鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

木下(きおろし)河岸 その3

2011-05-27 04:47:31 | Weblog
 印西市大森図書館で調べ物をしていて、ぜひこれから訪れてみたいと思ったところは、竹袋稲荷神社でした。榎本正三さんの『女たちと利根川水運 河岸・遊郭・女人信仰』(崙書房)によると、この竹袋稲荷神社は、京都伏見稲荷神社の勧請(かんじょう)による分霊社。この竹袋稲荷神社の境内の拝殿左側に常夜燈があり、それは文政9年(1826年)の「丙戌五月廿七日」に寄進されたもので、その土台石に「飯盛女」(遊女)たちの名前が刻まれているという。

 今までの取材旅行で、宿場で働いていた遊女(飯盛女)たちのお墓や供養塔などを各地で見てきましたが、この竹袋稲荷神社には、遊女たちが寄進した常夜燈があるというのです。「竹袋」というのは、吉岡家がもともと居住していた竹袋村のことでしょう。その竹袋村に勧請された稲荷神社に、遊女たちの名前が刻まれた常夜燈があるということであり、竹袋村がどういうところにあるのかといったことについても興味を抱きました。

 木下河岸は、この竹袋村の新田地帯、利根川に沿った渡し場を中心にして発達した河岸であり、「木下」は、竹袋村の小字名であったのです。

 印西市大森図書館を出たのは12:20。バイパス(県道356号線)に出て右折。バイパス沿いに道を進みました。途中、右手のガソリンスタンドの方に、竹袋稲荷神社についてお聞きすると、「この道を進んで信号のある交差点のところを右に行くと、赤い幟が並んだ神社があるから、あそこがその稲荷神社かも知れない」ということだったので、そのままバイパスを進んでいくと、「↑香取・成田←印西市街→佐倉」と記された道路標示が現れました。

 「交差点を右折する」ということは、佐倉方面へと向かう道筋をとることになります。

 右側は丘陵であり、佐倉への道はその丘陵の中を走り、曲がりながらゆるやかな坂道となっていました。道筋には馬頭観世音なども立っているから、この坂道は難所の一つであり、また馬頭観世音の立っている地点は竹袋村の入口にあたるのかも知れない。

 私は竹袋村は、丘陵のふもとにある集落かと勝手に思い込んでいましたが、どうも丘陵の上、平地にある田んぼからは坂道を上がったところにある集落であるらしい。木下河岸からはかなり距離的に離れています。

 木下河岸を中心に発展していった木下の町は、もともとは人家がほとんどない水田地帯(竹袋村の新田)に出来上がっていった町であるということができます。

 坂道を上がりきって竹袋の集落に入っていくと、通り右手に、「印西町指定文化財 鋳銅鰐口(ちゅうどうわにぐち)」の案内板が現れました。


 続く


○参考文献
・「木下河岸と鮮魚輸送(二)」山本忠良(『印西町の歴史 第三号』)
・「木下河岸の人々のくらし ─後編─」榎本正三(『印西町の歴史 第六号』)
・『女たちと利根川水運 河岸・遊郭・女人信仰』榎本正三(崙書房)


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