』(66)以前と以降に区分けし、中―後期の作品を偏愛する傾向からま逃れてはいない。そうゆうロックフリーク一般の感性とはロックに於ける‘エッジ’がポップスの‘歌メロ’を凌駕し、且つ補完する関係性を持ち得た場合の感動の沸点が‘エッジ’なきポップスを下位に据える感覚を生じさせる故だとも感じている。
しかし本来は、歌メロに装飾される‘エッジ’を剥がしても、歌の芯を感受できる感性こそを養うべきなのだ。しかし、60年代半ば以降、ビートルズのライブ停止に伴う、スタジオワークへの偏執性は結果的に歌メロを囲うように、様々な‘エッジ’を施す事がポップスの一つの型になってきた。ビーチボーイズが『pet sounds』による分岐点を出現させたのも、それはソングライティングの変化ではなく、‘音響’という‘エッジ’を扱う処理作業による変化であろう。
私の言う‘エッジ’とはロックの持つスピリットやメッセージという思想性の事ではない。ギターノイズやリバーブ、ディレイ等のエフェクト効果、オーバーダブやリミックスという編集、シンセサイザーや民族楽器による脱ロックへの異化作用・・・・・ そう言った楽曲のアレンジに関する音の物質的な装飾、変形作業の事であり、‘音響’はそれの最たるものである。

『pet sounds』とそれ以前の作品の相違点たる‘エッジ’の有無。
その‘エッジ’とはしかし、それ以降の音楽シーンの中で‘原曲’を裸のまま提示することで歌メロの優劣を直接、問うリスクを回避する方便として悪用されてきた事実もあるのではないか。私たちはむしろ‘裸になった歌’のみを注意して聴き分けなければなるまい。

ジョージハリスンのインドかぶれを嫌ったポールマッカートニーの発言を思い出す。「インド音楽なんか忘れてこの曲のメロディだけを聴いてごらん。素晴らしい」『sgt pappers』に収録されたジョージ作品、「ウィズンユー ウィズアウトユー」はシタールやタブラを使用し、全編にドローン効果ともとれる音響処理を施した異作であったが、ポールはそのアレンジに違和を感じながらも、芯となる歌メロそのものの力については認めざるを得なかった。生きた主旋律、普遍的なメロディがあったのだ。
『pet sounds』のビーチボーイズや後期ビートルズ、ベルベットアンダーグラウンド等が偉大なのは、その‘エッジ’を剥がしてもなお、屹立する歌メロが際立っているからこそなのだ。

ソングライティングとはあくまでも、例えばピアノの単音弾きで奏でられる歌メロが、いかに説得力を持ち得るかを巡る勝負の事だろう。しかし、ロックの発展形態の要素でもあった‘エッジ’は結果的にその勝負を土俵外に追いやってきた。逆に脆弱なメロディが‘エッジ’に凌駕され、取り込まれるような形態が広がる中、ロックを巡る感性の中で、ことメロディを味わうレベルに関しては低下してきたのだと感じる。それはロックにおける創造と鑑賞の相互の快楽原則の後退を伴う‘更新’であったか。

極上の音響ポップ、その完成形のような概観を誇るアニマルコレクティブの『Merriweather Post Pavilion』も、その一曲、一曲の主旋律だけを取り出して、単音で奏でてみれば、それほど秀逸なポップソングのメロディを持ち合わせているものではない事がわかるだろう。
各曲に込められたアイデア、創意工夫、アレンジの練られ方、音響の追及などに音楽と格闘する強い意志は伝わってはくる。「my girls」に見られるファンタジーワールドは正に銀河系サウンドともいうべき壮大さを持つ。「bluish」のリードなきコーラスの多重録音による複合ボーカリゼーションは万民の為の讃歌のようであるし、「in the flowers」や「lion in a coma」のドリーミーな浮遊性や「no more runnin」の神秘世界も美しい。テープの逆回転という古風な技による「also frightened」の錯乱感覚や「taste」、「guys eyes」の抑制されたメロディリフの交互応酬的サウンドは共にサイケデリックなポップがドラッギーな要素を通過したメジャー感覚を提示している。「brother sport」のミニマルポップや「summertime clothes」のキャッチーさと意識高揚的な怒涛性を織り交ぜたソングも面白い。確かに聴きどころは充分ある。
しかし、このような玄人受けするポップアルバムが出ると、又しても直ちに『pet sounds』や『sgt pappers』が引き合いに出され、論じられる事については、明確に土俵違いであると意見表明させていただきたい。残念ながらアニマルコレクティブの『Merriweather Post Pavilion』の各曲から抽出された歌メロの一つ、一つは『pet sounds』に遠く及ばない。そして初期、ビーチボーイズにも。
音の表面的なムードや外形だけを捉えて<現代の『pet sounds』>云々と評するのは止めた方が良い。コ-ラスとサイケフィーリングが『pet sounds』と酷似するこの『Merriweather Post Pavilion』は、しかし、インディー臭が抜けず、あくまでサイケデリックな音響をポイントのメインに据えた作品であり、逆にそれゆえの美点を持つ傑作だと信じる。
普遍的な歌メロは不在。
むしろニューウェーブ以降のポップロックの伝統的な様式美に裏打ちされた緻密な構築美によるトータルな作品至上主義の継承を感じる。

2009.7.15




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1 コメント

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暫くぶりに (ラムブル)
2009-07-16 23:55:12
投稿いたします 全く言いたいことをいってくださるあなた ありがとう 胸のつかえがとれていくのがわかります 先日高2の次男に誕生祝いにアビーロードを買ってやり これもなかなか無いのでした が 蘊蓄をすこしたれ渡したのですが 後日自分で聴いてみますと 一言で言うなら 普通 その昔レコード屋で逡巡してやっと手に入れたあのLPのわくわくした気持ちは感じなかった このことの答え いただいた気持ちです ちなみにアビーロード とどれにするか悩んだのは ハイウェイ61リヴィジテッド と ペットサウンズでした
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