横山松三郎は、幼少期より絵を描くことが好きであったらしい。彼はエトロフ島で生まれ、その後、箱館に移って、嘉永5年(1852年)頃に箱館の呉服商堺屋八右衛門の店に丁稚奉公(でっちぼうこう)に入っています。「北斎漫画」の模写をしているというのは、この函館における丁稚奉公時代の頃だろうか。嘉永7年(1854年)にペリー艦隊が箱館にやってくると、随行カメラマンであるエリファレット・ブラウン・ジュニアが写す写真(ダゲレオタイプ)に興味を持ちますが、それからまもなく肺病を患い、療養のため丁稚奉公を辞めています。それから松三郎が何をしていたのかはよくわかりませんが、万延2年(文久元年)頃には、ロシア人画工レーマンの助手となり、西洋画(水彩画や油絵)の技法の習得に励んでいたようです。後年の、松三郎の朝顔や楓、直方体と三角錐のデッサンなどを見ても、その技量の高さが伺える。「北斎漫画」の模写や、西洋画を描くためのデッサンなど、若い時の写実性を追及した絵の修練が、後の彼の写真師としての技量の高さにつながったものと思われます。 . . . 本文を読む