満月に聴く音楽

宮本隆の音楽活動(エレクトリックベース、時弦プロダクションなど)及び、新譜批評のサイト

ディラン断唱 Ⅰ from 「満月に聴く音楽」

2016-10-14 | 新規投稿


ディラン断唱 Ⅰ
『blood on the tracks』 血の轍



「多くの人があのアルバムを愛聴していると言う。しかし私にはその理由がよく判らない。あのアルバムで歌っているような苦しみを多くの人が愛聴するなんて」

ボブディラン自身にそう言わせた苦悩の作品『血の轍』(blood on the tracks)(74)とはどんなアルバムか。妻サラとの愛の終焉にまつわる別れを歌うディラン。確かに苦悩が伝わってくる。しかもとても内省的だ。しかし言葉を翻すようだが何度も聴くにつれ別の感覚も生じてくる。ここでの‘苦悩’とは寧ろ表層ではないのか。
愛の消滅以上の苦悩と言うか、いやそれよりも苦悩を無数の感情へ拡大したかのような‘大きなブルース’こそを感じる。それぞれの曲はある意味で悲しみを超えてしまっており、サウンドアレンジの‘超越した軽やかさ’がポップ効果を生む事で全体のムードを陰鬱さから救っているのだ。表面的なマイナー調メロディーの美しさの奥底に在るブルースの源。そこから発せられるあらゆる感情の万華鏡のような歌のアンソロジーがこの『血の轍』という作品であろう。

このアルバムに漂うムードを私は‘恒常的’と呼ぼう。
苦悩を表出してはいるが独特のクールネスが貫かれ、決して湿っぽくはない。
『血の轍』はディランの最高傑作と広く認められている。私も同感だ。この作品を他のディラン作品から切り離しているもの。それはアルバム全体に満ちている‘浮遊感’だと思う。以前のアルバムではそのスタイルがたとえフォークであれ、フォークロック、バラードであれ、様々な形をとりながらも、何れも土着的でアーシーなブルースが充満していた。その感覚は象徴的且つリアルな歌詞とディランのダミ声との相乗効果によって非常に‘現実的’なカラーをディラン作品へ決定づけていた。それに対し『血の轍』では空間的な浮遊感を感じさせるものになっており、それがやや現実離れした全体像に繋がっている。プロデュースと録音の質がそうさせたのもあるだろう。そしてディランの意思が、或いは‘歌いたい核心’その深さが音響的な統一感として実現しているのではないかと思われる。

『血の轍』の独特の浮遊感を先ほど私は‘恒常的’と言った。この独特な空間性は異次元的な神秘ではない。むしろ無限的な静の中であらゆる運動体が凝縮される‘クールな熱狂状態’の事であり、いわば日常とは違う別時間の形成の事、しかし日常をもっと深く意識させるものであるだろう。
ディラン自身の言葉がある。
「このアルバムが他のアルバムと違っている事は誰もが認めるだろう。何が違っているかと言うと歌詞の中に暗号が含まれている。また、時間の概念も無い」
「歌は時間と決別している。太陽の光を虫眼鏡で集めるように、焦点を明確にする為に時間の概念を一切、排除した」

時間の概念の排除。ディランは現実時間を歌から排除した。そして無時間の中、つまり無限へと歌を放出した。そのコンセプトがリアルな歌詞をもどこかシュールな独自性を漂わすものへと変化させる化学作用を生んだのかもしれない。

「私は絵画のような作品を書こうとした。一部分だけを見る事もできるし、全体を見る事もできる歌だ。特に「ブルーにこんがらがって」(tangled up in blue)でそうした時間の概念を排除し、登場人物の人称を一人称から三人称まで変化させた。その結果、聴き手には一人称の人物が話しているのか、二人称、三人称の人物が話しているのか判らない。しかし全体を眺めれば誰が話しているのかどうでも良くなる」

‘誰が話しているのかどうでも良くなる’
‘焦点を明確にする為に’
この一見、矛盾する言葉をコンセプトに同居させるディラン芸術の核心。彼はリアリティーを超えようと試みているのか。ある種の不思議の世界を作りたかったのか。
現実という物語の超克。それは不条理や夢など深層心理から発せられる自動筆記にも似た超現実世界の表現だろう。
歌詞を味わう能力が著しく欠如していると自覚している私だが「ブルーにこんがらがって」の詞を読めば、これはますます ‘不思議の’世界である事を実感する。

   おれが住んだのは モンタギュー街
   階段をおりた地下室さ
   夜にはカフェに音楽があり
   空気中には革命があった
   すると奴はどれいと商をはじめ
   奴の中でなにかが死んだ
   彼女は持ち物すべて売り払って
   なかは凍り付いてしまった
   そしてとうとう底がぬけたとき
   おれはひっこみはじめ
   わかってることといったら
   続けることを続けるだけだ
   鳥が空を飛ぶように
ブルーにこんがらかって
(訳詞 片桐ユズル)


これのどこが‘焦点を明確に’しているというのか。一般にはリアリティーこそが、そして辻褄の合うストーリーこそが‘明確な焦点’であろう。しかしディランはそれを否定しているようだ。
彼はスーパーリアリストたろうとしたのか。
私には‘見者’(ボワイヤン)という言葉が思い起こさせる。ランボー、ロートレアモンといった幻視を行う詩人達に対して称される言葉だ。これら詩人達は現実のものを違う角度から見る事によって物事の本質を正に‘視た’人間だったわけだが、ディランもまたそんな資質を備え持ったアーティストである事は明白だ。
歌詞の面から言えばディランは以前から‘不思議の世界’だった。60年代の傑作『blond on blond』などは歌声や演奏はリアルそのものだったが、その歌詞はシュールの限りであった。‘水銀の口’とか‘私の倉庫の目’などのイメージを膨らます奇抜なフレーズが多かったわけだが、『血の轍』では比較的、普通の言葉や台詞を多用しながら、どこか摩訶不思議なビジョンをうち立てている。ストーリーそのものが迷路に迷い込んでいくような感覚。

歌手であると同時に言語のパフォーマーであるディラン。
詩人は幻視を行う。それは現実の背後への視点だ。逃避としてではなく‘価値の創造’を目的とした広角な現実直視。もし夢の世界での安住だけで満足するなら、‘明確な焦点’などは不要な筈で薄っぺらなリアリティーだけで事足りるだろう。
ディランはリアルを広角にそして重層的に視る。そのような意識で生まれた歌は人々に並々ならぬ影響を与える。一時的な夢の快楽ではなく永続的な物語として人の中に深く浸透するような力を持つのがディランの音楽ではないか。

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アルバム『血の轍』は素晴らしい。各曲の歌詞は一見、難解ではない。妻との別れという個人的な悲しみを歌っているようだがディランはそれを敢えて否定している。そして‘万人に共通する普遍的な愛とその損失が歌われている’と説明する。私が以前、読んだ解説では「きみは大きな存在」(you are big girl now)を妻の事を歌った曲だろうと指摘されて、「違う。この曲は特定の人の事を書いたわけではない。そんな風に勝手に解釈するのは聴き手の想像力を制限する愚か者のする事だ。過去の体験を歌ったものではなく、これから体験する事に立ち向かう姿勢を歌ったものだ」と強弁している。
そうなのだろう。そしてそう聴く事、そう感じる事が我々のイマジネーションにとっても大事であるのだろう。

アルバムを聴こう。
1曲目「ブルーにこんがらがって」(tangled up in blue).
ポップで軽快。リズムが心地よい。しかも全体のグルーブ感がすごい。歌のリズムとスイングするビート、ギターの歯切れ良さ。まるでファンクのようだ。しかしどこか迷宮的な不思議感覚がある。計算外の効果なのかギターの響きと薄く重なるように耳に残るキーボードとの絶妙なブレンド感。ドラムの出たり、引っ込んだりの凹凸感など、この曲は演奏面だけで充分‘音響的’だ。そこにディランの前向きなボイスが乗っかると曲が生命を帯びた生き物としてこちら向かってくる。最後に出る‘待ってました’のハーモニカソロはビートを刻んで歌う歌う。
傑作だろう。しかしこの曲はコピー可能なスタンダードにはなり得ない。ディランだけにパフォームできる歌だろう。

2曲目「運命のひとひねり」(simple twist of fate)
ディランの説得力をまざまざと見せつける。‘運命のひとひねり’という言葉の見事さ。曲はスローに進行し、否応なしに語り部としてのディランの声に耳が集中する。歌詞はやはり‘愛の喪失’である。曲全体に‘残念!’という感情が深~く現れる。
ただ、トーンは暗いが、メロディーの美しさと端正に歌い上げる曲調は‘残念’を必死で乗り越える意志が伝わってくるかのようだ。悲しさに対しジタバタした感じが希薄なのはそのせいだろう。感情のキレを封印し、ある意味、洗練されたムードを静かに保っているのは見事だ。歌のあとに来るディランのハーモニカソロ。じわじわとフェイドインして、遂に泣き出す。厳粛な、まるでジョンコルトレーンのテナーサックスのようなソウルが充満する。この場面は何度でも聴きたくなる。この音の震え方。‘楽器というのはこう演奏するんだ。こうやって音に感情を注ぐんだ’と教えられるかのような説得性。すごい。必聴の曲だろう。

そして3曲目は「きみは大きな存在」(you’re big girl now)
「妻の事を歌った曲ではない」とディランがムキになって反論した<別れの歌>。
しかしこのイントロのギターのなんと美しい響きだろう。そして何と悲しいメロディーなのだろう。曲のムードに平静さと落ち着きがあるにはある。しかし、今にも張り裂けそうな危うさが一貫して貫かれ、全体のトーンとして曲を支配する。

Like a cork screw to my heart
Ever since we’ve been apart
(コルク栓をしたみたいに詰まってしまった。俺達が別れてからというものは)

このラストのディランの声は凄い。曲前半での‘嘆願’‘哀惜’‘未練’という状態から傷つく過程を越え、土壇場のラストで‘衝撃’‘失望’‘諦め’‘恨み’というレベルへ転じてしまっているかのようなインパクトがある。

I hope that you can hear
hear me singing through these tears
(君に聴いて欲しい。俺が涙を流しながら歌うのを)

それにしても赤裸々である。ぶざまでさえある。曲を作って歌うというより、内部吐露の独白行為がディランの音楽の本質か。少なくとも歌うという行為が他のシンガーとは違うレベルにある事は間違いない。
ディランのラブソングの美しさは極めつけであるが、それが世間で流通する他の歌とは比較できない程の深みを持つのは何故か。それは歌詞、言葉の重さともちょっと違うと思われる。ディランの歌は観念的であったり必要以上に難解であった事はない。シュールレアルなフレーズが出るには出るがディランの歌には常に口語のストーリーがある。
思うにディランの曲の重さは詩、言葉の重さではなくその‘歌う重さ’にこそあるのだろう。ディランは体験やこれから体験するであろう未知に対し深く幻視する。そして表現に関しては決して‘聖’の高みから発するのではなく、‘俗’にへばりついた地平からの肉声で訴えてくる。
「きみは大きな存在」は愛の損失を男が嘆き、意地を張る歌だ。決して珍しい歌ではない。歌の題材としてはむしろ常套的なラブソングだろう。しかしこんな歌はどこにもない。恐らくないだろう。例え歌う題材が単純なものであってもディランが歌う事でその深刻度が増し聴く者への内的浸透度が増幅するのである。

多分、ディランは恐ろしく繊細であり、恐ろしく骨太でもあるのだろう。現実の出来事を深く見、深く体験するから傷つき、感情の振幅も激しくなる。その果てに精神的強さと成長があり、内面をさらけ出す事にも躊躇しないプロ魂とも呼べる人格ができあがる。
「きみは大きな存在」はそんなディランの最も重い歌だ。

4曲目「愚かな風」(idiot wind)
このアルバムのハイライト。ディランの最高傑作と私は思っている。
いきなりボーカルで始まるインパクト。長大なストーリーが激しく歌われ,‘今でも飯が食えるなんて奇跡だぜ’という一行で締めくくられるこの8分にも及ぶ大作の衝撃度はディランの全作品の中でも際立っていると言えよう。

われわれを引っ張り込んだのは重力で、
   引き裂いたのは運命だった。
君は俺のオリの中のライオンを手なずけた
だが心まで変えるには至らなかった
今やちょっとばかりひっくり返っている
実際、車は止ってるし 良かったことは悪く
悪かったことは良い
てっぺんについたら判るだろう
それはどん底だってことが

君はもはや感じられない
君が読んだ本に触ることすらできない
君のドアーを這って通り過ぎる時
俺は誰か他の人間だったら良かったと思う
ハイウェイをずっと。線路をずっと 恍惚の道をずっと
俺は君について行った 星空の下
君の思い出と
君の怒り狂う栄光に駆りたてられ

長い訳詞を見ながらフルボリュームで聴くと頭がクラクラしてくる。激しく、厳しい曲だ。
愛情、憎悪、放浪、期待、裏切り、希求、失意・・・・・・・・・・・・
様々な精神状態が目まぐるしく立ち現れる。‘おれは吠える動物’という一節があるが、ここでのディランは正しく吠えている。そして曲全体に流れるオルガンの響き。ハーモニカの素晴らしさ。ディランの朗読を盛り上げる演奏の一体感。その全てに哀愁があり、力強さもある。憂いはあるが、それは単純な悲しみや絶望に埋没しない。全体に貫かれるどっしりとした感覚は‘ビート’であり‘肯定性’そのものだ。

   俺は遂に裏切られ
そして遂に 今や自由になった
俺はキスする 吠える動物
それは君と俺を分ける国境線上にある
君に判るまい 俺の苦しんだ傷も
君が克服した苦痛も 同じ事が君についても言えるだろう
君の神聖さとか 君の種類の愛とか
それがすごく残念だ

愚かな風 君のコートのボタンを吹き抜け
我々が書いた手紙を吹き抜ける
愚かな風 我々の棚の上のちりを吹き抜ける
俺達はばかだぜ
今でも飯が食えるなんて奇跡だぜ (訳詞 片桐ユズル)


‘CRY’の歌だろうか。フレーズの語尾を上げて歌うディランの特徴的な声。歌いながら肉体は放浪し、精神も放浪している。単語の一つ一つを噛みしめるように、あらゆる‘CRY’を吐き出しているかのようだ。しかもその咆哮を腰を据え、目が据わった状態で行っているのだから凄みがある。ただただ重い。

ディランの伝記「ボブ・ディラン― 瞬間(とき)の轍」を書いたポールウィリアムスは以下のように書いている。
「全く個人的な事と全くのフィクションを混ぜ合わせ、それを独創的な形で全ての人間によって語られた物語、全ての人間の為の物語とする事に成功している。大昔も今も問題は同じなのだという時間を超えた場所から時間を超えた場所へ向けて、人間一人一人が語る、人間一人一人の為の物語なのだ。そして一人一人がこれから出会うことについて大きな手がかりを持つ」

私がここで想起するのはロートレアモンの言葉、「詩は万人によって書かれなければならない」だ。‘物語’の重要性。それは無数の壮大さをもつものだ。ディランはアルバム『血の轍』は個人的な体験の歌ではないと敢えて言っている。この「愚かな風」(idiot wind)もその説明は当てはまる。ここでは人物が絶えず変換され、人格が入り交じっている。そしてケルアック、ギンズバーグらビート詩人の精神を体現した放浪の感覚。詩全体が無人称で放浪する万人の体験と未来のようだ。それは少しばかり錯乱している。
「愚かな風」という謎めいた言葉の魔力が全体の錯乱を整理しつつも、一層の無幻世界へ導き、現実との往復運動を繰り返しているのだ。

「愚かな風」はディランの最高傑作だろう。夢的で不条理な物語。ディランが現実化するフィクションが我々にはちょっとついて行けそうにない程の感情の重さを伴って顕われる。私が思うのはディランが愛を信望する人間だという事。愛を重く見、真剣だからこそ、その崩壊に対し、誰よりも嘆く。
ディランが愛を歌う時、彼個人の内面から聴く者へと感情が伝播され、ディランの物語が我々の物語になってしまう。そんな錯覚とも予感とも現実とも見分けがつかない、ぐちゃぐちゃした錯乱状態にも陥りそうな‘力’がディランの音楽には確かに在るのだ。
こんなアーティストは他にはいない。

私は「愚かな風」で歌の重さを知った。確かにこんな曲ばかり聴いていたのでは疲れてしょうがないが、感動の基軸が自分の中で開拓されるような芸術こそが薬であろう。たまには副作用を恐れずこんな劇薬も必要だ。

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アルバム『血の轍』のA面はまだ終わっていない。(LPの場合だが)
「愚かな風」の衝撃の後、アルバム中、最も‘明るめ’の曲「おれは寂しくなるよ」(you are gonna lonesome when you go)が始まる。
「愚かな風」で想いの全てを吐き散らしたディラン。やっと気が収まったか。
曲の題材はまたも‘愛の喪失’だが怨念じみたねちっこさは消えている。ポップだ。「愚かな風」との対比で言えば拍子抜けするくらいポップだろう。ディランのリズムセンスが冴えるこのナンバー。「愚かな風」(idiot wind)の後の解毒剤としてあるような効果がある。
しかし、当初私はこの曲順の構成が今ひとつ疑問に感じたのも事実だ。「愚かな風」のような大作はアルバムのラストに在るのが相応しい(『blond on blond』での「sad eyed lady of the lowlands」のように)と思ったし、「愚かな風」の衝撃の余韻を他の曲で消し去りたくはないと感じるのは私だけではないだろう。ところが「おれは寂しくなるよ」で大きく曲調を変化させ、結果的にそれをしてしまった。

A面ラストをディランは明るく締めくくった。そうゆう単純な問題ではないのかもしれない。と言うよりはディランにとっては「愚かな風」だけがそれほど特別な曲ではないのだろう。‘そんなに騒ぐな。他の曲もちゃんと聴け’と言ったところか。
いずれにしても、今となって私はこの構成に納得しだしている。「愚かな風」の場所を全体の中の一部と位置づける事で、アルバムを支配する絶望のトーンを溶解し、希望というラインに踏みとどまっている事が見えてきたからである。

『血の轍』はB面も素晴らしい曲が並ぶ。しかもA面以上にバラエティーに富むと言えよう。
まず1曲目にアーシーなブルース「朝に会おう」(meet in the morning)を持ってきた。
簡易な歌詞の歌をあっけらかんと、しかし情感を込めて歌うのはディランが尊敬する黒人ブルースメンに倣ったようでもある。アルバムの中では少し違和感があるのも事実だが、だからこそ不可欠な曲になりおおせている。メロディアスに覆われた作品全体に於けるスパイスのようなナンバーだ。

2曲目「リリーローズマリーとハートのジャック」(lily, rosemary and the jack of hearts)は8分50秒という長い曲。ドタバタ喜劇のようなストーリーが延々続くが意味は不明。ストーリーであってストーリーでないような。これも不条理的な物語だ。しかしこのスピード感とリズムが凄い。ぐいぐい引き込まれる。ディランというのはいつもそのリズム感覚が凄いと思っているがこの曲に於いても、言葉をリズムで刻むカッコ良さに感心する。ディランお得意の韻を踏む歌唱法が随所に見られ、全体のストーリーの意味よりも一つ一つの言葉の発声にイメージの喚起力があって何度でも楽しめる作品になっている。
長い曲が決してそう感じさせないのはやはり曲の力だろう。

続く「彼女に会ったらよろしくと」(if you see her say hello)、「嵐からの隠れ場所」(shelter from the storm)。そしてアルバムラストを飾る「雨のバケツ」(buckets of rain)の3曲はディラン節の全開。特に「彼女に会ったらよろしくと」はディランバラードの頂点であり、カバー不可能な永久欠番的ナンバーだ。この美しさは極上だろう。なぜこんな曲が書けるのか。共有するには余りにも気高い位置にあるような曲。しかしここでもテーマは‘別れ’なのだ。ディランのこの未練がましさ、執拗さ、哀惜の強さはちょっと、余程の事だろう。この怨念じみた性格がこのような傑作を作らせてしまうのか。ある意味、‘かわいそうに’などと思ってしまう。余計なお世話だろうが。

「嵐からの隠れ場所」(shelter from the storm)では初期フォークスタイルでの‘語り’が徹底される。
‘shelter’とは何か、ディランは‘逃避’をテーマとしているが、それは結局、不可能な事、存在しないものとして捉えているようだ。


今や二人の間には壁がある
何かが失われた
余りにも当たり前の事と思いすぎた
私の信号は混乱した
思ってごらん 全ては何の変哲もない
朝に始まったんだ
「お入り」と彼女は言った
「あんたに嵐からの隠れ場所をあげるから」

私は異国に住んでいる。
が国境を越えなくてはならない
実はカミソリの刃を歩く
いつか私はやってみせる
もし時計を戻せさえしたらなあ
神と彼女が生まれた時まで
「お入り」と彼女は言った
「あんたに嵐からの隠れ場所をあげるから」        (訳詞 片桐ユズル)

ディランの求める平穏が時を過去に戻し、苦悩から安らぎへ、迷宮から安定的現実へ想いを馳せる。そんな願望を抱く一時の夢想的快楽とそれを遮断する現実の厳しさに立ち止まらずを得ない孤独がある。音楽は終わる。それが鳴っている間はかろうじて安寧だが。

アルバム『血の轍』を私は愛聴している。この作品はディランのリアルタイムな苦悩の産物ではあるが、現れ出た歌達は一時の感情の領域に収まるものではない。現実の、そして未知の起こり得る体験と説明したディランのコンセプトが個を超え、万人のものとなる。歌詞の内容よりもそのサウンドと発声の普遍性によって、それが可能になっている。
永遠のリアルタイムな歌。私達にも歌える歌だ。今もそして何年後でも。

1997年11月


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