鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.5月取材旅行「鎌ヶ谷~白井~木下河岸」 その12

2011-05-22 05:28:54 | Weblog
崋山一行が亀成橋あたりから「さっぱ舟」に乗り、手賀沼遊覧を経て木下河岸の「土橋」下に到着したのは、文政8年(1825年)7月朔日のお昼過ぎ頃であったろうか。「土橋」下から土手を上がって利根川の悠々たる流れを見た一行がまず向かったのは、おそらく河岸問屋の吉岡家(その時の当主は七之助)であったと思われる。崋山の日記にも「問屋 七之助」とあります。木下河岸はもともとは竹袋村の新田であり、利根川を渡る「渡し場」があったところ。吉岡家はもとは竹袋村に居を構えており、手代に問屋的業務を任せていましたが、元禄8年(1695年)に木下に居を移し、享保年間(1716~1735年)には問屋業に専念するようになるとともに、旅人の宿泊や食事の賄いもするようになりました。この河岸問屋吉岡家を含む木下河岸のようすは、『利根川図誌』の「木下河岸三社詣出舟之図」(安政5年〔1858年〕)に描かれています。手前の利根川沿いの河岸場にずらりと並ぶ屋根付きの船が「木下茶船」で、利根川を帆を立ててて航行しているのが高瀬船。河岸場から上がった土手(向堤)に並ぶ建物が茶屋や旅籠で、そこから向こう側の土手(本囲堤)へと「落堀(おとしぼり)」を渡る橋が「土橋」。「土橋」を渡った土手上の堀際にも茶屋らしき小さな家が並んでいます。その「本囲堤」上の通りが木下街道で、その向こうの丘のふもとにある「問屋」と記された建物が、河岸問屋の「吉岡家」。門前の広場の左手には釣瓶井戸があり、街道に面したところには櫓形の高札場があります。その広場の右手には、茶屋四軒を隔てて旅籠の河内屋が建っています。崋山一行が手賀沼遊覧の「さっぱ舟」から下りたのは「落堀」に架かる「土橋」の下。この絵には描かれていませんが、「土橋」下の「落堀」には、多数の「さっば舟」が碇泊していたはずです。 . . . 本文を読む