『旭市史 第三巻』におさめられている史料から、文政8年(1825年)前後のものを絞って、名主に「弥右衛門」という者がいないか探してみました。すると文政8年の「八手網冥加分一に付下知書」に出てくる椎名内村の名主は「栄次」、組頭は「半蔵」となっていて、名主は「弥右衛門」ではありません。ほかに出てくる名主は「重右衛門」など。しかし文政12年(1829年)7月の「触書請書」の中に「彌右衛門」という名前があり、この人物が崋山が白井宿「藤屋」で話を交わした相手であったかも知れない。しかしその「彌右衛門」が文政8年の6月ないしそれ以前に椎名内村の「名主」であったかどうかは、結局確認することはできませんでした。 . . . 本文を読む