鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.5月取材旅行「鎌ヶ谷~白井~木下河岸」 その6

2011-05-12 05:17:55 | Weblog

 白井宿の外れで木下(きおろし)街道はゆるやかな下り坂となり、左手に「神崎川土地改良記念碑」や「印旛沼土地改良区神崎川支区組合員」と刻まれた碑を見て、白井橋を渡ります。この白井橋の下を流れる川は、記念碑などから「神崎川」であることがわかります。

 白井橋を渡ると、「ちばレインボーバス」の「神々廻坂下」というバス停が現れましたが、ここから先の上り坂が「神々廻坂」という名前であることはわかるものの、この「神々廻」という漢字の読み方がわからない。バス停の看板にもふりがなはなされていません。

 ゆるやかな坂道を上がっていく途中の電柱には「神々廻」という地名が記されています。

 坂の途中、左手の通り沿いの畑で農作業をしていた女性に、「ちょっとお尋ねしていいですか」と声を掛けて、「このあたりの地名は何というんですか」と尋ねてみました。手拭いとマスクをしているおばちゃんは、「ススバ」と教えてくれたので、「ススバですか」と確認すると、「いや、違う」と顔を振りました。マスクを取って、手に指文字で書いて「シシバ」だと教えてくれました。

 「へぇー、『神々廻』と書いて『シシバ』と読むんですか。変わった地名ですが、何かいわれがあるんですか」

 と重ねてお聞きすると、「むかしからこう読んでいて、なぜそういう漢字なのかはよくわからないね」

 ということでした。

 「シシバ」というと、猪(いのしし=シシ)や場(場所)を連想し、猪がよく出る場所のことなのかと思ったりしてしまいますが、これに「神々廻」という当て字をした(漢字の地名を施した)とすると、なぜそのような難しい漢字にしたのかがわかりません。

 難読地名の一つでしょう。

 坂道(神々廻坂)の途中から、坂の両側には雑木林が迫ってきて、かつてこの坂が雑木林の中の薄暗い坂道であったことがわかります。

 坂を上がりきると、信号のある交差点が現れ、「←白井市民プール」という案内標示がありました。その交差点からしばらく歩いて道端の垣根にその半分が埋もれるように立っていたバス停の名前が「神々廻」。先ほどの坂下から、坂を上がったこの台地上の一帯が「神々廻」という地名であることがわかります。さらにそこから7分ほど歩いて現れたバス停の名前が「神々廻木戸」。

 「馬頭観世音」(文字塔)を見ながら、「ちばレインボーバス」の「白井車庫」前を通過したのが10:48。この「白井車庫」が「千葉レインボーバス」の本社・営業所であるようです。

 「白井車庫」を過ぎてから現れたバス停が、「白井市循環バス『ナッシー号』」の「十余一平塚道」。この「十余一」にもふりがなは打たれていません。

 左手にあった立派な石屋さんの店先に出ていた女性にお聞きすると、「とよいち」と呼ぶのだという。これも地名としては変わっています。

 やがて「石尊阿夫利神社」と記された大きな看板が行く手に見え、まもなく「阿夫利神社」という石額が掛かった大きな石鳥居の前に差し掛かりました。「石尊阿夫利神社」と言えば、これは大山信仰と関係があるのは間違いありません。大山の阿夫利神社(石尊大権現)信仰は、富士信仰と同じく関東一帯に広がっていたから、この地域にも大山講があったものと思われます。興味が惹かれたものの、左手に入る舗装道路はあるものの参道らしきものは見当たらないので、立ち寄らずに先を急ぎました。

 このあたりの地名は、電柱の地名標示や「ふれあいバス」のバス停看板から、「浦幡新田」であるということがわかります。木下街道は、このあたりでは台地上をまっすぐに延びています。


 続く


○参考文献
・『旭市史 第三巻』(旭市役所)



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