鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.5月取材旅行「鎌ヶ谷~白井~木下河岸」 その11

2011-05-21 06:26:38 | Weblog
弁天川は、寛永13年(1636年)に「弁天堀」として掘削されたもので、閉塞された手賀沼の水を利根川に落とすのが目的であったらしい。この新たに掘削された弁天堀の幅は7間(約13m)。享保12年(1727年)に12間幅(約22m)に広げられ、また「六間堀」が新たに掘削されました。この「弁天堀」と「六間堀」が一つに合流して、やがて利根川に注ぎ込むのですが、その合流点手前の両側が土手(堤)となっていました。利根川に面する左側の土手が「向堤」で、右側の土手が「本囲堤」。木下街道は、この「本囲堤」のところで終点となる(つまり「木下河岸」に到着したということ)。両側の土手の間には、「向堤」と「本囲橋」を結ぶ橋が架かっており、それが「木下土橋」(長さは12間で幅は2間〔約3.6m〕)でした。その「土橋」の下は、香取・鹿島・息栖の三社詣や銚子遊覧をする旅人を乗せる「茶船」、また手賀沼水運を担当する「さっぱ舟」が多数碇泊し、また頻繁に出入りするところでした。(『印西町の歴史 第二号』「木下河岸と鮮魚輸送」山本忠良による) . . . 本文を読む